第7話 猫と少女霊
試練の日から、一週間後。
一族が経営する病院から、狛はようやく退院となった。
あの後、二人は猫田に抱えられて外に出た所で、佐那が先に目を覚まし、車に戻って助けを呼ぶ事ができた。狛は意識を失ったままだったので、そのまま佐那と共に入院となり、詳しい事情は猫田から一族へ説明された。
結局、狛が目を覚ましたのは、一昨日の事である。検査の結果は問題なく、霊力の過剰使用による極度の疲労が原因と診断されたものの、佐那の方は、そう簡単にはいかなかった。狛を庇った際に受けた打撃により、左腕と左足の一部が骨折をしていて、肋骨にもヒビが入っていた。
幸い、内臓にはダメージがなかった事もあり、数か月で復帰できるらしいが、しばらくは安静が必要だし、リハビリもかなりハードなものになるだろう。自分がもっとうまく立ち回れていれば、ここまでの大怪我にはならなかったはずだと退院前の挨拶に狛が顔を出し、謝った時には
「ここの所、ずっと忙しかったからちょうどいい休みだわ。狛は何も気にしなくていいのよ」
と、気遣って優しい言葉をかけてくれたのだから、本当に佐那には頭が上がらない。リハビリの付き添いが必要な時や、お見舞いには積極的に顔を出そうと心に決める狛であった。
「やっと出てきたか。ずいぶんかかったな、もう大丈夫か?」
狛が病院を出た所で、待ち構えていた猫田に声をかけられた。
「うん、もう平気!心配かけてごめんね、あと、助けてくれてありがとう」
「おう、まぁ、乗りかかった船ってやつだしな…ってか、何度もありがとうって言うな」
頬を赤くして照れる猫田は、見た目より幼く見えてかわいらしく思えた。どうやら、妖怪というものは、人間に感謝されることには慣れていないらしい。
昨日、初めてお見舞いに来てくれた時に狛が感謝の言葉を伝えたところ、真っ赤になって顔を背けたので、訳を聞けば恥ずかしいのだという。その反応が面白くて、つい意地悪になってしまった。
すっかり猫田と打ち解けた狛は、もう一人兄が増えたような気がして、とても嬉しかった。
迎えの車を待つ間、二人は病院前のベンチに座って話をすることにした。この後、本家へ向かい狛の口から改めて事情を説明するためだ。
傍の自販機でジュースとお茶を買い、猫田にお茶を渡そうとしたらジュースを取られた。どうやら猫田は、甘い飲み物の方が好きらしい。狛はお茶が嫌いではないので別にいいのだが、猫又にお茶というのは安直過ぎただろうかと反省する。お互いに口を濡らした所で、猫田が念を押すように話を始めた。
「昨日も言ったが、イツをお前に憑依させた術の事は、まだ家の連中に言うなよ」
「うん、それは解ってるけど、どうして言わない方がいいの?」
その理由を聞く前に猫田は帰ってしまったので、狛は説明を受けていなかった。ちょうどそれを聞こうと思っていた所だし、渡りに船だ。
「それをお前が話せば、十中八九再現しろと言われるに決まってる。だが、はっきり言ってアレはまだお前には早い。あの時は他に手が無かったから止むを得ずやれと言ったが、実力のつかない内に、二度三度と試すのは危険すぎるんだよ。そもそも、お前が人狼として覚醒するとは、俺も思ってなかったしな」
「そ、そうなんだ…」
実の所、狛はあの時の事をほとんど覚えていない。イツが身体に憑依した際、膨大な量の記憶が流れ込んできたからだ。全てを記憶してはいないが、印象に残ったものの中には、時代劇のようなものもあれば、見た事もない森の中を彷徨っているものもあった。
特に記憶に残っているのは、亡くなる直前…つまり、自分を産む寸前の母と家族が病室で集まっている時のものと、母と抱き合った夢くらいである。
言うなと言われれば、黙っているのは難しくないが、それでは試練の結果がどうなるのかが気になるところではあった。
「でも、本当なの?私たちの祖先がその…人狼だったって」
「少なくとも、宗吾さんは間違いないと言ってたな。いつそれに気付いたのかまでは聞いてねーが、俺があの人と出会った時には、もうその力を使ってたよ」
