第130話 異説の始まり

『はっ…はっ…!』


 亜那都アナトが懸命に走っている暗い洞窟の足元は、本来であればとても危険な場所だ。卑弥呼の力によって造成されたとはいえ、元は悪路中の悪路である。普通の人間ならば、まず間違いなく歩く事さえ困難だろう。

 だが、亜那都アナトの目には、何故か鮮やかに進むべき道が見えている。それは彼女の中の力が、妖の性質に触れて感化され、暗闇を味方につけた証であった。彼女は生まれた時から走ったことなどほとんどなく、着ている服装もとても体を動かすのに適しているとは言い難いものであったが、それでも追い縋る魑魅魍魎達から、辛くも逃げられる程度の速さは維持できているようだ。


(息が苦しい…これが走るということか。私は何も知らない。知らない事だらけだ、生きていく上で誰もが知っているような事を、私はなにも…!)


 ひたすらに走りながら、亜那都アナトは自分の生き様と愚かさを噛み締めていた。何もかもを失い、最愛の兄妹達をも犠牲にして、自分に生きる価値があるのかと、彼女は考える。一方で、あれだけ生きていくのがもう嫌だと喚いても、何も知らぬまま死ぬことが無性に悔しく思えてきた。生き汚い恥を晒してなお、生き残る事に意味はあるのかと、自身に問うた。


 だが、そんな心とは裏腹に、彼女の足は、身体は決して止まろうとはしていない。それがナシガリの願いだからなのか、まだ己の内に生きようと願う思いがあるからなのか、その答えが知りたくて、亜那都アナトはひたすらに走り続けていた。



 

『兄様…なんと、なんというお姿に……』


 その頃、ヒリヨミは、変わり果てた兄の姿を前に呆然と立ち尽くしていた。強く美しく鍛え上げられたナシガリの肉体は、まるで石像のような石灰色に変わっていて、顔は人の形など残していない、不気味に角張った仮面のようである。唯一残っているのは瞳だけだが、優しかったその眼は、人であった頃のそれとは似ても似つかない恐ろしい光と怒りを宿していた。


(私ももうじき、このような姿になるのか)


 身体のあちこちが、自分の身体ではなくなっていく感覚に見舞われながら、ヒリヨミはそう思った。漠然とだが、そんな予感がする。兄ナシガリは誰よりも強く、勇猛な戦士だった。自分もそうありたいと思い続けて、女だてらと一緒に戦ってきたけれど、よもや最期は同じ妖怪…物の怪に成って果てるとは想像もつかない終わり方だ。


(だが、それもいい。兄様と同じ怪物になり、大事な家族を守って終われるのならば、それは名誉だ。しかし、アナト様は、無事に逃げ切れただろうか…?)


 幼い頃に両親を亡くし、兄と二人で彷徨っていた頃、唐突に見知らぬ大人たいじんに拾い上げられ、連れて行かれたのは女王卑弥呼の神殿であった。見た事もない美しい品々に囲まれ、かぐわしい香りの中で多くの女性に囲まれた卑弥呼はまさに我が目を疑うような美人で、薄汚れた自分達を我が子のように優しく抱きしめてくれた時、もう死んでもいいと思ったほどだ。


 そうして、当時としては珍しい温かい湯と水で身を清めてくれた後に引き合わされたのが、二人が姫と呼ぶ娘…まだ赤子だった亜那都アナトだった。


『この子は妾の娘、しかし、共に暮らす事は出来ぬ。…故に、そなた達に頼もう。この子と共に生きて欲しい。我が民は全て我が子同様であるが、お前達は特別だ、ナシガリとヒリヨミよ、頼んだぞ』


 瘦せ衰えて満足に喋る事も覚束ぬ自分と、そんな妹を守ろうと警戒して口を利かなかった兄ナシガリは、どうして卑弥呼が自分達の名を知っているのか不思議だった。それこそが、卑弥呼を女王として君臨させる力の一端であると知ったのは、物心着いてからのことだ。


 そうして、三人は一緒に暮らすことになった。

 

 当初は、幼いながらも、亜那都アナトを大事にしなければ捨てられるからと戦々恐々としていたのだが、しばらく一緒に暮してみると亜那都アナトはとても素直で優しい良い子だった。

 子どもにありがちな独占欲やワガママを言う事もなく、いつも二人を立てて後ろから着いてくる。悲しい事があれば一緒に泣いて、嬉しい事も率先して共有しようとする彼女の事を、ヒリヨミはあっという間に大好きになった。むしろ、思春期以降は男である兄よりも、仲が良かったかもしれないほどだ。

