催眠術、なんか私が思ってたのとちがう!

カボチャの豆乳

思ってたのとちがう!

思ってたのとちがう!

「怜、もう彼氏くん来てるよ!」


「……まだ付き合ってないから」


 木曜日、五限もショートホームルームも終わって長針が完全に真下を向く時、私の教室にこうくんが現れる。

二年生のこうくんには線引きがあるようで、余程の事情がないと三年生の私たちの教室には入ってくれない。

まだ不慣れだった頃、入り口の辺りでおずおずと教室の中を窺って私の姿を見つけて安心するこうくんはかわいかった。

彼は誰に対しても気さくだし、緊張を吹き飛ばすような小粋なジョークの引き出しが沢山あるようで、そういう飾らない人柄であっという間に3-Bに馴染んでしまった。

今やこのクラスにこうくんを知らない人なんていないぐらいなのに、遠慮して上級生の教室内には立ち入らないようにしている彼の慎み深さのようなものが、私は好きだった。


「先輩、お疲れ様です……ははっ、ちょっと早かったですかね。 広瀬さんに笑われちゃいました」


「大丈夫、さくらはいつもそんな感じ……かえろ?」


「はい」


 私は知っている。

さくらは私がこうくんの話題を出す時だけ少し前のめりになることも、こうくんが来てくれる木曜午後3時30分のタイミングでは決まって入口近くの席の女子の近くに話し掛けにいくふりをして常にこうくんと二人で話す機会を窺っていること(教室まで入らないこうくんは入口から一番近い生徒に話し掛けて私のことを呼んでもらうという手順を取る)、さくらが何気ない風を装ってこうくんと話した後に耳を紅潮させ火照った頬を手で仰いでいること。


 状況証拠はもう数え切れないぐらい沢山あっていつしか数えることをやめた。

広瀬さくらはもう完全にクロだ。

さくらは人によく気を遣える良い娘だし、何度か放課後二人で喫茶店に行ったこともある仲。

面白い話もできない私とずっと仲良くしてくれる大切な友人だけど、こうくんだけは絶対に渡せない。


「今日はどっちの家でご飯食べます? おれ、カレー作りたい気分です」


「おうちにおいで。 香辛料沢山あるよ、私にはよく分からないけど……」


「先輩のご両親、地方の珍しい調味料集めるの趣味ですもんね。 ガラムマサラだけで5つぐらい種類あるの凄すぎですよ、カレー屋さん開けます」


 お隣同士、とは言わないけど徒歩2分圏内の私たちの家には、基本的に親がいない。

私の両親は貿易商、こうくんのご両親は世界的なデザイナーと揃って世界を股に掛ける特殊な職業に就いていて、私たちが高校生になるまではかなり強引に育休を捻出して育ててくれていたらしい。

高校に入学した途端、今までが嘘みたいに夫婦揃って仕事に完全復帰してしまって、家に帰ってくるのは年に1回あるかないか。

別にネグレクトとかってわけじゃない。

どちらかと言えば子煩悩のほうな二人、いや四人だし、高くつくだろうに月に一回は国際電話で連絡を取ってる。

生活に不自由ない程度の金額が毎月振り込まれてくるし、寂しいけど特に不便を感じたことはない。


 親同士が仲のいい幼馴染みの私たちは互いの両親にすっかり信用されており、互いの家の自由な行き来を認められている。

私なんてこうくんのお父さんに直接合鍵もらっちゃったし。

高校上がっていきなり一人暮らしになってしまった寂しさを埋めるようにして、私はこうくんの家に入り浸っていた。

こうくんの方も私の家によく来てくれるし、食事は必ず二人で取る。

買い出しを終えてこうくんの家に帰ると、おかえり、って迎えてくれるの、夫婦みたいで好き。

だから私がこうくんに買い出しを頼んだ日とか、同じようにしてあげると玄関で照れ臭そうに笑うこうくんが世界一いとしい。


「じゃ、卒業したら私とカレー屋さん始めよっか」


「ハハッ、それも楽しそうですね」


 え、いまのってプロポーズ成功……!?

