三 ふるさと

 ガタン、と上下に揺れる動きに、もたれていた車のフレームに頭を軽くぶつけて、私は目を覚ました。

「悪い、このあたり相変わらず道が悪くてさ」

 隣からした声に視線を向けると、変わらずハンドルを握っている真澄が、私のことを横目に見ていた。視線を車窓の外へ向けると、景色が一変している。知らず知らず寝入ってしまうまでは高速道路を走っていたが、いま見えるのは森ばかり。

 たしかに道が悪いらしく、車は最初の衝撃だけではなく、常時ガタガタと揺れている。

「いや、私の方こそすまない。いつの間にか眠ってしまったようだ」

「なに謝ってんだよ、長旅で疲れてたんだろ。でも、タイミング良かったかもな。もうすぐ着くぜ」

 話している間に、目の前に見えていたトンネルに入った。

 古鳥は、陸の孤島と呼んで差し支えないような、山の中にある集落だ。いまは土間どま市に吸収合併されて市の一部になっているが、実際は穂地村と並んで『古鳥村』だった頃となんら変わりはない。

 昔は山間の谷にあった穂地村に繋がり、さらにそこから川沿いの道を行けば山の下の地域へと通じていたが、現在の穂地村はダムの底である。つまり、古鳥は山奥の行き止まりに存在する地域になってしまった。私たちがいま通過している阿弥あみトンネルが、古鳥と外界が繋がる唯一の道になっていた。

 そこそこ長いトンネルを抜けしばらくすると、木々がまばらになって視界が開け、畑の多い集落が見えた。車道の路面状況は相変わらず悪い上に狭いため、走行する車は徐行運転を強制される。都会ではなかなか見ないような平屋が多く、一軒ごとの距離も開いており、お隣さんといっても徒歩数分かかるような距離感になる。

 穂地村は谷に位置しており暗い場所が多かったが、古鳥は山の上にあるため、平均して日当たりがいい。しかし、植生の雰囲気や家の様子、田畑の姿などは馴染みの風景だ。窓の外を眺めていれば、自然と故郷に帰ってきたのだという実感が湧いてきた。

 道路の脇で畑仕事をしていた老夫婦が二人、走っているのが真澄の軽トラックであることに気づいたのか、こちらに手を振ってきた。実に牧歌的だ。

「おかえり、大和」

 食い入るように外の景色を眺めていると、真澄が不意に声をかけてくる。

 振り向き、彼の日に焼けた顔を見つめた。なぜだか、胸の奥がきゅっと切なく傷んだ。空港で見かけたときにはまったく覚えがなかったが、いまはわかる。彼はたしかに、私の友だ。

「ただいま、真澄」


 真澄の運転する軽トラックは、集落に入ってからまもなく一軒家の前に到着した。

 真澄が穂地村から引っ越して以来、古鳥での杉原家に私が訪ねるのはこれが初めてなのだが、玄関横に置かれている大きな狸の信楽焼の置物には、凄まじい見覚えがあった。あれはきっと、穂地村の家からそのまま持ってきたのだろう。人間の記憶とは不思議なものだ。そんな置き物のことなどいままですっかり忘れ去っていたのに、実際に見たら、それを目にしていたのがまるで昨日のことであるかのように、まざまざと思い出す。

 家の前の敷地には、白い箱を荷台に乗せた自転車と、ピカピカに磨かれたシルバーのセダンが停まっている。セダンは国産ではあるが、分類としては高級車に属する代物で、周囲の景色からは少々浮いている。

「あれは、妙子さんの車か?」

「いや、ばあちゃんは車持ってねぇよ。大和が到着するって連絡はしてたから、倉田先生も来てくれたのかな。お前が元気にしてるか、気にしてたぞ。あと、自転車もあるから駐在さんも来てるな」

「倉田先生って、メールにも書いてあったな。いったい誰なんだ?」

 セダンの横を抜けて、軽トラックは倉庫を兼ねたガレージに向かう。

「あれ? 大和は倉田先生のこと憶えてないのか。倉田先生も元は穂地村の人だぞ。いまはもう定年で隠居生活をしてるが、大学の教授を務めてたって人だ。俺たちも、よくいろいろな話を聞いたもんだけどな。この辺りで一番の博識で知られてて、皆から頼りにされてるよ。今回の件でも、いろいろ相談に乗ってくれてさ」

 駐車が完了するのを助手席に座ったまま待っていると、家の中から一人の老婆が姿を現した。昔ながらの割烹着を着ている。記憶の中にあるよりもいっそう背が曲がって小さい印象になっているが、間違いなく彼女が妙子さんだ。

