三 ばけもの

「それは二声にせいという、陰の民が持つ技術です」

 家に帰りつき、眠りについていたホゥロを叩き起こして商店であったことを説明すると、彼はごく当たり前のことを説明するように言った。

「技術、とはどういうことだ?」

「敵中で行動するとき、敵にそうと気づかれずに、仲間内で意思疎通を図るための話し方なのです。つまり、間諜の技術ということですね。だからこそ、古鳥の人間である真澄には古鳥での日常的な会話に聞こえていました」

 ホゥロは真澄と呼ぶときに、チラリと彼を見た。共に家に帰ってきた真澄は、ホゥロと私の話している内容がわからないながらに、私の横に座って話を聞いている。

 私は眉を寄せ、その詳細を知るために問いを重ねる。

「テレパシーとか、そういうことか?」

「そういった、念力のような類のものではありません。先ほど申し上げましたように、話し方の技術なのです。影の民は全員が使えます」

「そんなことが可能なのか」

「人の認識を利用しているのです。もし、我らが無音の中で神語を話していれば、それは古鳥の人間からすれば、わけがわからない言語を話している者がいる、という認識になるでしょう」

 ホゥロの説明を真剣に聞き、頷く。

「しかし人というものは、自分の認識できる言語を無意識に優先して聞こうとする習性があります。敵が話す言葉と我らの言葉を重ね、紛れさせるように同時に声を発することで、敵は彼らが認識できる言語の方だけを聞き、違和感すらも覚えない。仲間内だけに伝えたい会話を、敵の目前ですることができるようになります」

 話を聞きながら、私は『カクテルパーティー効果』という言葉を思い出していた。騒音の中でも、興味関心があるものや、必要な情報だけがはっきりと聞き取れる現象のことを、心理学でそのように呼んでいたはずだ。二声という技術は、カクテルパーティー効果の応用なのではないか。

「では、その声が私に聞こえてしまったのは、どういう理由からだ?」

 ホゥロは私を見て微笑んだ。

「主様は神語と日本語の両方を理解することができるので、二声のどちらの言葉も聞き取ることができたのでしょう。二声を話すときは、自分が普段使っている言語に意識を乗せます。我らの場合は神語ですね。なので、話者には声が重なって聞こえることはないのですが」

 そこまで説明を受け、私は自分が体験した事象がようやく腑に落ちた。私にはどちらも日本語に聞こえていたが、つまりあの嗄れた声の方は神語で話されていたわけだ。

 柏さんと男性客の会話を思い出し、私は再度、背筋がゾッとするような恐怖を覚えた。あの嗄れた声はある種の技術だということがわかって一つ謎が解けたが、それでも内容の不穏さは薄れない。

「しかし、柏商店の柏さんも、あの男性客も、二人とも古鳥の人間だ。どうして彼らが二声を使えるのだ? それに、会話の内容が物騒だった。ホゥロが話してくれた、潜暗夜というものではないのか」

 ホゥロは私の顔をじっと見つめたまま、一拍置いてから答える。

「はい。主様の仰るとおり、彼らが話していたのは間違いなく潜暗夜でしょう。二声を話していたということは、すなわち彼らは陰の民だということです。我は把握できておりませんでしたが、おそらく出入り口が水底に沈んでしまう前に、彼らも我と同様に地表に出てきていたのです。そして、予定されていた潜暗夜を、我の指示を待たずにはじめている」

 やはり、という気持ちと同時に、まさかと否定したい気持ちが入り混じる。

「……彼らが陰の民だなんていうことは、あり得ないはずだ」

 私は一度ホゥロとの会話を中断し、隣の真澄へと視線を向ける。

「真澄、柏さんはいつ頃から古鳥にいるか、知っているか?」

「柏さんは古鳥生まれ古鳥育ちの人だから、彼女が生まれたときからってことになるんじゃねぇか?」

「そうだよな。では、あのとき店にいた、男性客のことは知っているか? どこの誰で、いつ頃から古鳥にいるか」

「ああ、あの人は代々古鳥で農家をやってる加藤雄大かとうゆうだいさんだよ。学校の都合で一度離れたことがあるとかいう話を聞いたことがあるような気がするけど、たぶん二十年くらい前からはずっとここに住んでるんじゃねぇかな。なんで急にそんなこと聞くんだ? ホゥロはなんだって?」

 真澄に問われ、私はホゥロから聞いたことの説明を、隠すことなく伝えた。すべて聞き終えると、真澄はどこか軽い調子で笑った。私のことを信じていないわけではないだろうが、私のように重なる声を聞いていない彼には、同じような真剣さはなかった。

「お前の言うとおり、あの二人が地下の人間だなんてことはあり得ねぇよ。町内会の幹事もやってくれてるし、二人のことは皆が知ってる」

 私は頷いて、改めてホゥロを見る。

「二人は古くからこの古鳥に住んでいる者だそうだ。数日前に地下から出てきた者が紛れ込んでいるわけではない」

 しかしホゥロは私の顔を見つめたまま、表情を変えない。

「陰の民が皮を被っているのです。表面上はこの土地の者に見えますが、中身はすでに陰の民です」

 『皮』という単語がホゥロの口から出てきたことで、私はあのときに聞いた言葉の内容の一部を思い出す。『この男の皮を奪えた』と、たしかに男性客——雄大さんも言っていた。

