第四章 潜暗夜

一 こもる

 古鳥は深い森に囲まれた山中にあり、ダムを背にした突き当たりに位置する集落である。目の前にある阿弥トンネルは、古鳥が唯一外界と繋がるための道だ。

 わかりきった知識を頭の中で繰り返し、数秒かかってようやく、古鳥から脱出することが物理的に不可能になったことを悟る。

 徒歩で山を下るという道がないわけでもないが、これから日が暮れるというときに森の中に入るのは、それこそ自殺行為だ。

「これも、陰の民の仕業なのか」

 誰に伝えるというわけでもなく口の中で呟いて、私は強い視線を感じることに気がついた。視線は一つではない。周囲の森のあちこちに、身を潜めたままこちらの出方を窺っている者たちがいる。遠く、過去にも経験したことがある感覚に、うなじのあたりから不快な悪寒が立ち上ってくる。

 身動ぎ一つできない緊張感を覚えて体を硬直させていると、左斜め後方からガサリと物音がした。弾かれたように振り返ると、作業着の男が一人、木の幹にサッと隠れる姿が見えた。

 視線の持ち主のすべてが、じわじわと近づいてきている。隠れた男の右手に、斧のようなものが握られているように見えたのは、気のせいではないだろう。

「真澄! すぐに引き返せ」

 私はすぐさましゃがみ込むと、荷台側についているキャビンの窓を叩き、叫んだ。

 真澄も事態を理解したのか、すぐさま軽トラックが動き出す。急発進でバックして切り返すと、そのまま来た道を戻っていく。振り返ると、複数の木の奥から、こちらの様子を伺うように人が首を伸ばしているのが見えた。

 強張りきっていた体から僅かに力を抜くが、これで問題が解決したわけではない。

「真澄、家に帰るのかい?」

「いや、家はダメだ……あそこじゃ、ばあちゃんを守りきれねぇ」

 キャビンの中で、妙子さんと真澄が話している。

 杉原家は昔ながらの日本家屋だ。玄関は薄い磨りガラスの入った引き戸で、広縁の雨戸は木製。強引に押し入ろうとする者の前には無力だ。そもそも、外部からの侵入を防ぐつくりにはなっていない。

「どこか籠城できそうな場所はないのか」

 窓越しに話しかける。

「公民館はあのまま奴らの本拠地になりそうだし、な……あー。役場とか?」

「町内放送は役場からするものだろう? 町内放送で合図を伝えると言っていたから、そこも避けた方が良さそうな気がする。安倍さんはすでに成り代わられていることがわかっているし。他にコンクリート造の建物はあるか?」

「じゃあ、小学校でどうだ。普段から避難場所に指定されてる」

 真澄の言葉に頷く。行ったことがないので、実際に小学校が籠城に適しているのか、私にはわからない。しかし、この場は真澄の判断に任せるべきだ。

「わかった。小学校に行こう」

 行き先が決まった軽トラックは、より速いスピードで来た道を戻る。

 道中、落ちかけていた太陽がすっかり沈み、あたりは暗くなった。軽トラックのヘッドライトが灯り、道の先を照らす。家が多く並ぶ辺りに差し掛かるが、古鳥はいつもと変わらずに静かだ。耳を澄ましても、集落からおかしな物音が聞こえてくるようなことはない。

 これが嵐の前の静けさというものかと、私は奇妙に落ち着いた気持ちで考えていた。


 たどり着いた小学校は、古鳥の中でも民家が集っているエリアからは少し離れた場所に位置していた。二階建ての校舎はこじんまりとしているが、コンクリート造でしっかりとしたつくりだ。校舎のすぐ隣には、校舎よりも大きく見える体育館が建っている。

 校庭の前に軽トラックが停まると、私とホゥロは荷台から降りた。すっかり日が暮れたので、ホゥロはもう帽子とサングラスを外している。荷台に積み込んでおいた懐中電灯を二つ手に取り点灯すると、一つを運転席から出てきた真澄に手渡した。

「校舎に入りましょう」

 妙子さんの手を握って彼女が助手席から降りるのを手伝い、そのまま校庭を突っ切って昇降口へと向かう。妙子さんの歩みに速度を合わせているせいか、二階までしかないにも関わらず、校舎が迫り来るような圧迫感を覚えた。静まり返った夜の学校は、どこか不気味だ。

