猫のいない世界で彼女の手を離すということ

たけぞう

猫のいない世界で彼女の手を離すということ

 どうやら世界から猫が消えたらしい。

 君の腕のなかには温もりだけが残っている。なすがままを許しながらも気に入らないと爪を立てる、そんな気まぐれをそれ以上のエゴで包み込んでいた。ただの愛情の発露ではなくて、何か意味のある、それこそ儀式に似た行為だったかもしれない。曖昧は次第におぼろげに、ついには虚ろになっていく。君は首を傾げた。あれ、何を抱いていたっけ。

 窓の外には半分の月。たなびいた雲はなかなかに鋭利で、満月の下半分を切り落とした。真っ赤な涙を流した上半分から目を背け、君の視線は白い部屋に墜落する。足下には死体があった。

「死体ですね」

 やはり死体だったらしい。人間の首はこんなに鋭角に曲げてはいけない。そして、死体を指さし確認するのもいただけない。

「ずいぶん冷静ですね。ここでは死体は珍しくないのですか?」

「こことは?」

 聞かれて君は言葉に詰まる。はて、ここはどこだった?

 疑問に導かれるように辺りを見回すと、そこは広くて雑然とした部屋だった。ものはある、溢れてしまいそうなほどにある、しかしそこには何もなかった。がらくたやスクラップ、おおよそ求められることのなさそうなものばかりだ。そんな廃墟の内容物のような内装が、純白の空間にあるのはそれだけで強烈な違和感だった。

「……ここはどこでしたっけ?」

「さあ」

「ああ、あなたはそういう人なんですね」君は声の主の顔を覗き込んだ。長い睫毛がまばたきに合わせて揺れた。「知らないことを、恐れていない」

 君が何も知らずにここにいるのと同じくらい、目の前の彼女も何も知らないのだ。それが分かって君は安心する。頼もしさより、隣で一緒に理不尽に震えることが、ときに人を連帯させるのだ。

「一つだけ、分かっていることがあります」

「奇遇ですね、僕もです」

 ちら、と近くの壁に貼られた紙を見る。「ご自由にお過ごしください」というメッセージが書かれていて、それはホストの存在を感じさせる。しかしホストが招いたのは君たちだけではなかった。他にも十四ほどの瞳が思い思いの方向を向いていた。そのうち幾つかが、ときどき君たちに吸い寄せられ、足下に粘っこく絡みついて、ふいと去っていった。彼らのことを、君は『プレイヤー』だと認識している。

 君たちは、今ここでスポーツをしていた。それだけはなぜか認識できていた。


   *


 ジョナサン・スクーラーは大学生のグループを対象に実験を行った。四四種類のジャムについて、食品のプロにランキングをつけてもらい、そこから五種類を選び出す。このジャムを大学生たちにも食べてもらい、順位付けしてもらったのだ。

 結果、両者の評価はかなり近似していた。相関係数は〇・五五。プロでなくても、食べてみれば美味しいかどうかはわかるのだ。

 しかし、別のグループに紙を渡して、理由を書かせながら同様の実験を行ったところ、結果は散々だった。相関係数は〇・一一にまで下がった。

 人間の理性は、ときに直感を上書きしてしまう。そして理性は、そうと信じられているよりずっと脆弱だ。


   *


「おかしい」君が呟くと、隣に腰掛けた彼女が振り向いた。「『プレイヤー』の人数、少なくなっていませんか?」

 広大な空間にばらばらに散っているとはいえ、隠れるほどの遮蔽物はない。その部屋から人が消えていた。数えてみると、君たち二人を除いた人数は五人。先刻の結果に二人足りなかった。

「そうですね、気づきませんでした」

「脱出ゲームのような趣向でしょうか。そもそもこれがスポーツなのだとしたら、どこに競技性があるのでしょう?」

 彼女は首を傾げる。視線の先には開いたドアがある。それを君も見ていた。しかし、見たうえでこの部屋は密室だと判断していた。そして、そのうえで彼女は何も言わなかった。

「このままでは埒が明きませんね。スポーツなら競わなければいけませんし、インタラクションは必須でしょう。他の『プレイヤー』と接触してみましょうか」

 君は立ち上がり、自然に彼女へ手を差し伸べた。そこで自分の行動の差し出がましさにはっとし、慌てて手を引き戻す。戻しきらない掌を彼女が握った。一息にその重みを引き受ける。立ち上がった彼女は、何食わぬ顔で自然に歩き出した。一歩遅れてついていく。君の歩みは、少しだけ踊っていた。

 一番近くにいた『プレイヤー』に声をかける。その男は手近な本を燃やして暖を取っていた。焚べられた本には、よく見ると文字が不在だった。

 振り向いた男の姿を見て、君は絶句した。そのまま走って次の『プレイヤー』の肩を掴む。彼のこともそのままにして君は走った。あと二人に対しても同じことをした。残りの一人はどこかに消えていた。

