唯一無二のヘレン

えいとら

Track1 サテン・ドール

 おれは熱いスポットライトを目指して歩く。


暗くて狭い、楽器の匂いがする埃っぽい通路を歩く。ジャズバーの上手かみての通路は短い。


だからおれはすぐに闇を抜け、ステージに出た。


 ひかりに包まれる。


目がくらむ。しかし慣れた光景だった。

緊張はしない。しかし心はたかぶる。


大きく息を吸う。


ステージの光を浴びたせいか……震えていた俺の手は落ち着きを取りもどした。

 

 おれは左に顔を向ける。


客が15人。ジャズバーの席は半分ほど埋まっている。


『少し“入りいり”が多いかもしれない』


 視線を前に戻しドラムセットに向かって歩く。3人ほどの客がまばらに拍手をした。それ以外の客は、大きな声で会話を続けたままだ。


 椅子ドラムスツールに座る。スポットで煌めく濃紺のドラムセットが、目の前に広がった。


ハイハット(※左足で操作するシンバル)とバスドラム(※右足で操作する低音の太鼓)の位置を調整する。


ドラムスティックを取り上げ、演奏の姿勢をとる。汗を吸って重くなったドラムスティックは、手によく馴染んだ。


 おれの視線の先にはピアニストの”鴫田さん”がいる。アメリカの有名な音楽大学を出てクラシックのピアノ奏者を目指していたが、ジャズに魅了されてミュージシャンになったらしい。


体がデカい鴫田さんはカッターシャツを着ていなかったら音楽家では無く、建築現場のオッサンにしか見えないだろう。


視線があった鴫田さんが挨拶がわりに俺を罵倒する。


「アオイ!今日もしけた顔してんな!!はははは!!」



 鴫田さんのはす向かいにたたずむくわえタバコのベーシストは、この店のマスターだ。


全身黒の服で身をつつんだマスターは、白髪混じりの髪をオールバックに撫でつけている。身長は180cm。ウッドベースがよく似合った。


タバコを咥えたまま、何故かめんどうな様子で俺に言う。


「アオイはいつものハイボールでええな?」



 全員の板付きを確認した鴫田さんが、ロックグラスをピアノの上に置く。スポットでウイスキーが琥珀色に揺らめいた。


そして鴫田さんは視線で俺たちを刺す。その視線は、”殺気”と言えば正しい気がする。


 ライブが始まるようだ。


ちなみにおれは曲目セットリストを知らない。ジャズライブにはよくある事だが、リーダーが客の盛り上がりに応じてその場でセットリストを組む。


特に楽譜が”ほぼ”必要無いドラマーには、曲名が知らされないことが多い。


じゃあどうやってドラマーが今から演奏する曲を知るかと言うと、ピアニストやベーシストが弾く“イントロ”によって知る。


ピアノの鴫田さんが弾き始めた数秒間(あるいは秒にも満たない時間)で、曲名とテンポと曲の構想を把握しなければならない。


 つまり……出たところ勝負ってことだ。


知らない曲だった場合は焦るが、コードで進行を予測して合わせるしか無い。


 そんなジャズの一か八かなところが、おれは好きなんだ。油断すると振り落とされるかのような緊張感の中で、“音の格闘技”をするのがおれは好きなんだ。


 鴫田さんがピアノの鍵盤をおもむろに叩く。低音がひとつ響く。


続いて鴫田さんの両手が、鍵盤の上を左右に行き来し、音の流れグルーヴを生み出す。


厚みを持った和音が、空気を刻むように、しかし軽やかに展開される。


 すぐに1小節が過ぎた。


俺は判断する。メジャーコード。スウィンギーなイントロ……。おそらく「サテン・ドール」だ。


「これが今日のステージの最初の曲」……そう思うと全身から汗が湧き出し、さらに昂った。


 そして15小節が過ぎる。


マスターのベースがステージの床をビリビリと揺らし、”ファイブセブン”の音が俺の足音まで響いた。


 俺はスティックでシンバルを軽く押し出し……同時にバスドラムを蹴る。


バンド全員の音が一つに混ざり合う。


 スタンダードナンバー、「サテン・ドール」が始まった。

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