第11話 結婚式の翌朝
――学園を卒業し、十八歳でヴィオレッタはエルネスト・ヴォルフズ侯爵と結婚した。
ヴォルフズ領での結婚式の翌朝、ヴィオレッタは不思議な気持ちで目覚めた。
「――あら。わたくし、エルネスト様とお会いしていたわ」
ひとりベッドで身体を起こした状態で、ぼんやりと呟く。
貴族学園時代、中庭で一度だけ会話した『氷の貴公子』――彼がエルネスト・ヴォルフズで間違いない。
あの顔、あの瞳、あの雰囲気。
同一人物で間違いない。
心臓がそう言っている。
(いえ、会話はしていないわ――一方的に食べ物を渡して消えたから)
こうやって思い返せば、とても変な行いだ。
(それにしても、あのときの彼がエルネスト様だったなんて……)
驚きと共に、重いため息をつく。
「エルネスト様は覚えていらっしゃるのでしょうか……覚えていないでしょうね」
お互い名乗ることもなく。
その後も遠目から見かけるだけで、会話することもなかったから。
しかも『氷の貴公子』は、あれからすぐに学園を退学してしまった。
爵位を継ぐために辞めたという噂だった。女子生徒たちの嘆きはかなりのものだったが、一か月もすれば話題に上ることはほぼなかった。
少女たちの憧れは移ろいやすいものである。行事で活躍した男子生徒や、新しく赴任した教師に関心は移っていく。
(わたくしの悪評が広まって悪目立ちを始めたのは、わたくしの卒業直前……エルネスト様はとっくに辞められていましたから、わたくしのことなど印象に残っていないでしょうね)
覚えていたとしても、変人としてだろうから、忘れられたままの方がいい。
(それにしても、奇妙なめぐりあわせだわ)
――ヴィオレッタの噂話は、卒業直前から流れ始めた。
噂の内容は、婚約者のいる男性を誘惑したやら、パーティで、一夜限りの相手を漁っている――等々。とてつもなく「ふしだらな」ものばかりだった。
もちろん心当たりは一切ない。
ヴィオレッタは社交より農作業の方が好きで、学校以外の時間は屋敷で実験や勉強をしていたし、長い休みになれば領地に飛んでいた。
男性と遊んだことなどまったくない。デートすらない。
卒業後も、領地で農作業をするのが楽しすぎて、王都にもほとんどいなかった。
なのに、王都ではヴィオレッタの妙な噂話――悪評がますます広まっていった。
そんな状態では、まともな縁談は望めない。
事実、婚約話のひとつも持ち掛けられることがなかった。
家族は悪質な嫌がらせだと怒っていたが、ヴィオレッタは特に気にしていなかった。このままなら一生家にいられる、と喜んでさえいた。
――なのに、父がヴィオレッタとエルネスト・ヴォルフズとの結婚話をまとめあげた。
いったいどんな卑怯な手を使ったのだろう。
借金問題で苦しんでいるエルネストに、多額の援助をすると申し出たのだろうが。
そうすれば悪名高い娘が片付く上に、侯爵家に恩を売れるし、ヴォルフズ侯爵家の血筋にレイブンズ家の血が混ざることになる。けっして高い買い物ではなかっただろう。
父は家族を愛する人だが、生粋の貴族であり、生来の商売人だ。
そしてエルネストはその話を受けざるを得ないほど、金銭的に困窮していた。
(可哀そうな御方よね)
家名と自身を金で売ったようなものだ。
やむを得ない結婚でも、個人のプライドまでは売っていない――という意思表示が、昨夜の発言に繋がったのだろう。
彼にとってはささやかな仕返しかもしれない。
(まあ、わたくしにとっては好都合)
ヴィオレッタは窓の近くに行き、外を見る。
小麦の収穫直前だというのに、遠目からでもとても豊作には見えない。
「――ああ、なんて……なんて改革しがいのある農地!! やることがたくさん!」
いまの小麦を収穫し、冬を越してまた種をまく春になるまでに、やるべきことはたくさんある。
「その前に、エルネスト様を送り出さないと」
侯爵領から王都までは、馬車で二週間。長旅である。