「……なるほど。そういうことでしたか」

「満足しましたか?」

 背後から彼女の声がする。その息は上がっていない。きっと最短距離でここに来たのだろう。君がここで立ち止まることが分かっていたかのように。

「ワトスン君、皆を集めてください。お話がありますので」

「誰がワトスンですか」

「失礼しました。もちろんあなたはワトスンではありません。僕も探偵ではない。ここには初めからフーダニットなんて存在しないんです」

 集めなくとも、君の蛮行を咎めようと『プレイヤー』たちの方からこちらへやってきていた。男たちは皆、君だった。


   *


 一九八三年にベンジャミン・リベットの行った著名な実験がある。被験者に脳波計を繋ぎ、タイマーのボタンを持たせて、指を曲げる等の簡単な動作をしてもらう。動作を開始しようと思ったら、その意志をボタンで報告するように求めた。

 その結果、驚いたことに、被験者が運動意志を報告するよりも平均して〇・三秒前に、第二次運動野で脳活動が出現した。指を曲げようと思ったときには、脳が既に指を曲げるための信号を出しているのだ。

 この実験の解釈はいまだに定まっていない。これを、人間に自由意志などないという証拠だと考える者もいる。人間の裡には、理性にも意志にも先立つ何かがあるのだろうか。あるいは、いるのだろうか。


   *


 いつの間にか、死体の首はロバのそれになっていた。蛆がわき、蠅がたかり、目玉が刃物で傷つけられている。きっとそれに理由なんてない。ただ、原因はあったのだ。

 君しかいないこの部屋で、犯人探しも何もない。そんなもの君に決まっていた。君が、この世界を共犯者にして、すべての現象を犯したのだ。君の意志が介在したかはさておいて。

「さて」君のうち一人が言う。「説明してもらえますかね?」

 先を越された、と君は思う。トークショーを始めないのなら、その接続詞は譲ってほしかった。

 ため息ひとつ、君は語り出した。

「まず、この世界についてです。いつ世界は始まったのでしょうか。五分前、なんて諧謔は言いませんが、おそらく僕たちの思っているよりは古いはずです。なぜって、ここには不足が多すぎる。きっと、消えてしまったんです」

 君は、最初に感じていた温もりを思い出す。そして、この世界の条理のなさを、君の記憶の曖昧さを思った。どれもこれもきっと大切なものだった。残りはもうがらくたばかりだ。

「それと相似することに、この部屋からは人が消えている。その二つは関係しているに違いない。つまり――」

 君たちを見回して、君は君自身の中心で告げる。

「大切なものを消すたびに、僕たちはここから消えるのです。これはそういうマインドスポーツなのでしょう。その先に何があるかはまだ分かりません」

 その言葉は白の世界に響く。しかし、オーディエンスには響いていないようだった。それでも、君のうち一人が疑問を呟いた。

「……消すって、どうやって?」

「スポーツに一番大切なことを知っていますか?」

 首を振る君と、再び語り出す君。

「それは明文化されたルールです。『近代サッカー史上最も重要な日』は一八六三年十月二六日だとか。それが、英国の学生たちが共通ルールに合意した日です」

 何が消えてもそれだけは消えていないはずだった。スポーツをスポーツとして成立せしめる要石。そして、この世界に存在する文はひとつしかない。

「そうです。『ご自由にお過ごしください』、これがルールでした。では僕たちに残された自由とは何でしょうか?」

 そこで君は振り返る。背後には彼女がいた。君ばかりの世界で、君でない存在がいた。

「きっと、愛していました。ごめんなさい、たぶん愛も痛みも消えていますね。本当は涙のひとつくらいこぼしたかった。でもそれは、いつかの僕があなたに差し出したはずですね」

 そう信じるから、今の彼女はこの世界の一部だと気づいたから、だから君は。

「僕は、あなたを『拒絶』します」

 彼女は笑う。誰かの笑顔を眩しいと思ったのは初めてだった。こんなにも君の中心に居座ったまま、彼女は面影へと解けていく。

 ああ、拒まれては仕方がない。君の物語は、ここで君に返そう。


   *


 リベットの実験結果を受けて、二〇一五年にハインズは「中断ゲーム」を用いた実験を行った。モニタとボタンを使って、意志に先行する脳活動が現れた後に、その行動を中断できるかを調査した。

 そして、ボタンを押す〇・二秒前までであれば、脳の司令を覆せることが実証されたのだ。〇・二秒間の拒絶、それが人間に残された最後の自由だ。


   *


 目を覚ました。人工羊水のなかで見る夢は終わっていた。突然伸びてきた腕に、僕は引き上げられる。

「次だ」しばらく本来の使い方をしなかった網膜に男の姿が映る。少し、ロバに似ていた。「ぐずぐずするな」

 舌打ちして、辺りを見回す。

 そうだ、これが世界だ。あまりにも何もなくて、漂白された無の大地。それでも今なら、彼女のいないこの現実を少しだけ愛せるかもしれない。

 拒絶したのだから。残された自由で、彼女がたった一度きりの存在であることを選んだのだから。

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