勿論、ことはそんなに簡単じゃない。

物心付いたときからこうくんが常に傍にいる環境ですっかり男性観を破壊されてしまった私は、いつからそうなのか分からないぐらい、ずっとこうくんのことが好き。

結婚したい。

子どもは三人は欲しいし、別に結婚式は挙げなくてもいいけど庭付きの戸建てに住んで、休日は娘とこうくんを取り合ったりしたい。

くだらないことで沢山喧嘩したいし、子どもの入学式の度にボロボロ泣いてしまうこうくん(こうくんはとても情が深い)の涙を隣で優しく拭ってあげたい。

将来そういう生活を送るために頑張って大きな会社に入って働かなくてはいけない。

私とこうくんが通う公立高校は県内で一番偏差値が高い進学校だから、このままいけばそれなりの大学に通ってそれなりの会社に入れるとは思うんだけど。


 閑話休題。

こうくんが私のことをどう思っているかはわからないけど……悪しからず思ってくれてるとは感じる。

冗談でも嫌いな人とカレー屋さんなんてできないもんね。

嫌いな人のために無意識に歩幅を合わせてくれたり、車道側を歩いてくれたりはしないんじゃないかと思うんだけど、でもこうくん優しいから、なんとも思ってない人にも紳士的だから、時々不安になる。


「野菜室にまだ玉ねぎありましたっけ……卵も使いたいし、今日は一回家戻って買い出ししてから先輩の家行きます」


「一緒にいこ」


「いいですけど、あんまりチョコ買っちゃ駄目ですよ……」


 こうくんはカレーも振舞ってくれるし多分後片付けの皿洗いまでしてくれる予定なのに、買い出しまで率先して行くつもりで、多分私が何も言わないでいたらうちの家事を全部取られてしまう。

昔からうちにお世話になってる後ろめたさみたいなものがこうくんの原動力なのかな。

どうしてそんなに尽くしてくれるのって、私のことどう思ってるのって、訊けたら楽になれるのに、怖くていつまでも訊けないままでいる。











「あっ、そうだ。 先輩、ちょっと用事があるので都合が良いタイミングで声掛けて下さい」


 夜ご飯のあと。

お皿洗いを譲ってくれなかった働き者のこうくんは、隣で洗い終わったお皿を拭いている私に何気なく声を掛ける。

用事ってなんだろう、珍しい。

こうくんは基本的に一人で何でもできる人だし、少しでも頼ってくれるならなんだって嬉しい。

力になりたい。

急いで食器を戸棚に戻して、先にリビングに戻って何かの本を片手に悩んでいる様子のこうくんに声を掛ける。


「ん、もういつでも大丈夫」


 こうくんは緩慢な所作で本を閉じて、私の目をしっかりと見据えて、極めて真面目な表情で彼にしては珍しい突飛な事を私に告げた。


「先輩……催眠術を、先輩に掛けさせてください」


「……?」











 催眠術。

あの……50円玉とかでやる?

だんだん眠くなる?

指を鳴らすとエッチな目にあっちゃう奴?


「……ぇっ、あ……タンマ、ちょっとお時間ください……!」


「勿論です。 ハハッ、急に変なこと言ってすみません」


 全くだよ!

え、いつもの爽やかな笑みここで浮かべるのズルじゃんか。

ズル、ばか、えっち。

まだ全然混乱してて理解が追い付いてない。


 催眠術ってあの、一定の間隔で規則的に揺れる振り子を見つめているうちに意識を失って暗示状態に掛かって、その間なにをされても目覚めないっていうあれで合ってますか。

それだよね、ヒプノシスってそれしかないもん。

絶対えっちなことに使われる奴では。

まあこうくんも男の子だし、いやそりゃあ小さい頃からずっと紳士的だったし、性欲とか欲望みたいなのを全く表に出さないから時々忘れちゃいそうになるけど。

胸板だってちゃんと厚いし、抱き締めると身体はがっしりしてるし、お年頃だから昔に比べてボディタッチとかは割と嫌がられちゃう、やんわり窘められることも多いけど、それでもしっかり男の子だもんね。


 私のことちゃんと女の子として見てくれてたんだ。

だからこそ私の前ではそういうの隠してくれてたのかな。

こうくん、男の子の友だちの前でもえっちな話に一切興味なさそうだったし、そういう話題になるとやんわり話題を変えたりするから、私じゃ魅力ないのかなとか、女の子に興味ないのかなとか思ってたけど、良かった。


 でもそんな、いきなりすぎる。

いや全然良いけど、私としてはいつでもウェルカムだけど、順序とかあるじゃない。

せめてその前はハグとかキスとかしたいよ。

こうくんがそういうのが好きなら私も全然やぶさかではないんだけども。


「……ちょっと待ってて、すぐ戻る」


「分かりました」


 こうくんに少しだけ断って、急いでリビングから廊下に出る。

今着てるワンピを捲って下着を確認……まあかわいい、及第点。

さっきから鼓動が凄いから必死に落ち着かせることに努める。

こうくんの優しい眼差しと爽やかな笑みから放たれるパワーワードに脳がまだバグってる。


 でも、別に嫌ってわけじゃない。

むしろ、こうくんが素直に頼み事をしてくれるのは純粋に嬉しい。

頼み事そのものは不純かもしれないけども!