 エンジンが止まってから外へ出ると、妙子さんは感極まりすぎたのか、涙ぐみながら私のことを迎えてくれた。しわしわで温かい手に両手を包まれる。

「よくきた、よくきたなぁ、大和」

 妙子さんの姿が亡き祖母の姿と重なって、私の胸も熱くなる。

「おひさしぶりです。長らく不義理をしていました」

「うん、うん、いいんだよそんなこと。さあさ、入んなさい」

 妙子さんに手を引かれるまま、玄関へと近づく。

 ふとキャリーケースを下ろしていないことに気がついたが、振り向くとすでに真澄が運んでくれていた。家の敷地には砂利が敷き詰められているのでキャリーは使えないのだが、真澄はまったく重さを感じさせずに軽々と持ち上げている。

「運ばせてごめん」

「お前に使ってもらう部屋に運んどくから、気にすんなよ。ばあちゃんに案内してもらってて」

 促されるままに、妙子さんと共に家の中へ入った。

 杉原家は典型的な平屋の日本家屋だ。瓦の屋根を持ち、縁側があり、部屋は主に襖で仕切られている。とにかく部屋数が多く広い。廊下は板張りだが、それぞれの部屋は畳張りだ。間取りは違うものの、穂地村で祖父母と共に住んでいた家と様式が変わりないので、私としては落ち着く雰囲気だった。

 真澄たちが穂地村から古鳥に引っ越したのは十六年前だが、この家の築年数はそれよりも古いような気がした。当時からすでに中古の家だったのだろう。

 広い玄関からは、右手に広縁が繋がっている様子が窺える。左手のすぐそこが厠で、ドアには『節水』と書かれた紙が貼り付けてあった。

 玄関正面の廊下を通って右手の襖を開けると、広い座敷が広がっている。ここが居間だ。中央には座卓があり、その脇に置かれた座布団には二人の男性が座っていた。

 一人は警察官の制服を着た、四十代前半といった様子の恰幅の良い中年男性。

 もう一人は、七十歳は過ぎていると思われる小柄な老人。頭頂部が綺麗に禿げていて、白髪混りの髪は左右の側頭部に残るのみとなっている。しかし彼自身に貧相な様子はなく、ラフなポロシャツ姿でも品の良さが感じられた。

「おかえりなさい大和くん。久しぶりだなぁ。オーストラリアに行っていたんだって?」

 部屋に入るなり、老人がそう声をかけてくる。

「はい。失礼ですが、倉田先生ですか?」

 話の流れから、おそらくそうだろうとあたりをつけて問いかけると、老人——倉田先生は大きく頷いた。

「ああ、そうだよ。やっぱりわたしも歳食って見た目も変わったかね。大和くんの顔つきは、なんだか小さい頃そのまんまだな。昔からキリッとした男前だと思ってたがね」

 倉田先生は、私が彼のことを認識できなかったのは、自分の姿が変わったからだと思ったようだ。私はそもそも『倉田先生』という存在も憶えていなかったのだが、不快にさせるかもしれないことを言う必要もないので、曖昧に笑って流した。

 しかし、真澄にも変わっていないと言われたが、私の見た目はそんなにも変わっていないのだろうか。

 倉田先生に続き、その前に座っていた警察官の制服を着た男性が立ち上がって頭を下げる。

「久しぶり……といっても、憶えているかな? 自分は駐在所の東寺ひがしでらです。自分も元は穂地村に住んでいたんですが。古鳥の皆さんには『駐在さん』と呼んでいただいていますよ」

 彼の懸念どおり、私は彼のことも記憶にない。ただ、曖昧に笑って流すことにした。

「本日はどうして駐在さんまで来てくださったんですか?」

「通訳をされているという大和さんがいらっしゃって、なにかわかったら、自分もできることがあるんじゃないかと。いやね、あの例の男を杉原さんの家に任せっきりにしてしまっていることに、自分も心苦しさを覚えていましてね。本来はこういう困り事があったら、うちで預からなきゃいけないことなもんですから」

「なるほど」

 話をしていると、妙子さんが眉を寄せながら息を漏らす。

「駐在さんもね、いろいろとしてくださったのよ。毎日様子を見に来てくれてな、市の警察署に連れて行こうともしたんだけど、あの外人さんったら、すごく嫌がってね」

「なんだか鬼気迫るものがありましたね」

 駐在さんが妙子さんの言葉を補足するように言うと、妙子さんは深く頷いた。

「強制連行もできなかったんですか?」

「彼は犯罪者ってわけでもないですしね。まあ、まったく日本語が喋れないんですから、どっかからの違法滞在者なのかもしれませんが。それに、あんまりにも嫌がるもんだから、妙子さんが可哀想だって」