 彼女が本当の身分を隠しながらも大人として扱われるようになってからは、昔のようにはいられなくなったが、それでも彼女は大事な、大事な妹分である。


 ヒリヨミは彼女の優しさが、どれだけ彼女自身を苦しめているかよく知っている。もっと彼女が傲慢で、残忍な性格であったなら、その力に迷い苦しむ事もなかっただろう。その場合、自分達はとっくにお役御免になっていたかもしれないが、それで彼女が笑って生きていけるならば、その方が良かったはずだ。

 だが、亜那都アナトは誰よりも優しく、繊細だった。身分の高い人間にとって、他人の命などたかが知れている。使い捨ての道具と同じだ。そんな人間を大勢見てきたナシガリとヒリヨミは、亜那都アナトと卑弥呼がどれだけ慈悲深く、善人であるのかを誰よりも思い知っていた。


 だからこそ、二人は助けたかったのだ。自分達が救われたように、亜那都アナトを盛り立て傍で支えることで、多くの人を助ける女王になって欲しいと、そう願っていたのだった。


 亜那都アナトの無事を願い、立ち尽くすヒリヨミの前に、異形の怪物と化したナシガリが立つ。二人の周りを大量の魑魅魍魎達が取り囲み、じっと見つめているようだ。

 

(私は、兄様に殺されるのか。それもいいだろう…アナト様、どうか、どうか健やかにお過ごし下さい。我ら兄妹はここまでです)


 銅製の双剣を握る両手は、既に人間のものとは思えない色や形に変わりつつある。どの道、怪物に成り果ててしまうのであれば、兄の手にかかって人として死ぬのも悪くない。ヒリヨミはそう考え、目を瞑った。己の運命を受け入れつつ、亜那都アナトの無事を祈って。

 

『グオオオオオオオ!!!』


 雄叫びと共に剛腕を振り上げたナシガリは、ヒリヨミではなく、自分達を取り囲む魑魅魍魎達に向かってその腕を振り下ろした。爆風のような威力で、多くの怪異が薙ぎ払われ、ヒリヨミはただただ呆然と立ち尽くしている。


『兄、様…?ああ、あなたはまだ、兄様なのですね…!』


 それを知ったヒリヨミの目に、涙が溢れた。その身体を異形に変え、言葉すら無くしてしまった聡明な兄は、生まれ変わった今でもヒリヨミと亜那都アナトを守ろうとしているのだ。早々に諦めてしまった自分と違って、やはりナシガリは、偉大な兄であった。


『…私は、自分が恥ずかしい。怪物になってしまうくらいなら死んだ方がマシだと、死に逃げようとしてしまった。兄様はどんなに変わっても、例え命を失っても家族を守ろうとしているというのに…!』


 その独白が、ヒリヨミの心に火を点けていた。彼女は涙と共に己の弱い心を捨て去るつもりだ。何も考えず、ただひたすらに家族を…亜那都アナトを守る、それだけの存在になろうと…その心に鬼を宿した。


『アアアアアア!邪魔、っだああああああ!』


 変貌した両腕に今まで以上の力を込めて、ヒリヨミは走りながら押し寄せる怪異を切った。早く…いやもっと速く、自分も兄と共に家族を守るためにと、彼女は人としての自分を捨てて誰よりも速い力を望み、亜那都アナトの元へ駆けだしていった。


 

『はぁっはぁっ!あと、少し…!あそこまで行けば…!』


 息を切らしながら、魑魅魍魎から逃れて亜那都アナトは封印の間のすぐ傍まで辿り着いていた。少し前から、追ってくる怪異の数が減った気がするものの、それでも油断は出来ない。依然として、洞窟の中には、恐ろしく強力な負の念が渦巻いていることを、彼女は本能的に悟っていた。


『ここが、私の…母様が用意して下さった、私の終の棲家か…』


 そこは、通路の先にあった大きな空間である。ここに来るまでは凶悪な怪異達の気配を感じていたが、この部屋の中だけは、そんなものが感じられない。更に奥へ進むと、美しい玉が置かれた台座があって、そこにはどこか懐かしい、安らぎを感じる静寂が満ちていた。

 

