二 しのぶ
家の敷地内に入ってきたのは、ピンク色の可愛らしい軽自動車だった。車は玄関の前に止まり、運転席からやや小太りな中年女性が出てくる。茶色に染めた髪は肩のあたりまでの長さがあり、ゆるくパーマがかけられていた。
「ホゥロ、誰か来たみたいだ」
「古鳥の人間ですか? 陰の民ですか?」
ホゥロに問われて彼女を見つめるが、私にはその見分けがつかなかった。白い半袖のカットソーが女性らしく、清潔感があるなと感じるくらいだ。
「わからない。ホゥロは見た目でわかるのか?」
「いえ、我も皮を被った陰の民のことは、見た目ではわかりません」
ドアのそばに座ったままの、ホゥロのそっけない返答には拍子抜けする。
「なんだよ。なにか見分けるコツでもあるのかと思った」
「成り代わった後は、皮を被った陰の民同士でもわからないのですよ。しかし、主様にならお分かりになるかと」
「無理言うなよ」
女性の姿が視界から消えた次の瞬間に、家の中に呼び鈴の音が響いた。私が窓際を離れると、ホゥロも立ち上がり、音を立てないようにそっとドアを開いた。お互いに無言のまま共に階段へと向かう。
幸いなことに、階段を数段降りたところからでも玄関を見下ろすことができた。階下でする物音を聞きながら、こちらに気づかれないように息を潜めて様子を窺うと、和室から出てきた雄大さんが玄関戸を開けるところだった。
引き戸が開くと玄関前で待ち構えていた女性の姿が現れる。彼女は無表情だった。その姿を見て、私は背筋が冷えるのを感じた。対面している者がいるにも関わらずいっさい表情を変化させない人の姿に、強烈な不安感を掻き立てられる。
「同胞よ。柏が消えた」
女性は家の中にまで入り込むと、玄関に立ったまま後ろ手に戸を閉め、話しはじめる。二声ではなく、声音自体は年齢を感じるやや高めの中年女性のものだ。しかし、声からもすべての感情が消え失せている。
内容からして、彼女もまた陰の民に成り代わられているようだ。
「殺されたのか」
雄大さんが問いかけ、淡々とした会話が続く。
「いや、跡形もなくいなくなっていた。自ら姿を消したか、我らに勘づいた何者かに消されたか」
「昨日情報共有に行ったが、特に変わった様子は見受けられなかった。消されたと考える方が自然だろう」
「被った皮に影響を受け、我らを裏切った可能性は否めない。しかし、用心しておくことに越したことはないな」
「柏の失踪は、古鳥で問題になりそうか。こちらに調べが入ると困ったことになる」
「あの様子では、騒ぎになる前に我らの作戦が完遂するだろう」
「今後の情報共有はどこで行えば良い?」
「潜暗夜の段取りは、次の町内会の会合にて通達される。必ず出席するように」
そこで会話が終わり、別れの挨拶をすることもなく女性が踵を返すと、戸を開けて外へ出ていく。彼らのやり取りにはすべてにおいて感情が感じられない。会話というよりも、まるで機械同士の通信のように思えた。
雄大さんが戸を閉めるのを見届け、彼が振り返らぬうちにと、私はホゥロの腕を引いて階段を上がって元の部屋に戻った。ドアを閉めてから外の様子を窺うが、雄大さんがこちらに気づいて階段を上がってくる気配はない。
今度は窓際に近づき、女性が乗った軽自動車が去っていく様子を見送る。万一のときのために車のナンバーを記憶した。
「もう一人、すでに陰の民になっている者がわかったな。あの女性の特徴を真澄に伝えたら、きっと誰だか特定できるはずだ。それと、次の町内会の会合でなにかがある」
振り向いて小声で話しかけると、ホゥロは頷く。
「商店を開いていた柏をいままで情報共有の支点にしていたのでしょう。店であれば、どのような人物が訪れても違和感がありませんから。そこがなくなったので、次の情報網をどうするか、という話になったのだと思います。しかし気になるのは『騒ぎになる前に我らの作戦が完遂するだろう』という言葉です」
「作戦というのは、潜暗夜のことだよな?」
「はい。潜暗夜決行の日が近いということでしょう」
