第128話 忌まわしき力

「フフフ…さて、姫様。ようやくお会い出来ました、この時を一日千秋の思いで待っておりましたよ」


 既に両面宿儺は荒い息を立てながら、亜那都姫アナツヒメの隣で待機している。当の亜那都姫アナツヒメは、虚ろな表情で何かを見るともなく見ていて、その瞳に何が映っているのかは、傍目からは解らない。


 実理は着ていたモーニングのコートを脱ぎ捨て、上半身が裸になった。露わになったその身体は、鍛えられた筋肉の上に猿のような毛がびっしりと生えていて、続けて顔も皮をはぐように脱ぎ捨てれば、荒々しい狒々そのものの顔となった。


「グフフ…ようやく、人の真似事もする必要がなくなった。全く、人間の皮は動き難くて敵わん。…肉は旨いのだがなぁ」


 実理はそう呟いて、醜悪に顔を歪ませた。妖怪が人に変化する場合、その対象の生皮を剥ぎ、それを被って変化する事がある。実理の場合はまさにそれだった。哀れな犠牲者となった人の顔は、もはや原形をとどめていない。脱ぎ捨てた服や人の皮と共に、実理は紳士然とした態度も捨てたようである。

 それだけ、亜那都姫アナツヒメを操る目算があると言う事だろう。


 身軽になった実理は、亜那都姫アナツヒメの前に立ち、彼女の顔を両手で掴んでその目を覗き込む。焦点の合わない亜那都姫アナツヒメの瞳に、実理の目が映り、やがておぞましい血の色に瞳が染まり始めた。


「さぁ、亜那都姫アナツヒメよ、私を受け入れろ…!お前の意思は私が握り、お前の力とその身体を私の為に使ってやる!」


 実理の瞳もまた血のように朱く染まって、二人の瞳は共鳴を始めた。その身体の間に漂い揺らぐ妖気の波長が、ゆっくりと重なっていく様が、目に見えるようだ。それを許すまいと、ただ一人、吹き飛ばされた壁際で猫田だけがかろうじて立ち上がる。たったそれだけの動きで、猫田は血を吐き、身体をよろめかせた。


「ぐっ…アバラ、が…………だが、そんなことは言って、られねぇ!」


 折れたあばら骨が肺に刺さっているのか、呼吸がまともに出来ていない。猫田の受けたダメージはかなり深刻であるようだ。人間であれば致命傷だが、猫又である猫田はまだ動けている。しかし、一刻も早く正しい治療をしなければ命に関わるだろう。


 少し離れた場所とはいえ、猫田が立ち上がったにもかかわらず、両面宿儺は何故か動かない。じっと亜那都姫アナツヒメの隣に立ったままだ。さっきの獰猛な動きとは打って変わって、命令を待つ人形のように動きを止めていた。


「っ、ゴフッ…!クソ………!喰らえっ…!!」


 猫田は左手を上げ、その手に魂炎玉のエネルギーを集中させる。狛の偽物相手には避けられたが、今回は背後からで、しかもこちらに気付いておらず、距離も近い。避けられるはずがないのだ。

 怪我の為か、少し集中に時間はかかったが、なんとか一撃は放てそうである。震える腕を抑えつつ、猫田はその掌から強力な熱光線を放った。


 それは完璧に、背中から実理の心臓を撃ち抜き、その奥にいた亜那都姫アナツヒメの身体諸共に貫いていった。…だが。


「な、なに…?!」

 

 心臓を貫かれた実理の身体に、亜那都姫アナツヒメの肉が移り、その傷を補っていく。それだけではない、実理の身体そのものが亜那都姫アナツヒメと同化して取り込まれていっているのだ。


「クックック…礼を言うぞ。猫田とやら、亜那都姫アナツヒメは我ら妖の母、彼女は死にかけた同胞を決して見殺しにはしない。己の身体や力を分け与えてでも助けようとする。こうして何も考えられぬようになった今でもだ…!これでより早く、亜那都姫アナツヒメを取り込む事ができよう…ククク」


「お、俺の名前を…?それに、その姿…テメェ、さとりか…」


 力を使い果たし、猫田はその場に崩れ落ちた。そして、さとりと呼ばれた妖怪、実理は高らかに笑って亜那都姫アナツヒメの体内に飲み込まれていく。

 さとりとは、やまこという猿に似た妖怪の亜種と考えられている妖怪の名だ。他者の心を読む事が出来、非常に頭が良い。ただ、心を完璧に読める事から、人の悪意に触れる事が多いせいか、それを嫌って人里に現れることはほとんどない。本来は温和で、人と敵対することはない妖怪である。


 しかし、実理は違った。彼はさとりの中でも、特に珍しい力を持つ個体であったらしい。本来、他者の心を読むだけの妖怪であるはずが、実理はその生まれ持った特殊な能力によって、他者の心に己の心を上書きして操る能力を持っていたのである。