『これに、触れれば……』


 亜那都アナトは玉の前に立ち、それをじっと見つめている。完全に封印が施されれば、この洞窟の大半は卑弥呼の作った結界に護られて亜那都アナトは永遠にここで生きる事が出来るという。しかし、彼女はそれが納得できなかった。多くの人を死に追いやり、ついさきほどは、兄妹すらも見殺しにした。そんな自分が永の時間を生きるなど、許されるのだろうか?と。


 しばらく逡巡して躊躇っていると、やがて遠くから、物音が近づいてくるのが解った。自分を追ってきた怪物達がすぐそこまで来ているのだと、亜那都アナトは怯え、震えた。だが、同時に戦っているような音も聞こえてくる。もしかすると、あの二人はまだ生きているのかもしれない。そんな淡い期待を胸に秘め、しばらく気配を殺していると、封印の間に入ってきたのは彼女の知る二人とは全く違う、恐るべき二体の怪物であった。


『ひぃ!?』


 入ってきた怪物を前にしてアナトは一歩後退りそうになった。しかし、一向に怪物達はその場を動こうとしない。じっとそこに佇んでいるだけだ。そのお陰で、アナトは少し落ち着いて冷静になる事ができた。


『まさか…ナシガリとヒリヨミなのか?』


 アナトの問いかけに怪物達は答えない。だが、この部屋に立ち入られるのはアナトに対して敵意を持っていない者だけだ。卑弥呼の結界はまだ完成していないが、それだけの効果がある。


 それがわかっているからか、アナトは目の前の怪物達が変わり果ててしまった兄妹達だという不思議な確信があった。


『お前たち…私のせいだというのに、そんな姿になってまで、私と一緒に居てくれるのか?私と永遠を生きてくれると…すまない、本当にすまない。…ありがとう』


 アナトは泣いた。とめどなく流れる涙をそのままに、二人に近づいてその身体を抱き締めた。だが、その時再び無数の気配が集まり、アナト達のいる封印の間へと迫る音が聞こえてきた。


『またくるのか?…お前たち、こっちだ。一緒にいておくれ。もう離れて欲しくない…共に永遠を過ごそう。おいで』


 アナトはそう言って二人を呼び寄せ、台座に安置された玉に触れた。もはや微かな躊躇いもなく、愛する家族と一緒ならば咎も罪も恐くはない。アナトは安寧を手にする喜びに心を震わせていた。


 そうして、押し寄せる魑魅魍魎達の目の前で卑弥呼の作った封印と結界が発動した。


 それを見届けた狛の視点はまたも切り替わる。

 それはあの洞窟の入り口を見下ろす少し離れた丘のような場所のようだ。先程よりも少し時間が経ったのか、洞窟の周りにはそれを隠すように建物が立てられていて、技術の進歩が見てとれる。


 丘の上には時代がかった平安貴族のような着物を着た二人の男が立っていて、何かを話し込んでいた。


『また、駄目だったか』


『は、やはりあの従者であった二体の怪物が邪魔になりました。あれをなんとかしない限り、我らが母の元には辿り着けぬかと…』


『全く困ったものだ。我らが母にも…聞いたか?人間共はあの洞窟への入り口を埋め立てるつもりらしいぞ。元々は奴らにとっても貴い血筋のお方であろうに、よりによって埋めてしまおうとはな』


 紫の着物の男が鼻白んで呟く、それを聞いていたもう一人の男は焦ったように声をあげた。


『で、では急いで襲撃を…!』


『ならん。というより、構わぬ。人間共のやりたいようにさせよ、その代わり…』


 紫の着物の男は不敵な笑みを浮かべて言葉を続けた。


『噂を流すのだ、この先数十年…いや数百年に渡ってな。あの地に封じられたものが如何に恐ろしく残酷で、凶悪な妖の母であったかと。そうだな、名も変えてしまえ。亜那都姫アナツヒメ忌月亜那都姫イミヅキノアナツヒメというのはどうだ?そうして人間共の記憶から、本来のを消し去るのだ』


 妖怪というものは、人の口で語られる伝承や逸話によって、その性質を変える事がある。男の提案した事は、今や妖の領分にある亜那都姫アナトヒメを逆手にとって、人が忌むべき存在へ造り替えてしまおうという遠大な計画であった。彼ら妖怪には、人間とは違って途轍もない時間がある。それを利用した作戦であった。


『かしこまりました』


『ふふ、では楽しみに待つとしよう。真に我らの母が妖となる瞬間をな…』


 冷たい風が吹き込むと、二人の男達の姿は風に乗っていずこかへ消えた。こうして、忌月亜那都姫イミヅキノアナツヒメの伝説が生まれていったのだった。

 

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