− プロローグ −


  

     

 わたしは無人むじんである。しかし確たる証拠はない。たとえあったとしてもわたしは答える術がない。わたしには肉体がなく、人と語らう口もないからだ。

 故にその他何者が存在するのか、或いはわたしを除いて他に何者もおらず、わたしは唯一無二の存在なのか等、諸々気にはなるが、調べようがない。


 神なのか


 まずはじめに疑ったのはそれであった。しかしどうやら違うらしい。わたしは押し並べて人並みなのである。普通に欲があり普通に怒る。普通に泣いて普通に笑う。思考するにしても寄り道ばかりし散漫でまとまらず、イライラするし、先行き不安だし、全知全能の神からは程遠いちっぽけな存在にすぎない。


 では他に考えられる存在として、天使?悪魔?わたしなりに色々考えるのだか、どれもいまいち腑に落ちない。幽霊、というのが一番妥当かもしれないが、しかしそれも妙である。一切の記憶がないからだ。人であった頃のわたしの記憶がまるでない。わたしがいつ何処でどのようにして産まれ育ったのか。わたしがどんな顔、どんな身体つきをし、どんな声でどんな喋り方をするのか。そもそもわたしは男なのか、女なのか。両親の姿形は、両親は優しかったか。兄妹は他にいたのか。家庭は裕福で、家族は幸せに暮らしていたのか。死因はなにか。わたしは天寿を全うしたのかどうか。


 なにもわからない


 忘れてしまったのか、はじめからわたしは無人であったのか。だとしたら この意識はどこからやってくるのか。わたし自身のルーツは。霊魂というわたしの存在に対し無関心でいられるはずもないのだか、情報を得る策がひとつもないゆえ抗えない。


 わたしは生きているのか 死んでいるのか。

 この難題に解答をくれる者すら誰一人いない。ただ考える。暗闇のなか、たった独りひたすら考えつづけることでしか、わたしは存在し得なかった。人が呼吸をするのと同じように。




 時が流れた。




 十年、二十年、それほど遠くない過去に生まれた気もするし、何十億年も昔から浮遊してる感覚もある。悠久の時の流れに身をまかせ漂ってきたが、諦めの境地か、そもそも記憶する能力を備えていないのか。いつの間にやらわたしはくうになっていた。荒ぶる感情の波は収まり、雑念が消え失せ、自然に澄み神めいた心持ちになっていった。


 無ではない


 それだけは言える。

 わたしはくうだ。そこにいても誰も気づかないが、たしかにいる。あってないような存在。空が意識を持つとは誰も信じないだろう。人智には限りがある。神を神として感じられるようになったのは、人がそう気付いて創生したからだ。もしかしたらいつかわたしのことを知るときが来るやもしれない。神がいなくなり、代わりにわたしが生まれるのかもしれない。生きてるのか死んでるのかもわからないが、ただ意識がこのまま潰えるとも思えない。自殺の選択肢もない。何も変えられないと諦念していた。何も変わらないのだと信じていた。わたしはくうであって他の何者にも見えはしないのだと。






 わたしにとって人は芥子粒けしつぶでしかなかった。何故か存在は知っていたが、個人レベルで誰かを知っているわけではない。いつも遠くから感じるだけだった。しかしある日を境に 〝変化〟がはじまる。


 突如わたしに光が射した。眩しい!目も鼻も口も耳もないわたしがまず感じることの出来ない現象である。そしてそこから一気に全感覚が芽生えはじめる。夜の冷えた都会の空気。決して良い匂いとはいえない独特な匂いがした。微かだが音も聞こえる。行き交う自動車の走行音、車のクラクション、パトカーのサイレン、どこか懐かしい聞き覚えのある音ばかりだ。記憶で理解しているのとは違って、なんとなく身体が覚えており(今わたしに身体がないというのにとても妙な感覚なのだが、やはりわたしは昔人だったのだろう)戸惑いつつも素直に受け入れることができた。

 それからゆっくりわたしは生まれ変わる。次から次へとイメージが湧いてくる。かつて謳歌したであろう、見る楽しみ、聞く楽しみ、嗅ぐ、味わう、また肌で感じていたような暑さ寒さ、それ以外にも、喜怒哀楽感情の波が、空でしかなかったわたしの世界にどんどん浸み入り、わたしは人の感覚を取り戻していった。わたしはまだ無人にちがいなかったが、間違いなく、また何者かへと進化を遂げたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る