潜暗夜決行日とは、古鳥の人間を皆殺しにするその日のことである。
「はやく、止めないと」
どこか作り話のようで、朧げだった脅威。しかし、加藤一家の死体を目の当たりにしたこと、そして陰の民に成り代わっている者が他にもいたことが発覚し、危機が徐々に実態を伴って迫ってきていることを、私は感じていた。
雄大さんに気づかれないよう、二階の窓から加藤家を抜け出した私が杉原家に帰ってくる頃には、あたりは夕暮れに染まっていた。
「おかえり、大和」
帰りを待っていてくれたのか、扇風機の風に吹かれながら広縁に座っていた真澄に声をかけられる。
「ただいま」
「家の中からは特に不審な物音とかはしてなかったからさ、潜入はうまくいったんだろうなとは思ったんだけど。心配したぜ、大丈夫だったのか? ……あれ、ホゥロは?」
「ああ、大丈夫だ。ホゥロはまだ残って雄大さんの監視をしてくれている。おそらく、ホゥロが移動しやすい夜になったら帰ってくるだろう」
大丈夫と返事をするとき、加藤一家の死体が重ねられていた光景が脳裏を掠め、微かに声が震える。玄関を経由せずに庭から直接広縁に近づくと、真澄の横に腰掛けた。扇風機の柔らかい風が肌に当たって心地よい。
「本当に大丈夫か? 顔色が悪いみたいだけど」
真澄が私の顔を覗き込むようにして首を傾げるが、私は俯いたまま話しはじめる。
「加藤さんの家族は、家の中で亡くなっていた。遺体はどうすることもできなくて、そのまま置いてきてしまったが」
「……浩大くんもか?」
「全員だ。一つのベッドの上にまとめられていた。おそらく、夜に寝ているところを殺されたのだと思う。怖い思いをしなかったのではないか、ということだけが、救いだ」
『救い』だと口にしながら、そんなことは何の救いにもならないとわかっていた。
しばしの沈黙が落ちる。真澄は額に手を当て、深く息を吐き出す。続いた声は、先ほどの私と同様に震えていた。
「本当に、古鳥の人間が殺されてるんだな」
「早く、止めないと」
「陰の民に古鳥殲滅の命令を出してる奴が誰かって話だろ」
「そうだ。地下から出てきた陰の民が命令を受けたのだから、古鳥に住んでいた中の誰かなんじゃないかとは思う。きっとその人が本当の主人で、その人は本当の意味で神語が話せるのだ」
真澄はぐしゃぐしゃと頭を掻く。
「そんな人、思い浮かばねぇよ。古鳥でいろんな言葉が話せるって言ったら、あの倉田先生くらいだけど。倉田先生はホゥロと言葉が通じなかったしな。そもそも、なんで古鳥を殲滅しなきゃなんねぇのかっていう」
「動機から考えていった方がいいのかもしれないな。古鳥に恨みを抱いている誰か、とか」
「古鳥に恨みを抱いてるのに、なんで古鳥にいるんだよ……あー、ちょっと一人、思い浮かんじまったけど」
「誰だ?」
問いかけると、真澄は言いにくそうに口篭ってから、小さな声で話しはじめる。
「集落の外れに住んでる、
「それは、かなり怪しいかもな……あれ。穂地村の村長って、私たちが子供の頃に葬式に行かなかったか」
真澄の話をきっかけに、すっかり忘れていた私の中の穂地の記憶が、また一つ思い起こされた。私が村に来たばかりの頃、祖父母に連れられ、村長の葬式にお焼香をしに行ったことがある。
「たぶんガキの頃にあった葬式は、哲郎さんの祖父にあたる人だな。
「穂地村の村長だった哲郎さんの父親も、ダムの建設について反対していたのか?」
「いや、そんなことはなかったと思うけどな。俺もガキの頃の話だからよくわからねぇけど、哲郎さんの父親の
「その一郎さんは、哲郎さんの行動をどう思っているのだろう。止めたりはしないのか?」
「あー、それなら、一郎さんはもう十年も前に亡くなってるよ」
真澄の返事に私はため息を漏らす。それでは、もし哲郎さんが本当に古鳥殲滅を命じている人物だったとしても、説得の援護は望めない。
「哲郎さんには、会いに行って確かめてみないとな。さっそく明日にでも」
真澄は苦い表情を浮かべると足をバタバタと揺らす。
「気が進まねぇー」
「真澄がそこまで言うほど大変な人なのか」