 こうくんは一人っ子なのに昔から長男気質で、嬉しいこととか楽しいことはまっさきに私に共有してくれて、私のほうが一つ年上なのにいつも頼ってしまってばかりで、そのくせこうくんから頼られたことは殆どなくて。

遠慮しいな性格にさせてしまったのは私のせいかもしれなくて、ずっと後ろめたさを感じていた。

一方的に尽くされるのは少しだけ居心地が悪くて、甘えた分だけ甘えて欲しいとずっと思っていた。

それがまさかこんな形で叶うとは思いも寄らなかったけど。


 よし、もういい加減覚悟を決めよう。

こうくんはその……私を……求めてるのかもしれない。

私が覚悟を決めれば済む話。

一応念入りに歯を磨く。

しゃこしゃこ。

マウスウォッシュも二回する。

ぶくぶく。

ミントタブレットも食べたいところだけど今は手元にないし、流石にコンビニに行って帰ってくるまでこうくんを待たせるのは申し訳ない。

もう既に五分ぐらい時間を頂いてしまってるし、そろそろリビングに戻らなきゃいけない。

わ~、緊張してきた。

背景イギリスでお仕事中のお父さん、お母さん、私は今日女になるかもしれません。

遠い異国の地から私の命運を祈っていて下さい。

あと今回はお土産要らないかも、イギリスってご飯あんまり美味しくないって聞くし……


 

「お待たせ。 もういつでも大丈夫、どこからでも掛かってきて……!」


「え、果たし合い……? 大したことじゃないので、力抜いてもらって大丈夫ですよ先輩」


 いや、一世一代の大舞台に力なんて抜けないよ。

とはいいつつも、こうくんと何気ない雑談を交わす内にいつものまったりした空気感が場を支配して、気付けばガチガチに緊張してた身体は弛緩していた。


 催眠術にはしっかりした科学的な根拠があるらしい。

医療や心理学の現場でも使われていたりして、効果的に活用すればリラクゼーション効果もあるとか。

普通に勉強になる内容ばかりだし、こうくんの真摯な語り口からは真剣味が伝わる。

ちゃんと沢山調べてるんだなあ、万が一でも先輩になんか悪い影響が出てしまったら大変なんで、と笑うこうくんの温かい気遣いに、こういう所好きだなあなんて和んでいると、こうくんはいそいそとお手製の小道具を取り出した。


 白い糸になんの変哲もない五円玉が吊るされている。

振り子の役目を果たすものもとっても簡易的だから、多分大事なのはこっち側の意識なのかな。

そうしてこうくんが、暗示のための誘導を唱え始めた。












「先輩、ここは安全で静かで、落ち着ける場所です。 目を閉じて、あなたは徐々に、少しずつ座っているソファに沈み込んでいきます……よし、こんな感じかな」


 今の所、特に怪しいことはない。

座っているソファに身を預けることが気持ち良くて、緩やかに微睡み始めた。

このまま眠ってしまえることもできるけど、流石に今日はそういうわけにはいかない。


 だって、ここからが本番なんだ。

私どうなっちゃうんだろう。

さっきから、いつにも増して穏やかなこうくんの声が心地良くて夢見心地になっている。

落ち着いた、不安を払ってくれるような声。

こんな声で耳元に愛を囁かれたい。

いや、今日そういうこともあるかもしれないと思うと気が気でない。


 わっ。

身体がフワっと浮き上がる感触。

私今、お姫様抱っこされてる。

脇の下と膝の上辺りを力強い腕に支えられているのが分かる。

こうくんから爽やかで清潔感のあるシトラスミントの香りがして少しだけ落ち着く。

そっか、ベッドまで移動するんだ。


「……先輩、生徒会が忙しいのはよく分かります。 それでもやっぱりおれは無理して欲しくないですよ」


 おおぉ、声が近い。

お姫様抱っこされた状態で声掛けられるといつもより声が近いという知見を得てしまった。

ドキドキする。


「ちょっと強引な方法取っちゃいましたけど、今日ぐらいは学校のことで悩まずにゆっくり眠って下さい」


 優しくベッドに寝かせられ、毛布まで被せてもらった感触がある。

髪を梳いてくれる手、少しゴツゴツとしていて、仄かにシトラスの香りがして安心する。

あれ……


「……怜ちゃん、お休み」


 あ、怜ちゃんって、昔は名前で呼んでくれてた。

こういう時だけ呼ばれると特別感あって良いかも。

こうくんはそのまま、部屋の扉を音を立てないように静かに閉めて(優しい)部屋を出ていった。

え、あれ……これで終わり? 本当に?


 催眠術、なんか私が思ってたのとちがう!

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