 駐在さんの声はのほほんとしている。制服を着ていなければ、彼はとても警察官には見えない。

「わたしもね、ちょくちょく様子を見に来て、彼の話している言葉の特徴が当てはまる言語がないか色々と調べたんだけど、わたしの知っている言語にはどれも該当しなくてね。今度は、彼になんとか簡単な日本語を教えようかと思ったんだけど、それも嫌がってさ」

 次に発言したのは倉田先生だ。なにやら、代わる代わる愚痴を聞かされているような気分になってきた。実際、彼らにはもうお手上げという状態なのだろう。

「日本語を教わることを嫌がるんですか?」

「そういう感じだったね。ここ数日はふさぎ込んだ様子で、もういっさい話さなくなってしまったから、言葉を教えるとかいう状態でもないんだが」

 倉田先生がそう言い終えたところで襖が開いて、真澄が部屋の中へと入ってくる。

「お。なんだ、みんなして立ったまんまで。ばあちゃん、大和にも茶出してやってよ」

 見ると、座卓の上にはたしかに、倉田先生と駐在さんが飲んでいたと思しきお茶が出ている。

「そやった、そやったね。大和ごめんな、ちょっと待っててね」

「あ、いや。大丈夫です。先に、例の男性に会ってきてしまいましょう。彼はどこに?」

 台所へ慌てて向かおうとする妙子さんを留めて、私は話を先へ進める。

「長旅で疲れてるだろ。そんなに急がなくていいんだぜ?」

「いや、大丈夫だよ。先に要件を済ませてしまった方が、私も落ち着く」

 体調を気遣ってくれる言葉に返事をすると、真澄は眉を下げて微笑んだ。

「そうか。じゃあさっそく案内するよ」

 踵を返して部屋を出る真澄に続くと、居間にいた全員が、私の後からゾロゾロとついてくる。妙子さん以外に出迎えがあるとは思っていなかったので、なんだか落ち着かない。

 部屋を出て数歩進んだ真澄が足を止めたのは、玄関から入って右手に見えていた広縁の突き当たりにある襖の前だった。

「この部屋にいる。トイレのとき以外、一日中出てこないんだ。飯もろくに食べようとしなくてさ。本当参ったよ」

 部屋の襖は隙間なく閉まっているが、しょせん襖である。こちらの声など筒抜けだろうが、真澄は特に声を潜める様子もなくそう言った。たとえ聞こえていたとして、内容は伝わらないと知っているのだから、当然の反応かもしれない。

 説明を済ませると、あとは任せたとばかりに真澄は一歩後ろに下がる。振り返ってみると、そこにいる全員が、期待と訝しみが混じる眼差しを私に向けていた。やりにくさを覚えて漏れそうになった息を噛み殺し、襖に手をかける。


 襖をゆっくりと開くと、暗い部屋の中に一筋の光が差し込んだ。部屋には窓がなく、照明もついていない。聞こえるのは、人が移動する微かな物音。ふと、獣のような独特な臭気が鼻につく。

 暗闇の中に得体の知れないものが潜んでいそうな雰囲気だ。襖を開け放したまま部屋の中へ入る。薄暗闇に目が慣れてくると、奥にいる人の姿を捉えることができるようになった。

 そこにいたのは、真澄の説明にあったとおりの長身の男性だ。しかし、彼は差し込んだ光から逃れるように、高い上背を屈ませ、部屋の隅に縮こまっていた。

 着物のような民族衣装らしき形状の服を着ていて、その薄い布地越しに、彼が逞しい体躯をしていることが見て取れる。この大柄な男性が抵抗を示したら、強制連行にはかなりの人手が必要になるだろう。駐在さんが及び腰になるのも仕方がないような気がした。

 彼の姿でなによりも目を引いたのは、腰のあたりまで豊かに伸びている見事な白髪はくはつだった。薄汚れて黄ばんではいるが、別の色の髪に白髪が混ざっているわけではなく、すべての髪が白い。顔立ちは西洋的ではないものの、彫りが深く整っている。髪の色もあいまって、一見して日本人には見えない。かといって、何人のように見えるかというと、それはかなり難しい問題だった。いままで見てきたどの人種にも当てはまらない特徴を持っている。