「まーぁな。大和も実際に会ったらすぐにわかるよ」
私が及び腰になってしまうような偏屈な老人の懐にも、すぐに入っていけるのが真澄の特技だ。誰とでもすぐに打ち解けてしまう真澄がそこまで言う人物というと、私も怖さを感じだす。
「しかし、そんなことも言っていられないだろう」
「そうなんだけどさ」
そこで一度会話の区切りがついたので、私は加藤家で得た情報についても真澄に確認することにした。
「ピンク色の軽自動車に乗っている、やや小太りな中年女性は誰かわかるか? 髪を茶色に染めていて、この辺りまでの長さがあった」
髪の長さを示すため、肩のあたりに手をやる。
「
現在の古鳥は土間市に吸収合併されたが、市役所は山を降りたところの都市部にあるため、かなり遠い。そのため、住民の利便性を考え、昔からあった村役場はそのまま残されていた。彼女はそこに勤めている人間だということだ。
「彼女も陰の民に成り代わられている。雄大さんのところに来て、話をしていた。おそらく他にも、成り代わられている者はいるはずだ」
私の言葉に、真澄はまた表情を曇らせる。
「本当に……どうなってんだよ。どんどん広がってんじゃねぇか」
今度こそ本当に嫌気がさしたとばかりに脱力する真澄を見ながらも、私はさらに確認を進める。
「それと、次の町内会の会合がいつあるのか、教えて欲しい。陰の民は次の町内会の会合で情報交換を行うらしいのだ。私が行けば、彼らの持っている情報や、命令を下している者が誰かという話を聞くことができるかもしれない」
真澄はうんざりしたような表情をしながらも、ポケットから小さなリングノートのスケジュール帳を取り出した。
「次の会合は明後日の昼の三時からだ。公民館で行われる」
「私も出席することはできるか?」
「普通にできるぜ。俺とばあちゃんは元から出席予定だったから……そうだな、ばあちゃんが体調悪くなったから、代わりに大和に来てもらったって形でどうだろう。そんな、陰の民がいっぱい集まるところにばあちゃん連れて行くのも不安だしさ」
「それがいいと思う」
そうして話が合意に至ったところで、家の中から妙子さんが私たちを呼ぶ声が聞こえた。時間的に、夕飯ができたのだろう。夕飯の前に風呂に入って、身を清めると同時に、今日あった嫌な記憶をリセットしてしまいたかったが、仕方ない。
私は改めて玄関から家に上がり、これからの行動予定を頭の中で整理し直していた。
その日の夜中に目が覚めたのは、本当にただの偶然だった。夢見が悪かったわけではなく、不審な物音を聞いたわけでもない。ただ唐突にはっきりと目が覚めて、奇妙な胸騒ぎがしたのだから、私は知らず知らずのうちに、なにかしらの違和感を覚えていたのかもしれない。
布団から上体を起き上がらせ、暗闇に沈む辺りを見回す。オーストラリアから持ち帰ってきたキャリーケースは部屋の隅に置いて、衣装ケースとして使っている。それ以外の物は存在しない部屋の中。外して枕元に置いていた腕時計で今現在の時刻を確認する。二時三五分。これ以上ないほどの深夜だ。
もしや、ホゥロが帰ってきたのかもしれない、と思った。
ホゥロは結局、私たちが夕飯や湯浴みを済ませて眠りにつくまで帰ってこなかったので、私は彼の身を案じていたのだ。
「ホゥロ? 帰ったのか?」
広縁に出ることなく、隣り合っているホゥロの部屋の襖に近づいて声をかけるが、返事はない。ゆっくりと襖を開けて部屋の中を確かめるが、そこに彼の姿はなかった。
出会ったときのホゥロはひどい臭いがしていたが、最近の彼は毎日風呂に入っているので、部屋についていた臭気もすっかりなくなっている。まだ帰っていないのかと、半ば落胆するような気持ちで部屋の襖を閉めようとした、そのとき。
ふと、ホゥロの部屋の別の襖がごく僅かに開いていることに気がついた。広縁につながる襖から対角線上に位置するその襖の先は、真澄の部屋だ。部屋に月光が差し込んでいるのか、僅かに開いた襖からも薄く細い光が伸びている。私がその様子を見ていると、一瞬光が遮られ、また元に戻った。つまり、襖の前をなにかがよぎったのだ。