「ふーん…でも、ちょっとショックかも。私、人間じゃなかったんだ…」
「別に今更そんな気にすることでもねーだろう。俺だって…」
生まれは普通の猫だった、と言いかけて、自分が妖怪に変化したきっかけを思い出し、猫田は思わず口をつぐむ。
「俺だって、何?」
「…いや、妖怪と人間の違いなんて大したことねーってことさ」
「なにそれ?」
明らかにはぐらかされているのは解ったが、先日のように人間の機微に疎い発言をしようとしたのだろうと察して、狛はそれ以上追及するのを止めた。
現実問題として、犬神一族は世間一般的には普通の人間とは言えないだろう。霊や妖怪という存在に懐疑的な見方をする人の方が多い世の中で、高い霊力を持ち裏では退魔士や祓い屋などを稼業としているのだから、そういう意味では、猫田が言うように何を今更というのは解らないでもなかった。
会話が途切れ、しばし沈黙する二人。黙っていると、まるで女子高生と性質の悪いホストが並んで座っているようにしか見えないのだが、そんな二人の前に、小さな少女が近寄ってきた。
「ママぁー…どこー?」
見た感じ、4歳か5歳くらいだろうか?一人で外を出歩くには早すぎるような歳の子どもだ。
「どうしたの?ママがいないの?」
「おい、そいつ…」
声をかける狛を猫田が止めようとすると、狛は猫田に微笑みながら目配せをして再び少女に向き直る。
「ママ、いないの…どこにも、くるまがバァーってきて、それで、いなくなっちゃって…」
「そっか、寂しかったねぇ。じゃあ、お姉ちゃんと一緒に、ママ探しに行こうか?」
「いいの…?」
「いいよ、お姉ちゃんに任せて!」
胸を叩いて、笑ってみせる狛。猫田はそんな姿を見て、呆れたように溜息をつく。幸い、まだ待ち合わせの時間までは余裕があったので、二人で少女の親を探すことになった。
ジュースを飲み干し、いかにも面倒臭そうに猫田が言う。
「…で、どーすんだ?」
「んー…猫田さん、どうにか出来たりしない?」
笑顔で聞き返す狛に「俺頼みかよ」と再び呆れる猫田。そのまま立ち上がり、手に持った空のペットボトルをゴミ箱に投げ入れた後、そっぽを向きながら、小さな声で呟いた。
「…無理に決まってんだろ」
「だよね」
苦笑しながら、狛は少女を抱き上げると彼女の目をみて話しかけた。
「んと、貴女のお名前は、なんていうのかな?」
「わたしの、なまえ…」
少女は思い出そうとしているのか、俯いて黙ってしまった。しばらくそうしていると、背を向けたままの猫田から、尻尾が一本伸びてきて、少女の目の前でゆっくり揺れ始める。
「わぁ!ねこちゃんのしっぽー…!」
「ねー、すごいねー!…あのね、このお兄ちゃん、ホントは猫ちゃんなんだよ?」
ナイショなんだけどねと付け加えて少女の耳元で囁いてやると、少女は、ぱぁっと明るい笑顔になって、尻尾の動きを興味津々といった感じで追いかけている。
ニコニコと笑う少女につられて、その様子を見ていた狛も笑顔になっていた。そのまま少ししてから、狛は出来るだけ優しく、少女に聞いた。
「猫ちゃん好きなの?」
「うん、すきー!」
「…じゃあ、お家に猫ちゃんがいたのかな?」
「おうち…」
その質問に、再び少女の動きが止まった。自分の事を思い出そうとするとうまくいかないらしい。そのまま辛抱強く続きを待っていた時、不意に少女は話を始めた。
「わたしのおうちにねこちゃんがいたの、リリちゃんっていうの…」
「うん」
「でも、リリちゃんはいなくなっちゃった。ママは、リリちゃんがおそらのとおいところにいっちゃったって…」
段々と、少女の元気がなくなっていくが、さらに話は続く。
「あのとき、ママといっしょに、おはかっていうリリちゃんのあたらしいおうちにいこうとして…それで…」
「うん…」
さっきまであんなに明るく笑っていた少女の顔は、どんよりと曇った暗い表情になっている。同時に、辺りはしんと静まり返り、人気のなくなった周囲の気温が下がり始め、気付けばまだ残暑の残る時期の昼間だと言うのに肌寒ささえ覚えるほどに冷え込んでいた。
「しんごうをまっていたら、くるまがわたしのほうへむかってきて…わたしは…!」