 外柴の催眠とは違い、操れるのは一体だけだが、心…精神を上書きしてしまう分、効果は強い。ましてや実理は、自らの肉体を亜那都姫アナツヒメと同化させることでより高度にシンクロさせようと企てている。それはもはや、彼自らが亜那都姫アナツヒメそのものになろうという目論見であった。


「グフフ…もうすぐだ、もうすぐ願いが叶う。両面宿儺よ、はしばらく動けぬ。邪魔者は貴様が排除しろ、よいな」


 実理がそう命令すると、両面宿儺は二つの頭を同時に縦に振った。両面宿儺を操っているというより、亜那都姫アナツヒメと同化することで、自分を保護対象にさせているといったところだろう。


 そんな中、実理の身体はゆっくりと、亜那都姫アナツヒメの肉体に沈み込んで取り込まれている。本当にゆっくりなので、まだしばらくの猶予はありそうだが、危険な事に変わりはない。そのまましばらくすると、亜那都姫アナツヒメの身体から、怪しく煌めく小さな光の粒がこぼれ始めた。


「クク、妖の種が出始めたか…これこそ、女王卑弥呼が危惧した亜那都姫アナツヒメの力…この光を取り込んだものは徐々に体が妖に変化し、やがて完全な妖怪となる。霊力が低く、抵抗力が弱ければ弱いほど…ククク、これを地上に放出し、人間共を妖怪に変えてやるのだ…!」


 実理の言葉通り、亜那都姫アナツヒメは母である女王卑弥呼から受け継いだ高い霊力が負の方向に現れ、しかもそれが恐ろしいほどの才能として宿っていた。生前の彼女は、息をする毎にその霊力が溢れ、実理が妖の種と呼ぶ力の結晶を生みだしていたのである。


 そして、性質が妖であっても、彼女はれっきとした人間であり、その心は人であった。彼女は自分が生きているだけで、人に危害を及ぼす自らの性質を嫌い、呪っていたのだ。それは、彼女が成長するごとにその思いが強くなった。


 女王卑弥呼は、そんな娘を不憫に思い、この地底の奥底に彼女を封印したのである。彼女を忌月亜那都姫イミヅキノアナツヒメと呼ぶのは、彼女によって産み出され、恋い慕う妖怪達のみ。人は彼女を、人であった頃の名前、本当の名で呼ぶのである。



 

 ――嫌だ、また…また私のせいで…


 狛の耳に、女性の声が聞こえる。か細い呟きだが、痛切な感情が込められたその嘆きは、狛の意識をわずかに覚醒させた。


(誰?誰の声なの?)


 狛の声は、相手には届いていない。いつの間にか、周囲は見た事もない建物の中に変わっていて、その一室で、一人の女性が俯いて涙をこぼしている。


『姫様、処置は滞りなく…』


 そこに一人の男が現れ、そう言った。背は高く、鍛え上げられた身体には上下に白く薄い生地の衣を纏っている。教科書に出て来るような、古代人の服装であった。


『すまぬ…また私のせいで、民が…』


『何を仰います。姫様のせいではございませぬ、民の弱さが妖を招いているのです。姫様の責任などでは…』


『しかし、お前が今日処置をしたあの童はいくつであった?まだ年端も行かぬ、歩き出したばかりの赤ん坊であろうが…そんなか弱き尊いものに、弱くあるのが悪いなどと言えるものか…?』


『姫様…』


 姫と呼ばれた女性は、堪えきれない涙を溢れさせ、男の顔を見据えた。泣き腫らした瞳には一筋の紫が差し込んでいて、彼女が人ならざるものの領域にいる事を示している。従者の男は、それを哀れんでその目に涙を溢れさせていた。


 姫と呼ぶその女性は、その力とは裏腹に誰よりも優しく人を愛する娘であると、その男は知っている。そんな彼女が、持って生まれた力の為に人を妖へと変えてしまう、それがどれだけ彼女の心をすり減らし、押し潰そうとしているのか、それを想うと泣かずにはいられなかった。


 姫ははらはらと涙と流した後、男から視線を外し、月を見上げた。


『母様の言…そろそろ聞くべきなのかもしれぬ…』


『な!?姫様、しかし、それでは…!』


『深い深い地の底へ…か。だが、そうすることで民が守れるなら。これ以上、私のせいで悲しい思いをせずに済むのなら。私の命など…済まぬな、お前達まで巻き込んでしまう、許してたもれ』


『っ…!何を仰いますか。我ら兄妹、あなた様が生まれた時よりこの身を捧げる覚悟は出来ております。その先が、いかなる煉獄であろうとも、必ずやお供致しましょうぞ!』


『ああ…私は、幸せものだな。ありがとう…』


 そう言って、女性は涙を流しつつ、微笑んだ。その顔は、この地下に降りて最初に出会った、あの亜那都姫アナツヒメの霊と瓜二つであった。

 

 

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