 以前、真澄が古鳥の鍵をかけない文化について話していたが、取っ手を引くと、たしかに昇降口のドアは難なく開いた。全員が中に入ったところで、内側から勝手に施錠する。

「どこか安全を確保できる場所に移動しよう」

 振り向いて声をかけると、真澄が応える。

「とりあえず、すぐには入って来られない二階に行くか。あー、でも、その前に学校全体の鍵を確認した方がいいか」

「そうだな、では手分けをしよう。真澄は妙子さんを連れて、二階で籠城できそうな場所に移動してくれ。私とホゥロでまずは一階の施錠をして回るから」

「りょーかい」

 素早く会話を終えると、真澄が妙子さんの手を取って、昇降口の目の前にある階段から二階へ上がっていく。

 私はホゥロと共に、そのまま廊下を進む。一番近くの保健室に入ろうとしたところで、奥の教室から一人の若い女性が姿を現した。ベリーショートの髪に半袖のポロシャツ、紺色のジャージパンツという非常にラフな格好で、ぱっと見は性別がわかりにくかった。

 自分たち以外の人間が学校内部にいたことに驚いて私は動きを止めたが、私たちの姿を見て驚いた表情を浮かべたのは、向こうも同様だった。

「あなたたち、ここでなにをしているのですか」

 彼女の視線は私を見てからホゥロへと向く。彼の容貌の特殊さを思えば、特におかしなことでもないだろうが、彼女が本当に陰の民でないのか現段階で確信を持てない。私はひとまず一般的な対応をすることにした。

「驚かせてしまってすみません。説明させてください。私たちは怪しい者ではありません。ええと、杉原真澄のところで先月末から世話になっていて、御用聞の仕事を手伝っています」

 客観的に夜の学校に侵入してきた見知らぬ者という段階で怪しさしかないが、顔の広い真澄の名前を出して彼女の警戒心を解くことにした。

「真澄さんの、お友達?」

 やはり女性は真澄を知っていたようで、彼女の険しかった表情がわずかに緩む。

「はい。私は一条いちじょう大和といいます。こちらはホゥロです」

 私の斜め後ろに立って様子を静観しているホゥロの紹介もする。彼女の視線はまた一度ホゥロを向いたが、すぐに私へと戻ってきた。

「それで、一条さんは学校になにかご用ですか? いまここには私しかいませんが」

「避難をしにきました」

「避難って、どうかしたのですか? 台風が来ているわけでもないですし、もう断水の危険性もありませんよ」

 至極真っ当な反応に、私は言葉に詰まる。そもそも彼女を本当に信用しても良いのかもわからない状況下で、二階に真澄や妙子さんがいることは迂闊に伝えたくない。

「一条さん?」

 沈黙するしかなくなった私の様子を見て、女性が再度不審そうに眉を寄せた、ちょうどそのとき。辺りにサイレンが鳴り響いた。音は校内からではなく、学校のすぐそばに立てられた支柱の上にある、町内放送用のスピーカーから発せられている。

「え、なに?」

 女性は驚きの声をあげ、ビクリと身を縮める。しかし私は彼女に返事をすることもなく、ただゆっくりと目を閉じた。

 現在時刻は夜の八時。ついに潜暗夜がはじまったのだ。


 サイレンは一分ほど続いた後、唐突に終わった。音に圧迫されていた耳には、静まりかえった校舎にこだまする残響が不気味だ。しばらくの沈黙の後、私は改めて目を開くと、目の前にいる女性を注意深く観察した。もし彼女が陰の民であれば、潜暗夜開始の合図である今のサイレンを聞いて、私のことを襲おうと行動を起こすはずだ。

 しかし。

「外でなにか起こってるんですか?」

 女性は戸惑いながらも、事態を把握しようと私の横をすり抜けて行こうとした。昇降口へと向かうつもりなのだ。

 その姿を見て、私は腹を括る。彼女は陰の民に乗っ取られていない、と信じることに決めたのだ。

「待ってください、いま外に出るのは危険です。このまま校舎で籠城しましょう。二階には、私たちと同じく避難しにきた真澄と、妙子さんもいます」

 言葉を挟む余地を与えずに、そこまで言葉を続ける。

「危険って、なにがあったんですか?」

「詳しい説明は、二階で真澄たちと合流した後でします。とにかく、一刻も早く一階の窓と出入り口の施錠を徹底したいのです。お手伝いいただけますか?」

「え、ええ……わかりました」

 いましがた鳴り響いたサイレンにただならぬものを感じたのか、彼女も私のことを信用することにしたようだ。態度が先ほどまでの不審者に対するものから変化した。

「すみません、名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「そうでしたね。私はこの小学校で教員をやっています、高橋真百合たかはしまゆりです」

「高橋さんですね。よろしくお願いします」

 そうして改めて自己紹介を済ませてから、私たちは三人で各教室を移動しながら窓を施錠する。裏手にある職員用の出入り口など、見落としがちな場所には高橋さんが率先して向かってくれた。

 校舎自体が小さいこともあり、すべてを見て回るのに十分もかからなかっただろう。

 一階の施錠を終えて二階に向かうと、昇降口前の階段を上がったすぐのところで真澄が待っていた。彼は私のあとをついてくる高橋さんの姿を見て体をこわばらせる。

 その一方で、高橋さんは真澄の姿を見て不安そうだった表情を緩める。

「ああ、よかった。真澄さんが本当にいらっしゃって。一条さんから真澄さんがいらっしゃるっていう話は聞いていたんですが、本当かどうか、実はまだ確信が持てなかったんですよ。いったい外でなにがあったんですか? 説明は合流してからと言われてしまって」

