こんにゃく

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こんにゃく

「こんにゃくがいいらしいんだよ。切り込み入れてレンジで程よく温めんの。それだけ」

 部活の友達からそんな話を聞いた日、誰もいない家に帰り麦茶を求めて冷蔵庫を開けると、あろうことかこんにゃくが入っていた。灰色で黒い粒々が入った、煮物とかによく入っているあれ。ビニールの袋にみっちりと詰まっていて、袋の外から触っても弾力を感じられる、パツンパツンのこんにゃく。こんにゃくを前にして、自分がこんなにも葛藤する日が来るなんて思ってもみなかった。

 高校生の自分にはお金が無い。代わり映えの無い毎日に彩りを沿えるためのグッズに手を出すほどの余裕もない。クラスメイトの猛者が兄から貰い、なんとも良さそうな顔で使用感を話していたから興味がない訳ではないのだが、中々手を出せるような代物ではなかった。残念ながらうちにいるのは姉だし。自分で買うにしてもドンキホーテの黒いカーテンの向こうに堂々と入ることもままならなければ、レジで店員さんに渡して会計してもらうなんて偉業を自分が達成出来る訳がない。店員さんが女性だったらどうしてくれる。

 彼女? もちろんいない。

 こんにゃく、というのはあまりに程よい立ち位置にいると思う。毎日出会う訳でもなく、週に一回会えたらいい方。こんにゃくとの関係は近すぎず遠すぎず、謂わばたまにすれ違う近所のお姉さんのような距離感だと思うのだ。

 だから、手を出してもいいんじゃないかな。

 長々と書いているけれど、行動に移すのは早かった。麦茶も自分の喉の乾きも忘れ、ボールとボールの間にあったこんにゃくに手を伸ばす。なんせ今潤すべきは喉ではないのだから。

 まな板にこんにゃくを置いて、包丁で切り込みを入れる。普段料理をしていないから、少し触ればたゆんたゆんと震えるこんにゃくに横から切り込みを入れるのは中々に難しい作業だったが、なんとか出来た。切り込みは斜めに入ってしまったが、まぁこの際見栄えなんてどうでもいい。入ればいいのだ、入れば。

 こんにゃくを皿に移してレンジで二分。ガラスの向こうで黄色い光に照らされながら回るこんにゃくを俺は鼻歌混じりに待っている。こんなにワクワクしながらこんにゃくがレンジから出てくるのを待つことがあるなんて思ってもみなかった。

 チン、と音が鳴り皿をレンジから出す。冷めない内に俺は洗面所へと向かい、脱衣場でズボンとパンツを下ろした。

 トイレでは無くお風呂場で致すことにしたのは、もしも家族が帰ってきたときに時間が稼げるからだ。トイレは玄関側にあるため、万が一帰って来た家族と鉢合わせたときにこんにゃくなんて持っていたら何も言い訳が立たない。風呂場は玄関から廊下を進みリビングの奥にある台所の更に向こうに位置していたから、最悪こんにゃくの処理までは出来なくとも、数歩でいける台所に置いておけば違和感は無い。

 装着は完了。Fから始まる動画サイトを開き、お気に入りフォルダから素人ものを選択。スカウトとインタビューは、急いでいるから飛ばす。

 ちなみにAV女優が脱いだときに下着の線が残っていない場合は本物の素人じゃないらしい。プロは撮影前は下着を数日から一週間着用せず、線が残らないようにしているとか。なんて意識が高いんだろう。この話をしていたのもクラスメイトの猛者だった。聞かなかったことにした。

 素人は慣れてない感じがいい。街頭で声を掛けられて、恥じらいながら承諾するのもいい。そんな色白で清楚で白いワンピースの似合う子が、だんだんと快楽に溺れちゃって、そんな。

「………………っ」

 正直に言おう。悪くは無かった。

 切り込みを大きく入れすぎたからフィット感がいまいちだったことと、少し温め過ぎたことは反省だが、概ね悪くは無かった。普段とは明らかに違う感覚で、差別化が図れたように思う。