 彼がなにか一言でも言葉を発してくれることを期待し、私はしばし距離を保ったまま待った。しかし、彼は敵意と警戒心むき出しの眼差しを向けてくるばかりで、黙りこくっている。不法滞在の外国人というよりも、檻に捕らえられた野生動物のようだと思う。

 私は仕方なく、彼の薄水色の瞳を見つめて話しかけることにした。

「はじめまして、私の名前は一条大和です。あなたと話せるかもしれないということで、この家に住む友に呼ばれてやってきました。もしよければ、私にあなたのことを教えてくださいませんか?」

 私の声を聞いた途端、背後で様子を見守っていた人たちが息を呑んだ音が聞こえた。おそらく私はいま、彼らにとって聞き慣れない言語を話しはじめたのだろう。

 しかしそちらに注意を向ける間も無く、目の前の男性が著しい反応を示す。

「嗚呼……あああああっ」

 彼の口から上がったのは、咆哮に似た感嘆の声。

 私が驚きに目を見開いた次の瞬間、男性は膝立ちでにじり寄ってくると、そのまま私の足に縋りついた。獣のようなムッとする臭気が強くなって、思わず息を止める。

「もう、半ば諦めかけておりました。主様ぬしさまっ……お会いしとうございました。この日を、この時を、どれだけ待ち侘びたことか。ご無事でなによりでございます」

 低い声で話される、感極まったような言葉。

「は……?」

 返事として漏れたのは、呆気に取られて自然と出てきてしまった一音。

 私は、地球上のどんな言葉も母語である日本語として聞くことができる。なので、彼と言葉が通じない可能性については考えていなかった。事実、彼の話している言葉はわかる。しかし、その内容があまりにも突飛すぎて理解が追いつかない。反射的に後ずさろうとしたが、尋常ではなく強い力でしがみつかれていて動けなかった。仕方なく、縋り付かれたまま問いかける。

「主様ってなんですか。私は、あなたとは初対面ですが」

「主様は主様でございます。我があなた様にお目にかかるのは初めてですが、あなた様は我らが主様で間違いありません。我らが神より授かりし言葉、神語しんごを話されているということが、そのなによりの証拠でございます。主様、どうか我らをお救いください」

 男性は感動のあまり目に涙を浮かべている。

「ま、待ってください。私にはなんのことだかさっぱりわかりません。まず、あなたはどこの誰なのですか」

 再度問いかけると、男性がハッとしたように顔を上げた。ようやく、足にしがみつかれていた腕の力が弱まる。

「これは、大変失礼をいたしました。あまりにも感動したもので、つい」

 男性はそのまま少しだけ体を離し正座をすると、両手をついて、額を完全に畳につける程に深々と頭を下げた。

「我が名はホゥロ。我らかげの民の長を勤めております。長年の時を経て、六日前にようやく地表への扉が開いたことで、恥ずかしながらも主様に我らをお救いいただきたいという思いで、こうして地の底から出て参りました」

 『地表への扉』や『地の底』という言葉は俄かに信じられないが、六日前に住んでいた場所から出てきたのだということは、彼がいまから五日前に真澄の家の庭に現れたことと合致する。

「地の底、とは?」

 わけがわからないながらに、なんとか理解しようと質問を続ける。

「言葉どおりの意味でございます」

「それって、地底人ってことですか?」

「そう呼んでいただいても差し支えはないかと思います」

 一度落ち着いた彼は妙に冷静で、受け答えはしっかりしている。私もひとまず息を吐き出して気持ちを落ち着けると、まずは彼の要望を聞くことにした。

「それで、なにから救って欲しいのですか?」

「はい……実は、下賜がなくなったことで、地の底は、地獄のような食糧難に苦しんでいます。我ら陰の民が絶滅するのも時間の問題でございます。そこで主様にお会いして、恐れながら助けを乞おうと愚考していたのです」

 ホゥロと名乗った男性は低く響く良い声で朗々と語るが、一度そこで言葉を区切ると、歯軋りしそうな勢いで表情を歪めた。

「しかし、しかし……っ。地表に出てみれば、なんと、我らが土地が跡形もなく滅ぼされているではありませんか。あの惨状を見れば、下賜が途絶えていた理由はすぐにわかりました。あまりの光景に、陰の民の多くは嘆き悲しみ、主様に仇成した憎き敵のすべてを滅ぼすことを決意いたしました。しかし、我は偉大なる主様が亡くなったなどということを信じたくはありませんでした。そこで、潜暗夜せんあんやを開始する前に、危険を覚悟で単身この敵地までやってきたのです。敵に囚われているか、主様自らなにかお考えがあって場所を移しているか、なにかしらの可能性があるのではないか、と。とにかく何としてでも御身をお探ししようと」