そこは真澄の部屋なのだから、真夜中に部屋の中でなにかが動いたのならば、それは真澄のはずだ。しかし、なにかがおかしい。
真澄が起きて部屋の中を移動したのなら、どうしていっさいの物音を立てないのか。真澄はよく言えばおおらかで、悪く言えば大雑把な性質だ。自分の部屋の中をすり足で移動するようなタイプではない。
不審に思いながらも、それだけのために彼を起こすのは忍びなく感じて、私はホゥロの部屋に入ると、薄く開いた襖にそっと近づいた。顔を近づけ、襖の隙間から真澄の部屋の中を覗く。
見えたのは、畳の上に布団を敷いて寝ている真澄と、その枕元に立つ、人の形をした黒い陰だった。それはしばらく枕元に佇んだ後、ゆっくりと畳の上を滑るように移動すると、真澄の上へと覆い被さった。そしてゆっくりと、真澄へ顔と思われる部位を近づけていく。
陰がなにをしようとしているかは、一目瞭然だった。
「やめろ!」
咄嗟に声をあげ、私は襖を開け放つ。陰が振り向き、私を見る。ギョロリとした黒い瞳が二つ、両生類のような皮膚に埋められているようについている。
「やめろ、やめてくれ。真澄には手を出すな。一刻も早く、潜暗夜を止めて欲しいんだ。仲間にも伝えてくれ。私は古鳥を敵だなどと思っていない」
動きを止めた陰の民に必死で訴えかけると、なぜだか頭の奥からズキズキと響いてくるようなひどい頭痛がした。
「真澄だけは……っ」
「えっ、なん。なんだっ」
あまりにもひどい頭痛に私が両手で頭を抱えていると、真澄が私の声に気がついて目を覚ましたようだ。彼が狼狽えた声を上げたその瞬間、陰が真澄の体の上から飛び退き、獣のような身のこなしで素早く移動すると、開け放たれていた部屋の窓から外へ飛び出していく。
部屋に静寂が残る。
全身から力が抜け、私はその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
「大和! 大丈夫か、しっかりしろ」
真澄がすぐさま私のそばに駆け寄ってきた。私の肩を抱えるようにして体を支えてくれる。寝ていたのだから当然のことだが、彼は日中であれば頭上で団子状にまとめている髪を下ろしていて、いつもと雰囲気が違う。
そんな真澄の姿を見ていると、頭痛は少しずつおさまってきていた。
「ありがとう……平気だ。真澄こそ、大丈夫か」
「俺はなんもされてねぇよ。いまのがもしかして、生身の陰の民か」
「おそらく、そうだと思う」
柏さんや加藤さんたちは、ああして寝ているところを襲われて殺され、皮を奪われたのだ。朝を迎えて中身が別人になっていたとしても、周囲はそれに気づくことができない。
そこまで考えて、私はハッとして問いかけた。
「真澄、私が先ほど何語で話していたか、聞いていたか」
「ああ。さっきまで夢現だったが、普通に日本語だったと思うぞ。潜暗夜を止めてくれと、言ってただろ」
「そうか……」
皮を被っていない陰の民に対面したのだから、今度こそ神語を話せていたかと思った。しかし、真澄が私の言うことを理解していたのなら、どうやらそうではないらしい。
私は、神語を話せなくなってしまったのだろうか。もし私が神語で直接陰の民に言葉を伝えられていたら、他に命令を出している主がいても、多少なりとも状況が変わっていただろうと思うのだが。
肩を落としながら、陰の民が逃げていった窓を見やる。窓は全開で、夜風に吹かれて窓にかかるカーテンが揺れている。しかし、クーラーは稼働中だ。
「真澄、寝るときに窓開けていたのか?」
「いや、閉めてたよ。あいつが外から入ってくるときに開けたんだな」
「鍵は?」
「いやー、窓の鍵なんてかけねぇだろ。この辺りじゃ玄関だってみんな鍵かけないで出かけるぞ」
真澄は軽く笑ったが、この辺一帯におけるそのセキュリティ意識の低さは、いまの古鳥が置かれた状況においては笑い事ではないように思われた。
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