青年と幸福と

井阪 騰一

1.青年と幸福と


数人の集団の中で、二人の関係の中で、個人的空間で、人は幸せを感じる


幸福な空間、これを作り出すのに人の数は問わない




兄に会ってきた帰り道、蝉の声を聞きながら青年は気分が悪かった。普段であれば、兄と話した後、それは墓石に対して一方的に話をした後のことを意味するのだが、気分は良いはずだった。だが、今日は違う。言うまでもない。音楽が聞こえてきたからだ。この村で音楽を聴くということは、その場にいる人間が「幸せ」であることを意味する。幸せを感じた時に音楽をかけるということになっている。理由は知らない。物心ついた時から変わらないので、「そういうことになっている」としか思わない。今聞こえてくるのは、彼の家から数十メートルほど離れた、彼の家より一回り小さな家からであった。確か老夫婦が二人で暮らしている家だ。通り過ぎる際、子供の声が聞こえた。音楽にはジャンルがあるのだと聞いたことがあったが、そもそも音楽というものを自分から聴いたことがなかったため、そのようなことは全く分からない。とにかく、その家から流れる音楽とともに、三人ほどだろうか、子供の高い声が聞こえた。女の子が二人と男の子が一人。十数年前までこの家に住んでいた老夫婦の娘が家族を連れて帰ってきたのであろう。いかにも幸せそうといった家庭である。老夫婦の娘には昔よく遊んでもらっていたと祖母から聞いたが、小さい頃のことはよく覚えていない。あちらも覚えてないことだろう。

音楽が聞こえてくるのは珍しいことではなかった。彼の隣の家はこれまた老夫婦が二人で暮らしているのだが、もはや隣の家に人はいないものとでも思っているのだろう、毎晩のように同じリズムの音楽を大音量で流している。そこがどんな家庭であれ、他人の家から音楽が聞こえてくる度に、青年は憂鬱な気分になった。


兄がいなくなったのは一昨年の夏であった。五年前の夏には祖母が亡くなった。どちらも交通事故であった。三人でいた日々がそれなりに良かったと思えたのは、こうして一人になってからであった。金に余裕などなく、他人の言う「幸せ」とは程遠い気もするが、日々の中で、「楽しい」や「嬉しい」と感じる時間は少なからずあったように思える。今はというと、兄や祖母と話している時に少し感じるくらいで、他の感情としては、「苦しみ」を常に感じるだけである。彼の毎日はそれほどまでに暗く単調であった。


この村の家であればどこでも、CD、またCDプレイヤーなるものがあった。彼の家にもそれがあった。使ったことがないのにも関わらず、埃も被らないような、よく目につく場所に置いてある。家に帰りついた後、彼はまっすぐそのCDプレイヤーの前へ向かった。右手の指先で触れてみる。妙に固く感じた。触れたのも初めてだったかもしれない。その時彼は、感じたことのない思いに駆られた。「聴きたい」と思った。「幸せ」を感じた者が音楽を聴く、ルールとは言えないが、安全な道のみを選択し生きてきた彼には、そういったものに逆らってみたいという気持ちがあったのかもしれない。慣れない手つきでCDを入れ、適当にいくつかボタンを押してみる。すると予想よりも大きな音が響き、腰を抜かしそうになる。耳が音楽を感じた瞬間、体の中で跳ね上がるものがあるのを感じた。その一音一音に体中の血液が反応している。これが「幸せ」だと分かるのに時間はかからなかった。音楽こそが自分の「幸せ」だったのだと彼は悟った。いつまででも聴いていたいと思った。

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