第156話 犬神家、再始動
「それじゃ、行ってくるね。お兄ちゃん」
規則正しい機械音が鳴り、点滴を受けて眠り続ける拍の隣で狛が呟く。その声は今の拍には届いていないだろう、しかし、黙ってそこを離れることはしたくなかった。
個室だが、とても広いとは言えない病室を出ると、扉の横に立って待っていたのは猫田である。腕を組み、目を瞑って静かに狛が準備を終えるのを待っていたようだ。
「もう、いいのか?」
「…うん、後は
狛が少しだけ俯き加減で呟くと、猫田は黙って狛の頭を撫でてやった。本来ならば、不安で仕方ないはずなのに涙をみせず平静を装う狛の姿が、猫田から見ても痛々しい。しかし、状況は狛が落ち込むことを許さない。今の狛は、もう黙って泣いてはいられない立場にあるからだ。
槐とその仲間達により、犬神家が襲撃されてから一ヵ月以上が経過した。
あの一件で、狛だけでなく、犬神家は多くのものを失った。雷獣・
ハル爺が戦っている間、拍は逸る気持ちを抑えてその術を懸命に組み上げる事に注力していた。その甲斐あって、あと一歩で結界を打ち消せる所まで来ていたのだが、そこへあの稲妻である。敷地全域を飲み込む極大の稲妻は、その威力も凄まじく、まともに受ければ人の肉体など残らないであろうものだったはずだ。
稲妻が命中する直前に槐は結界を解き、狛達を一網打尽にしようと企んでいた為に、拍がそれを打ち破る前に結界は消えた。それを悟った拍は、瞬時に術式を切り替え、結界を張り直すことにしたのだ。
それは時間にして、1秒もない刹那というべき瞬間だったが、拍はそれを見事にやってのけたのである。元来、結界を張る方を得意としていた拍だからこそ出来た芸当と言えるだろう。ただし、その代償として、拍は全霊力を一気に消費しきってしまった。一時は心臓が止まるほどの状態であったが、狛が霊力を供給することで、何とか一命を取り留める事は適った。しかし、未だに意識は戻らず、拍は眠ったままだ。所謂、植物状態である。
また、槐の追撃を避ける為、市内にある犬神総合病院に入る事が出来なかったこともマイナスであった。槐率いる犬神家調査部は、日本国内に相当な情報ネットワークを持っている。特に、一族内部の事に関しては知らぬことなどないだろう。その状況で、拍や他の者達を病院に連れ込めば、彼らが生存している事が明らかになってしまう。
槐の事だ、もし生存が確認出来れば、即座に刺客を送り込んでくるだろう。下手をすれば一般の患者や勤務している職員まで巻き込んでしまうかもしれない。それは絶対に避けなければならなかった。その為に、わざわざ
その病院は、
「来たか、狛よ…」
猫田と共に病院内の受付スペースに行くと、分家当主達を含め、あの時本家に集まっていた全員が勢揃いしていた。大人も子どもも含めた全員が、狛を注視している。この一ヵ月の間、極力調査部に知られないよう厳重な注意を払ってこの病院に潜伏していたが、槐からの追撃はない。各々の生活も考えれば、そろそろ動き出してもいい頃合いだろう、という判断である。
期せずして、それは槐達の組織が動き出すタイミングとほぼ同時だったのだが、この時の彼らはまだそれを知らない。
「皆…」
「拍が意識を失って一ヵ月、槐と意識の戻らぬ
「うん…いや、はい。謹んでお兄ちゃんの代わりを引き継ぎます。皆、まだ頼りない私だけど、ついてきて!」
「応!」
その場にいる、全員の声が重なった。彼らは皆、血の結束を強くもっている。それだけに槐の反抗はイレギュラー中のイレギュラーであり、大きな痛手ではあったが、彼の反逆とハル爺を失った無念が、より強い連帯の意識を持たせる結果となったのは不幸中の幸いと言えるかもしれない。
(大したもんだ、あれだけの事があっても、コイツらはへこたれてねぇ…!さすが、宗吾さんの子孫だな)
猫田はその様子を見ながら、一人満足そうな表情を浮かべていた。胸に燻る怒りはあるが、怒りと怨みに飲まれては過去の自分と同じ結果になってしまう。皆が復讐心だけの獣になってしまうなど、当のハル爺が望んでいないだろう。冷静さを保ちつつ、反撃のチャンスを待つ、そして元の生活に戻るのだ。
(ハル爺、仇は討つぜ…必ずな!)
それは猫田なりの、ハル爺に対する手向けの言葉でもあった。初めは狛をサポートして面倒を看るだけのつもりだったはずが、ここまで肩入れする事になるとは思っていなかったが、それもいいだろう。かつて、同輩の白猫が猫田に語った言葉の意味をふと思って、猫田は決意を新たにするのだった。
「それで、これからどうしよう?皆は何か案はある?」
「やはり、槐めを討ち取るか、身柄を抑えねば我々も安全に元の生活には戻れまい。ここは奴を探し出し、戦うのが先決だと思うが…」
「いや、待て待て!儂らや戦う力のある者はそれでも良いが、こちらには子どもらもおるのだぞ?まずは安全に生活できる場を確保するのが先ではないか?」
「しかし、調査部の連中を出し抜いて、我らが安全に暮らせる状況というのも思いつかんな…幸い、会社などは残った者達で運営できるが。この大所帯となるとな…」
ああでもないこうでもないと、喧々諤々の議論が巻き起こる。一族は全員無事だったとはいえ、やはり本家屋敷という拠点を失った損失は大きい。どうしたものかと頭を悩ませていると、不意に建物の外からこちらを窺う視線を感じた。
「誰!?」
狛と猫田だけがそれに反応し、即座に走った。他の者達は議論に集中していた為か、気付いたのは狛達二人だけである。もしも、調査部の誰かだとしたら彼らの情報収集能力は想像以上のものということになる。狛は内心に焦りを抱えつつも、それを表に出さないように、がむしゃらに何者かに向けて走った。
「ぐわっ!な…なんで解ったんだ!?」
「男…!?あなたは一体誰!?答えて!!」
猫田が先回りして動きを止めた後、すぐ追い付いた狛が、男の腕を取って強引に捻じ揚げ、引き倒した。男は気付かれるとは思ってもみなかったらしい。狛がその腕に力を込めると、大声で叫んだ。
「痛っててて!よせ、折れちまう!放せよ!」
「だったら質問に答えて!」
「ん……?おい、狛、待て。コイツなんか…なんだ?懐かしい匂いがする」
「え?」
猫田はそう言うと、大きな猫に変化して倒れている男の匂いを嗅ぎ始めた。目の前で人間が巨大な獣に変身したというのに、男は驚く素振りを見せず、ただただ痛みを訴えるばかりだ。すると、狛の影からイツが飛び出して、男の頭に飛び乗り頬を舐めた。
それを見た猫田は、ハッとして、息を呑んだ。
「コイツの匂い、宗吾さんに似てるっつーか……そうか、イツだ。コイツ、イツと同じ匂いがするぞ?!」
「ええっ!?ど、どういうこと?」
「いいから、放せーーーーっ!!」
そんな三人の驚きの声が、山々にこだましていった。
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