果たせなかった約束
黒月
第1話
「車出してくれないかい?」
祖父がこう言った時、行先は決まっていた。自宅から一時間ほどのところにある霊園だ。
大体月に一度くらいの頻度でこの墓参りの申し出がある。
俺は特に用事もないニートだったのですぐに了承し、杖をついた祖父を助手席に乗せた。
祖父は去年、脳出血で倒れ片足に軽い麻痺が残った。それを機に免許を返納し、運転は専ら俺の役目だ。
この墓参りに俺は祖父が足を悪くする前から同行していた。両親が共働きだったので同居する祖父母に面倒を見て貰っていたのだが、「ドライブ」と称してこの場所に連れていかれた。霊園と言っても見晴らしのいい、小高い丘の上にあり、すくそばに公園も併設されている場所だったので別に「怖い」とも「不満」とも思っていなかった。
現役時代を公務員として懸命に働き、実子の育児も妻任せにせざるを得なかった男とすれば、孫の世話の「ドライブ」でこういった場所しか思い付かなかったのかも知れない。
霊園に着くと、迷いもなく一つの墓の前に立ち、静かに手を合わせる。幼い俺は祖父に習い、訳もわからず真似をしたものだった。
そして、用意してきた水を墓石にトクトクと注ぐと、深々と一礼する。今日はその目に涙が滲んでいた。
「いつも付き合って貰ってすまないね。帰ろうか」
長年、この墓参りに付き合って来たが、ここに誰が眠っているのか未だに知らない。だが、涙ぐむ祖父がやけに気になって、帰りの車中で尋ねた。
「あの墓ってさ…」
「あぁ、あれは恩人の墓でね。」
祖父が語り出した。話は戦時中に遡る。祖父から戦争の話を聞いたのはこれが初めてだった。語りたがらない人だった。
祖父はその時代の若者、として当然の様に戦地に駆り出された。送り出された先は南方だった。だが、あまり丈夫ではなく、気の優しい文学青年だった彼の体を慣れない風土や厳しい訓練は蝕んで行った。そんな彼に厳しい目を向ける兵も多かったが、ある上官だけは目を掛けてくれていたという。周りの批判から守る様に自分の側近のように扱い、支給の煙草と引き換えに栄養のありそうな食料を渡してくれたりもした。
そんな南方での生活の中、祖父は訓練中に倒れてしまった。病に体を冒されていた。
「お前は、内地で体を治した方がいい。俺が計らってやるから」
上官はそう言い、故郷に帰れるよう尽力してくれたのだと言う。故郷に帰れるのは心底嬉しかった。
いよいよ帰国の船の出る日、別れ際に上官に礼を述べ、またどうして自分にこんなに良くしてくれるのか尋ねてみた。すると、上官は同郷の出であることを明かし、「俺が帰れることがあったらいい仕事でも世話してくれよ」と笑った。
帰国して2ヶ月間は入院を余儀なくされた。ようやく散歩が許可された日、ふと南方の仲間は、あの上官はどうしているだろうと強く頭をよぎった。自分は本当に帰ってきて良かったのだろうかと。
その時、晴れ渡っていた空から雨粒が落ちてきた。天気雨だった。
雨粒が顔から滴り、祖父はぎょっとしてその場に硬直した。
雨が、塩辛い。
海水のような、涙のような、とにかく今までにない雨だった。大粒の塩辛い雨は彼や体を濡らしていった。それと共に言い表せない不安が沸き上がった。
退院してすぐに、あの上官の実家を探した。階級が違うこともあり、あまり深い話はしなかったため、分かっていたのは住んでいた街と氏名のみ。
ようやく尋ね当てて分かったのは、上官の戦死だった。それも、どうやらあの不可思議な雨の日、敵襲を受け戦死したのだろうとのことだった。
祖父はその場に膝から崩れ落ちた。もう、約束を果たすことは出来ないのだと。
「あの雨はあの人の悔し涙だったのかもなぁ。帰りたかったに決まってる。」
南方では真水が貴重だったから、せめて、と墓石に水をたっぷりとかけているのだとも教えてくれた。
「私ももう長くないからね。そのうちそっちに行って恩返ししますと伝えてきたんだ」
祖父はポツリと呟いた。
果たせなかった約束 黒月 @inuinu1113
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