 高橋さんの言葉を聞き、真澄が私へ視線を向けてくる。彼女は陰の民ではないのか、という無言の問いかけだ。私はその眼差しに応えて頷いた。

 真澄も私に頷きを返してから、話しはじめる。

「そうですね。とりあえず、ばあちゃんのところに行きましょう」

 話の途中で、真澄は私に視線を向けた。

「ひとまず全体を見て回って、一番落ち着けそうな図書室にしたんだ。二階は全教室施錠したよ。校舎にいたのは高橋さんだけか?」

「彼女だけだ。一階の施錠も済ませた」

 短く会話をしながら、真澄の先導に続いて二階廊下の突き当たりに位置する図書室へ向かう。学校内の他の場所はすべて消灯されているが、図書室だけは灯りがついている。

 入ってみると、図書室内は古い本が発する特有の匂いがした。一般的な教室よりも広めの部屋で、手前はいくつかの机と椅子が置かれているが、奥には所狭しと本棚が並べられている。その手前に置かれた椅子の一つに、妙子さんは不安げな表情を浮かべて座っていた。


 妙子さんと高橋さんへの説明は、彼女たちに信頼されている真澄にしてもらうことにした。私が話しても信じてもらえる自信がなかったからだが、陰の民と潜暗夜、現在私たちが置かれている状況について、彼は私よりもよほど整理された説明をしてくれている。

 その間に、私は図書室を見て回る。ホゥロは無言のまま、ただ私のあとをついてきていた。

 図書室の様子を確かめて、真澄が籠城場所として図書室を選んだのは正解だったと思う。並んでいる本棚は視線を遮るため、入り口から入ってきた者から隠れるのには好都合だ。

 さらに図書室の奥まで歩いて行くと、しっかりとしたドアがあった。開けてみると、漏れ出してきた埃っぽい匂いで、そこが倉庫であることがすぐにわかった。ドア横の壁を探り、スイッチを見つけて倉庫にも電気をつける。倉庫に窓はなく、壁際にはガラス戸のついた収納が並べられていて、普段は表に出していない貴重な本を収納しているようだ。

 万が一陰の民に図書室まで侵入された場合は、ここに籠るのが最終手段だろう。しかし問題は、倉庫の床にはたくさんの段ボールが積まれていて、五人が入るスペースがないことだ。

 中の確認を終えて倉庫から出たとき、ふと、窓の外が騒がしくなっていることに気がつく。音の発生源が近くはなく、それがなんの音と判別できるほどではない。しかし、まるで漣のようなざわめきが聞こえてくる。

「なにが起こっているのだ」

 独り言のように呟くと、ホゥロが冷静に答える。

「潜暗夜です」

 耳をすませば、そのざわめきは、あちこちから響いてこだまする多くの人の叫び声であることがわかった。古鳥の人々が、陰の民に成り代わられた隣人や家族から、わけもわからずに殺されているのだ。

 なにが起きているのかを理解した瞬間。胸に迫るのは、言いようのない感情だった。知っていたのに止められなかったこと、警告すらできなかったことへの罪悪感か。それとも、あの騒動がいずれ近づいてくるだろうという恐怖か。

「主様」

 少しばかりぼうっととしていると、ホゥロに呼ばれた。

 なにか用事かと視線を向けるが、彼の口から続く言葉はない。ただ私の様子を窺うように、じっとこちらを見ている。彼はなにか、指示を待っているのだ。

「ホゥロ、ここにある段ボールを外に出すのを手伝ってくれ。全員で中に篭れるように、スペースを空けたい」

「かしこまりました」

 余計な感傷を振り払い、私はホゥロと共に倉庫から段ボール箱を外に運び出すことにした。本が詰まっているからか、一つずつかなりの重量があるが、倉庫のすぐ外に出すだけであれば、そこまで大変なことではない。

 作業を続け、ドアの裏あたりに位置していたカビた段ボール箱を持ち上げたときだ。それは想定していたよりも随分と軽く、つい反動で大きく揺らしてしまった。封のされていない蓋部分が振動にゆっくりと開き、隙間から中身がチラリと覗く。


 それを目にした瞬間に、体が硬直する。

「……え?」

 脳に電撃が走ったかのような衝撃。

 尋常ではない頭痛に、手にしていた段ボール箱を取り落とした。衝撃に転がり出てきたのは、黒い布に貼り付けられた猿のようなお面だ。そのポッカリと空いた真円の瞳が、私を見ている。

 頭が割れるような頭痛のなか、私はすべてを思い出していた。


 これは、私自身の身体と精神を守るために、闇に隠した記憶。

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