 全体を温かいもので包まれているって気持ちいいんだな。

 こんにゃくを外す。

 ただ、俺は何をやっているんだろうなという無力感と罪悪感がだんだん湧いてきた。こんにゃくをこんな姿にしちゃって何やってるんだろう。食べ物では遊ぶなって昔からばあちゃんに散々注意されていただろう? こうなったらもう捨てるしか無いじゃん。冷蔵庫にあったからには、親が煮物でも作るために買ってきていたのだろう。無くなったことに気付かれる前に、補充しとかないと。

 冷えたこんにゃくを皿に戻したとき、動画を再生しっぱなしだったiPhoneが鳴って肩が跳ねる。誰かと思えば、部活の同期だった。こんにゃくを教えてくれた奴だ。もしかして見られているのか!? と焦りながら電話に出る。

「な、何もしてないぜ?」

「は? 何もまだ聞いてないんだが? 怪しい奴だな。ナニやってんだか……今はお前のこととかどうでもいいんだって。来週と再来週の体育館の使用なんだけど、バレー部が来月試合だから土日にもう一面使いたいらしくてさ。サブアリーナでもうちは卓球出来るから調整しようかと思うんだけど、どこがいいと思う?」

 どうでもいいとか言われた。少し寂しかったが深掘りされても困るので、流してくれて安心した。

「ちょっと待って、体育館の使用予定表見るわ」

 同期を電話の向こうで待たせて、いそいそとティッシュで拭い顕になっていたモノを仕舞う。こんにゃくは一旦調理台に。二階の自分の部屋へ行き、カバンを漁り使用予定表を探すが思っていたファイルに入っていない。おかしいな、と探していると一階からガチャリと玄関の扉の開く音が聞こえた。この時間に帰ってくるのはおそらく大学生の姉だろう。いつもより早い帰りだなと思いつつ探していると、現代文のファイルから目的のプリントが発見された。適当に突っ込んで間違えたのだろう。

「じゃあ日曜日で話つけとくわ」

「おう、よろしくなー」

 相談が終わり、少し世間話をして電話を終える。そのまま練習場所が変わった旨の文面を作り、LINEで部員に知らせた。時計を見ると思ったより時間が経っていた。喉が乾いていたことを思い出し、一階へ下りる。すると……あろうことか姉がキッチンに立っていた。

「姉ちゃん、何やってんの……?」

 心臓が、変な速さで鳴っている。そうじゃないですようにと願いながら台所を覗くと、流しにはニンジンやタケノコを切ったのであろう生ゴミ、調理台にはボールが二つ、そして見慣れた皿が置いてある。姉は木ベラで鍋をかき回していて、そこには──こんにゃくが見えた。

 バレンタインのときくらいしかキッチンに立たない姉が、なぜ今日に限って料理を。

「最近のおばあちゃん、食が細いでしょう? 好きなものを可愛い孫が作ったなら少しでも食べてくれるかなって」

 うちの家は両親、祖父母、姉と俺の六人家族だ。じいちゃんもばあちゃんも元気でまだ介護が必要という訳ではないのだが、やはり年のせいか胃腸は弱っているらしくばあちゃんは以前ほどご飯を食べられなくなっていた。それを見ていた姉が、このたび一念発起しておばあちゃんの好物を作ろうと立ち上がったわけだ。なんておばあちゃん思いの孫だろう。泣けてくる。いろんな意味で泣けてくる。

「お母さんに食材頼んでたんだけど、大根とかの食材の下処理とかしてくれてたみたいなんだよねー。おかげで私はちょっと切って煮込むだけ! 筑前煮、楽しみにしててね!」

 こんにゃくの側にあったボールには、他の食材が入っていたことに今さらになって知る。こんにゃくも、下処理したと思われたんだろうな……。

 このまま筑前煮を完成させる訳にはいかない。

「えっと、それ、食べない方が」

「は!? お姉ちゃんの作った料理は食べられないって訳!? 安心してよ、料理動画を何回も見て予習は完璧。お母さんほどじゃないけど、食べられるものは作るわ」

 任せときなさいとでも言うように背中をバシバシ叩きつつ台所を追い出されるが、違うんだ。けど、なんて説明すればいい?