「皮を被るとは、どういうことだ」

「言葉どおりの意味です。人間の肉を喰らい、皮を被って成り替わります」

 想像していた以上に物理的だった手法に、一瞬言葉が詰まる。

「っ……いやでも、とてもそうは思えなかった。二声で話しはじめる前までは、真澄と普通に話していたし、細かなことだが、真澄が普段からレモンのかき氷を頼むことさえも把握している様子だった」

 店のことを把握し、受け答えに加えてかき氷の準備をしていた柏さんの姿を思い出して反論する。

「我らは肉を喰らうことで、その者の記憶を取り込むことができるのです。だからこそ、彼らは二声でここの人間の言語が話せた。主様が彼らと接して違和感を覚えなかったのも、彼らが敵地に潜伏するため、元の人間の記憶のとおりに振る舞っていたからです」

 ホゥロの口から淡々と語られるのは、ひどく現実離れした話だ。

「ホゥロも、人の皮を被ることができるのか?」

「いえ、我にはできません。我は陰の民の長ですから、主様と陰の民との橋渡し役を務められるよう、主様に近い姿を保つために、地の底でも他の者とは違った生活をしてきました。しかし、陰の民の多くは、地下での環境に適応するために人の姿を保っていません。だからこそ、人の皮を被ることができるのです」

 私は、口の中が急速に乾いていくのを感じていた。ホゥロのような人間が人の皮を被るなどということは、とても想像がつかなかった。しかし、その行為をするのが、人ならざる姿をした者なのであれば、或いは可能なのではないか。

 あの夜、森の中で見かけたような気がした、人の姿をした影のことを思い出す。瞼のないビー玉のような瞳と視線があった気がしたが、もしかして、あれは見間違いではなかったのだろうか。

「多くの陰の民は人の姿をしておらず、彼らは人の肉を喰らい、皮を被って別人に成り代わる。だから、あの二人はもう陰の民になっていると、ホゥロは言っている」

 私はホゥロから真澄に視線を移し、静かに説明する。言葉の内容を把握するのに時間が必要だったようで、真澄は数秒置いてから、驚きに目を見開いた。

「なんだ、それ。そんなん、もうバケモノじゃねぇか」

 真澄の発した『バケモノ』という単語は辛辣なものだ。しかし正直に言えば、私もまったくの同意見だった。地の底から突如として這い出てきた、人の姿をしていない者たちは、人間と呼んで良い存在なのだろうか。

「や、ちょっと。ちょっと待ってくれ。っていうことは、柏さんと雄大さんは、もう殺されてるってことなのか?」

 真澄からされた問いかけを、ホゥロに向けて問い直す。

「商店で二声を話していた二人は、もう殺されているということなのか?」

「はい、そうなります。主様がお聞きになった彼らの会話からして、二人だけではなく、他の者にもすでに成り代わっている可能性が高いでしょう。どれほどの人数が地の底から出てきているのかはわかりませんが、潜暗夜が進められているのです」

 ホゥロの落ち着いた返事を、今度は真澄に告げる。

「そういうことらしい。二人の他にも、すでに陰の民に殺されて成り代わられている者がいるだろう、と言っている」

 真澄が呆然と口を開けるのを横目に、私はホゥロに質問を続ける。

「私は、古鳥の人々を敵だなんて思っていない。潜暗夜を止めることに、ホゥロも納得してくれたはずだ」

 自分が紛い物の主であることを自覚しながらも、私はそう言うより他にない。

「はい。我はそう承知しておりました。しかし、我は他の陰の民に会えていませんでした。そのため、作戦が自動的に始まってしまったのでしょう。理由はわかりません。彼らも、我が死んだものと思い込んだ可能性があります」

「ホゥロは彼らの長なのだろう? 今からでもどうにか止められないのか?」

「主様は、彼らが二声で話しているときに、我らの言葉で話しかけましたか?」

 問いに問いで返してきたホゥロからの質問には首を振る。

「いや。わけがわからなかったので、すぐにその場を立ち去っただけだ」

 私にはすべての言語が日本語に聞こえるので、自分がどのような言語を話しているか、自己認識はできない。しかしあの場には真澄しかいなかったので、私は日本語しか話していないはずだ。

「でしたら、彼らはまだ主様のことを主様とは認識できていないのでしょう。我が主様からの言葉を受け入れたように、他の陰の民もまた、主様からの真なるご命令を受ければ、従います」

「それは、私の口から直接彼らに意思を伝えろ、と言っているのか?」

 ホゥロは返事をしなかったが、ただ穏やかに微笑んだ。否定をしないということは、つまり肯定の意味だろう。私はため息を漏らしながら、前髪をかきあげる。

 人の皮を被った、地の底の住まう異形の存在と対峙する。そのことを思うと、気持ちが重くなる。しかし、水面下で古鳥の人間を殲滅する作戦が進行してしまっているのならば、当然止めなければならない。彼らを止められるのは、主だと誤認されている私だけだ。

 意を決し、再度ホゥロへ視線を向ける。

「わかった。ホゥロも、ついてきてくれないか」

 私からの要望を聞いて、ホゥロはにっこりと笑顔をさらに深める。そして薄暗い室内で畳に両手をつき、深々と頭を下げた。

「主様のご命令とあれば、何なりと」

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