鬼気迫る少女の言葉が紡がれる度に、少女の身体は黒く変色し、次第に血に塗れた恐ろしい姿へと変貌を始めていた。
「そう、貴女はその時、ママとはぐれちゃったんだね…」
狛は涙をこらえながら少女を抱きしめ、繋ぎとめようとする。少女をこのまま放っておけば、間違いなく悪霊と化してしまうだろう。そんなことはさせたくなかった。
「わたし…わたしは…!ああ…!暗いよ!寒い!痛い!どこなの?!ママぁ!!」
少女の目からどす黒い血が涙となってこぼれ出し、男や女、老人といった別人の声が混じり始めた絶叫が周囲に響く。絶望と恐怖、不安と怒り、そして理不尽に命を奪われた憎しみが、少女を飲み込もうとしていた。それでも、狛は自らの霊力を流し込んで、少女の悪霊化を押しとどめている。
「大丈夫!ママは必ず見つかるから!だから、お願い、貴女の名前を思い出して…!」
「あああああああああああ!」
狛の声は届かず、少女は声にならない叫び声を上げている。これまで黙って様子を見ていた猫田が振り向こうとした時、どこからともなく、小さな鈴の音が鳴った。
―チリン
それは、とても小さな鈴の音だった。雑踏の中では、容易に掻き消えてしまいそうなその音は、ゆっくりと、だが確実にこちらに近づいてくる。
―チリンチリン
鈴の音がすぐ傍まで来るのが解ると、ピタリと少女の嘆きが止まった。そのまま音のする方を向き、小さく呟いた。
「リリちゃん…?」
「お迎えにきてくれたんだね、優しくて、とっても良い子。貴女の事が心配だって」
「ああ…」
いつの間にか少女を包んでいた影と闇は消え、元のかわいらしい姿に変わっている。
「さ、落ち着いて。もう大丈夫だからね」
狛の言葉に、少女はこくんと頷くと、少し恥ずかしそうに言った。
「…わたしのなまえは、このうえ ほなみ、です」
そう名乗った瞬間、狛達の目の前に、彼女によく似た大人の女性と、首輪に小さな鈴を着けた黒猫が現れた。
「あ!ママ…?ママだぁ!リリちゃんも!」
言うや否や、勢いよく狛の腕の中から抜け出して、ほなみは母の元へ飛び込んだ。ほなみの母親は、優しく彼女を抱き上げると、静かに狛へ頭を下げて、傍らに連れた黒猫と共に光の中へ消えていった。
「全く…ヒヤヒヤさせるなよ」
息を吐いてベンチに座り直す狛に向かい、猫田は呆れ顔で言う。
「幼くて自我の薄い魂は迷いやすい上に、自分が誰かもわからんから同じく霊になった母親の声も届かない…とはいえ、わざわざ自分が誰かを思い出させて成仏させようなんて、手間にも程があるだろ。霊符で無理矢理成仏させちまえばいいものを…」
「いやぁ、昨日散歩してて、あのお母さんの霊に頼まれちゃったからね。ほなみちゃんも、病室からずっと見えてたし…二人とも本当は同じ場所にいるのに、波長がずれたから会えないなんて悲しいじゃない?」
ちょっと危なかったけどねと、苦笑いをしながら狛は残っていたお茶を飲み干し、溜息を吐いた。その視線の先、病院前の交差点には、たくさんのお菓子やジュースと花束が置かれたスペースがある。あの二人の為に、大勢の人が祈りを捧げていたのを、狛は入院してから何度も見ていた。
涙ぐむ狛の頬を優しく尻尾でくすぐりながら、猫田は言った。
「お前は間違いなく人間だよ。たかが人間の魂一つに、そこまで肩入れする妖怪なんざいやしねーからな」
「それを言うなら、猫田さんだって優しいじゃん。ほなみちゃんを尻尾であやしたり…それに、リリちゃんの事、呼んだの猫田さんでしょ?」
そう言われて、猫田はばつが悪そうに顔を背けて言った。
「…あのくらいのガキを見ると、思い出しちまうんだよ。色々と」
そう言って尻尾を隠し、狛の隣に座って遠くを見つめる猫田。その横顔が寂しげに見えて、狛は猫田の頭を撫でて労った。
「ありがとね」
「うるせー…礼なんていらねーよ」
つっけんどんに答えながら、また少し顔を赤らめて照れる表情がかわいくて、撫で付ける狛の手は止まる気配がなかった。
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