 姉はiPhoneで分量を確認しながら調味料を入れていく。あと少し煮込めば筑前煮は出来上がるのだろう。いっそ鍋の中身を思いきり流しに捨ててやりたいのに、おばあちゃんのことを思って作る姉の気持ちを無下にするなんて。いや、こんにゃくとその出汁を食べさせる方がまずいだろ!? このままにする訳にはいかないと、俺は改めて姉に向き直る。

「姉ちゃん、訳は言えないがその鍋ちょっと俺に貸し」

「おじいちゃん、おばあちゃん、おかえりー!」

 俺が話している途中に扉が開き、祖父母がデイサービスから帰って来た。リビングに来た二人に姉がキッチンから声をかける。ばあちゃんは何かに気付いたのか、くんくんと辺りを嗅ぐ仕草をする。

「なんだか甘辛いいい匂いがするねぇ」

「気付いた? なんと今日は、おばあちゃんの好きな筑前煮です!」

「あんたが作ったのかい? 楽しみだねぇ」

 姉とばあちゃんが笑い合いながら話していて、その姿を寡黙なじいちゃんが見守って微笑んでいた。

 …………俺は無力だ。俺は姉の隣で立ち尽くしたままこの空気に合わせるように曖昧に笑いながら、目はずっと鍋だけを見ている。この状態からあの鍋の中身を捨てるにはどうすればいい? 考えても一向にいい案は思い浮かばず、その内に仕事から父と母が帰って来た。

「いい匂いね。上手く出来た?」

「それは食べてのお楽しみ!」

「お前の作る料理を食べるなんて、いつぶりだろうな?」

「もうお父さん、バレンタインのときに手作りのトリュフあげたでしょう!」

 あはははは、と皆が談笑している。

 こんにゃくに手を出さなければ、俺もこの朗らかな日常に混ざれたのに、どうして。

 夕食の時間になり、テーブルに皿が並べられる。ご飯、味噌汁、ほうれん草のお浸し、筑前煮……全員分の筑前煮の皿をテーブルから落としてやりたいが、俺にはそんな思いきったことも出来やしない。

「いただきます」

 皆が箸を持ち、筑前煮に手を付ける。

 ああ──食べてしまった。

「あら、美味しいわ。味付けがいいのかしら? これならいっぱい食べられそう」

 おばあちゃんが優しい笑みで姉に言う。

「さすがお姉ちゃん、料理の腕は母さんに似たかな?」

「私は何も教えてないわ。予習までして頑張って作ったんでしょう? これはお姉ちゃんの頑張りの美味しさよ」

 父さんも母さんも、姉のことを褒めている。お世辞じゃなく美味しそうだった。

「……うまい」

 いつも寡黙なおじいちゃんが、低い声で溢すようにそう言った。一口、また一口と姉の料理を食べている。バレンタインのチョコレートを姉に貰っても、礼は言っても褒めはしない、あのじいちゃんがこの筑前煮を褒めている!

「今まで食べてきたどの筑前煮よりもうまい。隠し味は?」

「それはもちろん、おばあちゃんとおじいちゃんへの愛だよ!」

 やめろ、やめてくれ。もうその筑前煮を食べないでくれ。隠し味は動画の向こうの白いワンピースの子への独り善がりな愛だなんて言えるわけがない!!

「おかわり」

「私も貰おうかねぇ」

「注いでくるね。おじいちゃんとおばあちゃんにはいっぱい食べて欲しいから! あれ? あんた全然食べてなくない?」

「ごめん、俺ちょっと腹の調子悪くてさ。先に自分の部屋に戻るわ」

 もうこのハートフルな食卓に居続けることは出来なかった。見ていられなかった。食卓が暖まれば暖まるほど、俺は居場所を無くしていく。直視できないんだ、この現実を。

 俺はゾンビのように階段を上がって自室に戻り、胸を押さえつけながらベッドに倒れこむ。訳の分からない汁が目から出ていた。鼻もぐずぐずで喉もカラカラで、気持ちの悪い嗚咽が自分の身体から発せられた。

 ごめん、姉ちゃん。

 ごめん、ばあちゃん。

 ごめん、じいちゃん。

 ごめん、母さん。

 ごめん、父さん。

 ごめん、こんにゃく。

 ごめん、筑前煮。

 おかしいな。目眩と動悸が激しいんだ。誰か俺を殺してくれ。

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