 彼は怒涛のように言い連ねている。だが、私には彼の言っている内容が、言語を別にいてもまったく理解ができなかった。呆然としていると、おずおずといった様子で背後から真澄に声をかけられる。

「なぁ、大和。ちょっといいか? その様子じゃ、言葉通じたんだよな? この人、なんだって? なんかすごい勢いで大和にしがみついてたけど、どうした。大丈夫か?」

 ハッとして振り向き、興味津々といった様子の真澄の顔を見る。倉田先生、駐在さん、妙子さんの三人も、真澄と似たような表情をしてこちらを見ていた。

 とてもではないが、彼らにいまホゥロから聞いたことを共有する気にはなれない。すべてをそのまま伝えたら、嘘をついているか、頭がおかしくなったのではないかと思われるに決まっている。

「彼の名前は、ホゥロというそうだ。探していた人がいるという噂を聞いて、古鳥に来たのだと言っている。いま私にしがみついてきたのは、久しぶりに言葉が通じる人に会えたことが嬉しくて、感極まってしまったらしい」

 一瞬の逡巡の後、口をついて出てきたのは、我ながらによくできた嘘だったと思う。その説明を聞いて、妙子さんを筆頭に、その場にいる全員の表情が明るくなった。

「まぁ、彼はホゥロさんって言うのね。ようやくお名前が聞けたわ。嬉しい」

 と妙子さんが喜ぶ。倉田先生はまだ半分ほど訝しむ様子で、

「いま話していた言語は何なのだね? どうして大和くんは、彼のがその言語を話すとわかったんだ?」

 と問うてきて、さらに駐在さんには、

「彼はどこの国の人なんですか? 身元が確認できるものはありますか。なにか自分にできることは?」

 と詰め寄られる。

 私は息を吐き出しながら、全員を制止するように片手を軽く上げた。

「少し待ってください。私はまだ彼の話をしっかりとは聞けていません。どうも事情が込み入っているようですし、彼の話しているアムハラ語という言語は、理解するのが難しいのです。もう少し私に時間をください」

 咄嗟に、私自身、先日はじめて聞いたばかりの言語の名前を出してしまった。本当のアムハラ語を知っている者がいたら、嘘は簡単に露呈してしまう。ただ、この場では誰一人としてそこに注意を向ける者はいなかった。

「そうだな。大和もいまさっき日本に着いたばかりですし、ちょっと休ませてやってくださいよ。大和が彼と会話できることがわかって、俺もばあちゃんもだいぶ安心しました」

 私を援護するように、真澄が言葉を添えてくれる。倉田先生も駐在さんも、どこかまだ気がかりな様子ではあったが、さらに質問を重ねてくるようなことはしなかった。

 事実、私とホゥロが意思疎通できるということがわかっただけでも、真澄と妙子さんの不安要素は減ったはずだ。妙子さんに至っては、すでに問題のすべてが払拭されたかのようにホクホク顔である。

「なにか分かったことがあったら、こちらからご連絡しますから、今日のところはお帰りいただく形で。ばあちゃんも、玄関までお二人をお見送りしよう」

 と真澄に促され、彼らはまたぞろぞろと広縁から移動していく。

 私はそのまま部屋に残り、彼らが玄関へと向かう足音を聞いていた。側から観衆の圧がなくなったことに安堵し、思わずほっと息を漏らす。再度ホゥロを見ると、彼はまだ畳に頭をつけたままだった。

「ホゥロさん、顔を上げてください」

 促すと、ホゥロはビクッと体を震わせる。そして、おずおずといった様子で顔を上げて私を見た。

「主様。どうか、我に敬語を使うのはやめてください。我のこともホゥロと呼び捨てていただきたいのです。主様にそのような言葉を使わせてしまっては、天罰がくだります」

 ホゥロは謙遜しているというよりも、真になにかを恐れているようだ。どのみち、私が彼に話す言葉が理解できるのは彼だけで、そばで聞いている者にはなにも伝わらない。本人が嫌がるのであれば、敬語を使う意味はないと思った。

「わかった。では、そうしよう」

 私が頷くと、ホゥロは心底嬉しそうな笑顔を浮かべたのだった。

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