一応、名目上は妻なのだから、笑顔で送り出そう。
ストールを羽織って部屋の外に出ると、廊下に金色の毛並みの大きな犬がいた。
優しい顔つきと、尻尾を振る姿は、記憶の中の彼とよく似ていた。
「――きみは、あのときの子犬くんかしら?」
犬は小さく鳴いて、ヴィオレッタに向けて軽く頭を下げる。
ヴィオレッタはその頭を優しく撫でてから、玄関ホールに向かった。
玄関ホールから外に出ると、いままさに出発しようとしているエルネストの姿が見えた。護衛と従者、執事に囲まれて最後の打ち合わせをしているようだ。
その集団の中でも、エルネストの姿はひときわ輝いているように見えた。
(やっぱり、綺麗な御方)
ヴィオレッタは玄関から出たところで、立ち止まった。
昨日あれだけのことを言われたのだから、遠くから見送るだけにする。
嫌いな相手に近づかれるのは、不快に思うだろうから。
(愛されないのはともかく、嫌われるのは少し悲しいわね)
その時、エルネストがヴィオレッタの方に歩いてくる。
忘れ物でもしたのだろうか。邪魔をしないように少し横にずれようとしたが、エルネストの目はまっすぐにヴィオレッタを見ていた。
動く間もなく、正面から向き合う格好になる。
ヴィオレッタは戸惑った。
今度は何を言われるのだろうかと、思わず身構え、目を伏せる。
「……昨日は、すまなかった」
小さく、だがしっかりと耳に響いた謝罪の言葉に、ヴィオレッタは驚いた。
ヴィオレッタは顔を上げ、感情の読めない夫の顔を見上げる。
そして、微笑む。
「いえ……気にしていませんので。いってらっしゃいませ、旦那様。どうかお気をつけて」
「……ああ」
それだけ言い、エルネストはヴィオレッタに背中を向けて馬車に乗り込んでいく。
出発し、遠ざかっていく一団の影を、ヴィオレッタはしばらく見送っていた。
「奥様、そろそろ中に戻りましょう――」
執事セバスチャンが声をかけてくる。
「そうですね……」
屋敷の中に戻ろうかと思ったとき、空に黒い点が浮かんでいることに気づいた。
黒い点はすごい勢いでどんどん大きくなっていく。
その存在に気づいた使用人たちもざわめき始める。
巨大な黒い鳥――
「奥様、早く家の中へ――!」
「クロ!」
「……く、クロ?」
間違いない。
あのシルエット、あの瞳、あの顔。
戸惑うセバスチャンの横をすり抜け、ヴィオレッタはクロに向けて駆け出す。
クロは悠々と地面に着地し、丸い眼でヴィオレッタを見る。
ヴィオレッタは嬉しくなってクロの首に抱き着いた。
「わたくしを追いかけてきてくれたの? なんていい子なのかしら! ……あら、鞍に何か……」
ヴィオレッタ専用の鞍に小さな紙が挟まっていた。
――クロが行きたがるから行かせる。
名前も書いていない短い手紙。
手紙の主はオスカーに違いない。
(ありがとうございます、お兄様)
兄に心から感謝しながら、クロの毛並みを撫でる。
クロがいれば、どこにでも行ける。ヴィオレッタの自由の翼だ。
屋敷の方を振り返る。
執事セバスチャンや使用人たちが全員何が起こっているかわからないという顔をしていた。怖がっていたり、唖然としていたり。
「この子はわたくしの黒鋼鴉――クロです。とても頭が良くて優しい子ですから、怖がらなくて大丈夫ですよ」
ざわめきが起きる。
どうやらこの土地の人々は黒鋼鴉に馴染みがないようだ。
「セバスチャン。旦那様はわたくしのことで、何かおっしゃっていたかしら?」
「――す、すべて奥様の希望通りに、と仰せつかっております」
――エルネストはヴィオレッタとの約束を守ってくれている。
自由にしていいと。
ヴィオレッタは満面の笑みを浮かべた。
「それではまず、土虫がたくさんいるところを教えてくださる? クロにご褒美を上げないといけませんから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます