二 みせ

 八月六日。私が日本に帰国してから一週間が経った。

 このところの日中の天気は晴れが多いが、ほぼ毎日スコールのような夕立が降っており、昨日などは夕立からそのまま一晩中降り続けた。おかげで水不足はすっかり解消され、断水の危機はほぼ遠のいたと言って良い。つまり、ダムの底が再び見えるようになるような事態は、そうそう訪れない見込みになってしまった。

 ダムを見たあの晩、不可解な行動をとっていたホゥロだが、しばらくすると自ら部屋に戻っていった。それからというもの、彼は相変わらず部屋に引きこもっている。私が声をかければ出てくるものの、口数は少ない。故郷への出入り口が水の底に沈んでしまったことについてのショックがよほど大きかったとみえる。それでなくとも、そもそも生活リズムが違いすぎるうえに、日光を苦手とする彼と共に行動することは難しい。

 私には特にすることもなく、ただ怠惰に過ごす気もないので、毎日真澄の仕事を手伝っていた。御用聞きの仕事内容は多岐にわたり、車を使っての送り迎え、収穫の手伝い、民家の草取り、庭木の剪定、掃除、家具の運搬や簡単な家電の修理など何でもこなす。真澄は古鳥の住民のほとんどを把握しているようで、どこへ行っても声をかけられた。また、彼の持つ豊富な知識と技術の高さには、私は素直に尊敬の念を抱いた。

 今日も私たちは、朝から呼ばれた民家の庭で剪定作業をしている。といっても、庭木を剪定する技術があるのは真澄だけだ。私は草むしりをしたり、落ちた枝を掃除してまとめ、軽トラックの荷台に乗せたりという雑務を行なう。


「あー、終わった終わった。あっちー!」

 作業を終えると、真澄は首に巻いたタオルを引っ張って、こめかみを伝い落ちる汗を拭った。頭のてっぺんから真夏の太陽の光りが降り注いでいる。

「頭から冷水を浴びたい」

 私も内側から蒸れるような軍手を外しながらぼやく。頭の中が『暑い』という思考で埋め尽くされていた。

 現在時刻は正午を回ったところだ。今日の仕事はこの一件のみの予定なので、ここから家に帰って、剪定した大量の枝を粉砕機で処理する作業をこなせば終わりだ。

「家着いたら庭でやろうぜ、頭から水浴びるの。つーか、仕事手伝ってくれて本当にありがとな、すげぇ助かってる。今日もお前がいなかったら、もっと時間かかってただろうし。本当に、ずっといてもらいたいくらい」

「そう言ってくれると嬉しいが、休憩を挟ませてもらってばかりだし、私としてはあまり役立っている自覚はないな。真澄が逞しくなった理由がわかるよ」

 穂地村にいた頃は真澄と共に毎日野山を駆け回っていたが、東京に越してからの私は、運動とは縁遠い生活を送っていた。炎天下での肉体労働はなかなかに堪える。

「なに言ってんだよ、十分だって。でも、大和もここ数日だけで、随分と肌が焼けたよな」

「本当にな。一応、毎朝日焼け止めを塗っているのだが」

「え、そんなもん塗ってたんだ。えらいな」

 真澄がきょとんとした表情する。

「そのままにしていたら、肌が炎症を起こすだろう。痛むからな」

「なるほど。俺はもう焼けるところまで焼けてるんで、そういうのは無縁だな」

 他愛ない会話をしながら道具を片付け、依頼主に報告を済ませ、代金をもらって軽トラックに乗り込む。ドアを閉めて冷房をかけ、溜まっていた熱風の次に冷たい空気が吹き出ると、ようやく一息つけた。

「家帰る前に、かしわ商店でかき氷食ってかねぇ?」

「ああ。良いな、それ」

 柏商店とは、杉原家から一番近いところにある個人商店だ。私もすでに何度か買い出しで行ったことがある。かき氷はまだ食べていないが、店先にお馴染みのかき氷の旗が下がっていることには気づいてた。

「んじゃ決まりで」

 一瞬想像しただけで、冷たいかき氷を欲して喉が上下した。真澄の運転する軽トラックに揺られながら、強烈な太陽光を浴びて輝くような緑豊かな道を眺める。山の上にある古鳥はどこも日当たりが良い。

「この炎天下で日光が苦手なホゥロに活動しろというのは、酷だろううな。これからホゥロにどうしてもらうべきか、悩ましいよ」

「そうだな。ホゥロは体格の割に相変わらず全然食べねぇし、うちにいてもらうのは別に構わないんだが、大和がオーストラリアに戻ったら、意思の疎通に困るしな。かといって、大和が連れて行くっていうのも色々な面で難しいだろ。飛行機に乗ろうにもパスポートがない」

 ホゥロが身分証の類を持っていないということも問題だが、経済的にも、一人でホゥロを連れてどこか別の場所で生活するというのは考え難かった。

「ホゥロが地下に帰れれば一番良いとは思うのだが。泳いで行くというのも現実的ではないしな……潜水道具を調達すれば良いのか?」

「地下の出入り口がどういう形状になってるのか知らねぇけど、水中にあったら、水圧の影響を受けるだろ。たとえ潜水してその場所まで行けたとしても、扉を開けることなんてできねぇよ」

「それはそうか。そもそも、それでは地下における食糧難の問題が解決しないしな。水中の出入り口まで食糧は運べないだろうから」

 納得して頷いていると、真澄は少しだけ声のトーンを下げる。

「ただまぁ正直な話。俺は、地下への出入り口が塞がったことはよかったと思ってるけどな。ダムの底が出てくるような渇水が、この先どれくらいの頻度でやってくるかどうかはわからねぇけどさ」

「どうして? ホゥロが元の場所に帰れた方が、真澄も安心できるだろう」

「だって、実は地下に五百人もよく知らない奴らが住んでるって言われても困るだろ。しかも、古鳥を殲滅するとかいう、得体の知れない作戦をやろうとしてたんだろ?」

「ああ。しかし、彼らの長であるというホゥロが納得してくれたから、古鳥の人間が敵だという誤解は解けたと思う」

 なぜだか陰の民を擁護するような言葉が出た。

「それでも、ちょっとでもそういうことをしようと思う奴らがたくさんいるってだけで恐怖でしかないよ。このまま放っておけば、問題は家にいるホゥロの生活だけだ。ホゥロはお前のことを慕ってるし、お前がホゥロの思ってる主人じゃねぇってことは、隠し通せばいい。それでいままでどおり、地下にはなにもなかったことにできる」

「ああ……」

 真澄の言葉はとても素直だし、その考え方には理解できるところもある。しかし、いまなお地下で飢えて死に行く大勢の人間がいるのだと思うと、いたたまれない。

「なあ、大和。ホゥロの問題につけ込んでいるようで悪いんだが。古鳥に定住することを、改めて考えてみてくれないか」

 自然と視線を落とした私を横目に見て、真澄が本気の声音で言う。しかしその要望に、私は咄嗟に返事をすることができなかった。

 古鳥での生活は嫌いではない。真澄と過ごす日々は楽しいし、妙子さんも優しい。都会のような遊び場は存在していないが、そういったものは元より私には不要だ。そもそも、もし穂地村がなくなっていなければ。もし祖父母が亡くなったとき、私がもっと大人だったら。私は、この土地を離れることはなかっただろう。私の本来の居場所は、古鳥なのかもしれないとも思う。

 しかし、なにかが心の奥で引っ掛かっている。

「急がなくて良いからさ」

 口を閉ざす私に、真澄がそう話を締め括ったとき、車は柏商店の前についた。

 柏商店は店の奥と二階に居住スペースがあり、多くの日本人が思い描く『古き良き田舎の商店』をそのまま具現化したような佇まいをしている。

 軽トラックを降りて店の中へと入っていくと、音を聞きつけたのか、奥から店主の柏さんが出てきた。背は軽く曲がり、白髪混じりの髪をまとめ上げている女性だ。具体的な年齢はわからないが、妙子さんと同年代だろう。

「こんちはー、今日も暑いですね。かき氷二つください」

 真澄がいつもの調子で声をかける。

「はいはい。味はどうする? いつものレモンかい」

「うん、俺はレモンで。大和は?」

「では、私も同じにしようかな」

「レモン二つね」

 真澄が代金を払うと、柏さんはアイスなどの入っている冷凍ショーケースから氷の塊を取り出して、かき氷機にセットする。業務用の大きなものではあるが、電動ではなく、横についているハンドルを回すタイプのものだ。

 柏さんは自分ではそのハンドルを握ろうとはしなかった。発泡スチレンシートの器とシロップだけを用意すると、機械の前を真澄に譲るように移動する。いつものことなのだろうと思われ、柏さんも真澄も慣れた調子だ。

「好きなだけ自分で削んなさいよ」

「ありがとね柏さん。大和は座ってていいぜ。そこで食ってこ」

 真澄に促され、私は商店の入り口横に設置されたベンチに腰掛けた。外なので当然暑いのだが、店の中から滲むように出てくる冷房の空気に加え、日陰になっているのでだいぶ涼しく感じる。ガリガリと大胆に氷が削れる音を心地よく聞きながら、私は目の前の景色をぼうっと眺めた。

 商店の横はちょっとした雑木林が迫っているが、前は田んぼになっていて、広々とした空間が見渡せる。なんとなしに畦道を歩く人の姿を見ていると、すぐに真澄が両手にかき氷を持って隣にやってきた。

「はいよ」

 溢れんばかりに盛られた白い氷の山に、眩い黄色のシロップがかかっている。先端がスプーン状になっているストローと共に片方のかき氷を渡された。受け取ると、わずかに氷の欠片が溢れて手にかかるが、それもまたひんやりとして気持ちが良い。

「ありがとう。いただきます」

 山を崩さないよう慎重にストローの先で掬って口に運ぶと、冷たさが喉を伝って臓腑に降るのがわかる。かき氷とは、砕いた氷に砂糖水をかけただけの代物だ。なのに暑いときに食べると、どうしてこうも美味いものだろうかと思う。

「んーっ、沁みるーっ」

 私とは違い、器に口をつけるようにしてかき氷の山をかきこんだ真澄が、目を瞑ってこめかみの辺りをトントンと叩く。その典型的な仕草に、私は小さく笑った。

「本当にそういう反応をするのだな」

「そういう反応って?」

「かき氷を食べて頭が痛むという。私は、冷たいものを食べて頭痛がしたことがないので、感覚がよくわからなくて」

 『アイスクリーム頭痛』というのが正式名称の現象だ。

 私はなぜだか、幼い頃からその感覚を味わったことがない。痛みがないのだから喜ぶべきことなのかもしれないが、冷たいものを食べて頭が痛むと言っている者は、おしなべて楽しそうに見えた。少し羨ましい。

「え。大和、アイスとか食っても頭痛くならねぇの?」

「ああ。一度もなったことがない。体質的なものだろうか」

「最高だろそれ。お前って、実はいろんな力持ってたんだなぁ」

 真澄はそうしみじみと言う。『いろんな力』には、どのような言語でも話せるし理解できるという私の特殊能力も含まれているのだろう。冷たいものを食べても頭が痛まないという、他愛のないものと同列に扱われたことが、私にはなぜだかとても嬉しかった。


 そうして真澄と話しながらかき氷を食べていると、先ほどまで遠くに見えていた畦道を歩く人が、すぐそばまで近づいてきた。農作業用の汚れた服に、つばの広い麦わら帽子を被った壮年の男性だ。私たちより少し年上くらいだろう。体格が良い。

「こんちはー」

 真澄が挨拶をすると、男性はベンチに座っている私たちに笑顔を向け会釈をしてから、横を通り抜けて商店の中へと入っていく。それはごく自然なことで、私は、彼にほとんど意識を向けていなかった。

 ただ、店の中から聞こえてくる声は自然と耳に入る。

「柏さん。こんにちは、今日も暑いですね」

 ——同胞よ。予定通りこの男の皮を奪えたぞ。

 男性の挨拶と同時に、ザリザリと骨を擦るような不快な声が聞こえた。あの夜にも聞いた嗄れた声だ。

 私はベンチに座り、前を向いたまま体を硬直させた。

 二重になった声の意味が理解できない。しかし、わからないなりに、聞いてはならないものを聞いてしまっている直感はあった。意識だけを商店の中から聞こえてくる会話に向ける。

「本当にまいっちゃうね。今日はなにが入り用だい?」

 ——よくやった。そいつの家族用に、新たな人員が必要か?

 男性に声をかけられた柏さんが接客をはじめている。

 しかし同時に聞こえてくるのは、元の彼女のものとはまったく違う、嗄れた声である。種類の違う二つの声は、別のところから聞こえてくるわけではなく、たしかに店の中で会話をしている二人から発せられていた。

 私はたまらず、持っていたかき氷を器ごと取り落とした。かき氷が土の地面にビシャリと広がる。

「おわ、お前なにやってんだ。って……大和? どうした?」

 隣に座っている真澄が、私の異変に気付いたように視線を向けてくる。

 私はなにも言わず、アイコンタクトだけで商店の中を示そうとした。商店の中の会話は続いている。

「米と醤油をいただけますか。あと、家にあるスコップがもう古くなってるから、新しいのを買おうかな。仕事に支障がありましてね」

 ——こいつの家族の力は弱い。別の家を狙った方がいい。勘付かれる前に抑えておくべき者は多くいる。敵のすべてを滅ぼすために。

 これは男の声だ。柏さんがまた応える。

「毎度あり。米と醤油はいつもの量でいいかね。スコップは好きなやつ選んできな」

 ——そうだな。なかでも駐在の東寺敬人よしとは早いうちに始末する必要がある。奴も家では一人だ。

 『始末する』という物騒な単語が耳に飛び込んできて、心臓がいっそう跳ねる。二重の声の意味も、その内容も不可解だ。ただ、なにかとても恐ろしいことが水面下で進行していることはわかった。

 しかし私の動揺とは裏腹に、真澄は怪訝そうに眉を寄せて私を見る。

「え、なんだよ。商店の中がなんだって……」

 真澄のあげた声は大きい。中の声がこちらに聞こえるのならば、こちらの声も中に聞こえるはずだ。

 チラリと商店の中を伺うと、柏さんと男性客が揃って振り返り、首を伸ばして私たちを見ていた。彼らの、何の感情もないような四つの瞳と視線が合う。

「……っ」

 背筋が凍った。

 真澄の腕を掴んで勢いよく立ち上がる。わけがわからないといった表情を浮かべている真澄を無理やり引っ張り続け、高温に蒸した軽トラックに乗り込む。

 ドアを閉め、外界から遮断されると、ようやく少しだけほっとした。温室のようになっている車内の暑さが気にならないほど、私の体からは血の気が引いていた。頭を抱え込むようにして、顔を手で覆う。

「大和、マジでどうしたんだ?」

 運転席に座った真澄に問いかけられ、返事をしようとして、一瞬声が出なかった。喉の詰まりをとるように咳払いを一つ、震えそうな声を抑えて答える。

「商店の中で、柏さんと、男性客が妙な会話をしていた」

「妙な会話って? 俺もちょっと聞いてたが、ごく普通の買い物だったと思うぜ」

「違う。買い物の会話に、別の声が重なっていたのだ! 男の皮を奪ったとか、駐在さんを始末する必要があるとか言っていた。あそこにもう二人、別の人間がいるみたいだった」

 つい語調が強まるが、真澄は怪訝さを超えて、どこか心配そうな表情をしている。

「そんなもん、聞こえなかったぞ」

 私は気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐き出す。真澄が嘘をつくはずがない。彼には本当に聞こえなかったのだ。であれば、あの嗄れた声の会話は、同じ場所にいたにもかかわらず、私だけに聞こえていたということになる。おそらく、私の持つ特殊能力のせいだろう。

 そして、嗄れた声がしていた会話の内容には心当たりがあった。きっとあれは、ホゥロの話していた潜暗夜だ。『敵地の内部にまで潜入し、勢力を広めてから一晩で片をつける』という作戦を実行に移そうとしているのだ。

 そこまで考えて顔を上げた瞬間。視界に飛び込んできたのは、笑顔で軽トラックに近づいてくる柏さんの姿だった。いつもと変わらない、人の良さそうな老婆の姿。なのになぜだかとても恐ろしい。

「真澄、車を出してくれ」

「でも、柏さんがさ……」

「いいから、はやく!」

 言い合っている間に、柏さんは私の座る助手席の横まで来ていた。指先で窓ガラスを叩かれる。恐怖で動けない私をよそに、真澄が窓を開けてしまう。

 と、柏さんは笑顔を深めた。

 彼女が窓越しに差し出してきたのは、新しいかき氷だ。

「さっきの、落としちゃったんでしょ。今日は暑いからね。これ、もう一つ持っていきな」

 告げられたのは、なんとも優しい言葉。嗄れた声は聞こえてこなかった。

 私の体は硬直したままで、差し出されたかき氷に反応することはできなかったが、真澄が運転席側から、私の体の前を横切る形で手を伸ばして、かき氷を受け取った。

「すいません、わざわざありがとうございます」

「いいってことよ。熱中症に気をつけるのよ」

「はーい」

 真澄の明るい返事を聞くと、柏さんは笑顔のまま、ゆっくりとした歩調で商店の中へと戻っていく。危機が遠ざかった実感があり、私は座席のヘッドレストに頭を預け、深く息を吐き出す。

「お前、本当におかしいぞ」

 真澄はますます不審げな眼差しを向けてくる。

「私にも、なにが何だかわからない」

 実際、柏さんとあの男性客に、そして自分の身に、なにが起こっているのかはわからない。しかし、ホゥロと話をしなければならないことだけは確信していた。

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