二 とも
飛行機から降り立った瞬間に、肌に纏いつくような湿度の高さを感じる。生まれてから二十年以上住んでいた母国だというのに、三年離れていただけで、これだけ異質に感じるものだろうか。
今日は七月三十日。南半球のオーストラリアでは冬だったが、北半球の日本は夏だ。
滑走路を窓の外に眺めながら手荷物のリュックを背負い直し、人の波に流されるようにして長い廊下を進んで、機械による入国審査を済ませる。日本人専用と案内が掲示された簡易的な手続きを利用することに、なぜだか胸の奥がざわつく感覚がした。
広い手荷物受取場で、ベルトコンベアに乗って回ってきた愛用のキャリーケースを見つけて確保する。いまどこにも家を持っていない私にとっては、ここにあるものだけが私の所持している物のすべてだ。しかし、キャリーケースの中に入っているのは数日分の服と、多少の身の回りのものくらいである。オーストラリアの部屋で使っていたもののほとんどは処分してきてしまった。
見た目よりもずっと軽いキャリーケースを引きながら、そのまま到着ロビーへと出る。到着口を出てすぐのところには、待ち人が出てくるのを今か今かと探す人の列が見えた。
その中に立つ、一人の男性に自然と視線が向く。彼は、青いサインペンで『おかえり、大和』と書かれた画用紙を胸の前に構えて握っていた。どう考えても私に向けたものだ。
男性は浅黒い肌を持ち、私よりも幾分か背が高く、がっしりとした体格をしていた。下ろせば肩まではありそうな黒髪を、前髪も合わせて頭の高い場所で一つのお団子にするように括ってまとめている。そのような髪型をしている日本人男性はあまり見かけないので、それだけでも目立っていた。どちらかと言えば狐顔と形容できる顔立ちには見覚えがあるような気もするが、私の記憶している面影は、ほぼない。
「真澄、か?」
キャリーケースを引いたまま近づいていくと、男性——真澄はパッと明るい笑顔を浮かべた。
「大和! おかえり、久しぶりだな。あー、すげぇ、大和は全然変わらねぇな。そのキリッとした眉。お前、子供の頃から完成された顔してたもんな」
彼が思っていた人物であったことにホッとして、私もつられるようにして小さく笑う。
「真澄は、変わったな。そのサインを出していてくれなかったら、正直、まったくわからなかったと思う。助かったよ」
「俺は何故だかよく変わったって言われるんだよな。多分、肉体労働が多くて体格が良くなったからなんじゃねぇかな。俺、昔はヒョロかっただろ? だから、分からないかもなーと思って、書いてきたんだ」
真澄は言うと、構えて持っていた画用紙を折りたたんで、半ズボンの大きなポケットに無造作に入れる。
「じゃ、早速行こうぜ。車は駐車場に停めてあるから。あ、荷物持つよ」
「いや、キャリーケースはこの一つしかない。大したことないから、かまわないぞ」
「いいからいいから。任せてくれって。三年も向こうにいたっていうのに、これだけで済むんだな」
私はそのまま自分で引いていこうとしたのだが、真澄が半ば強引にキャリーケースの取手を持った。固辞する理由もないので、任せることにする。
「ありがとう」
「こっちこそ、わざわざ帰ってきてくれてありがとうな。メールしたときは、まさかお前が海外にいるとは思ってなかったぜ」
「ちょうどビザも切れるところでな。一度、帰国はしようと思っていたから」
「向こうの家って、どうしたんだ?」
「すべて引き払ってきた。しばらく世話になるよ」
あの電話をしたのが今から三日前。その三日間で、私は住んでいた部屋を引き払い、すべての荷物をまとめ、急遽とったチケットで飛行機に乗って日本に戻ってきた。
「呼び戻した張本人である俺が言うことじゃねぇが、すごいスピード感だな。日本の賃貸じゃそうはいかない気がする」
「ああ、多少は余分に金がかかったが、そのあたりはわりと柔軟だな」
私が借りていた部屋の賃料は一週間ごとに発生していたので、退去の事前通告をしなかった違約金を支払っても、部屋を引き払ってしまった方が安いという判断だ。
私はもともとあまり物を持たない性分なので、支度は楽だった。用事が済めばまたオーストラリアに戻る心積もりでいるので、携帯と銀行口座の契約は残してきている。
「急かしちまってごめんな。部屋はマジ腐るほど余ってるからな。ド田舎の暮らしに嫌気がさすまでいてくれ」
真澄の口の悪さには、なぜか笑えてしまうような軽快さがある。私たちは軽い会話を交わしながら広い空港内を移動して駐車場に向かい、真澄の愛車だという白の軽トラックに乗り込んだ。
軽トラックが高速道路を快走する。
私はその助手席で、ハンドルを握る真澄の姿を見るともなしに眺めた。彼の肌は日に焼けて健康的に黒く、逞しい生命力のようなものを感じる。
長年会っていなかったのに、真澄と二人だけの車内には、居心地の悪い空気が落ちることが一度もなかった。その理由は、真澄が気負う様子もなく話を振ってくれるからだろう。
「大和はオーストラリアにいたんだろ? コアラがいるってことくらいしか知らないけど、どんなところだったんだ?」
「そうだな……端的に言うと、すごく居心地のいい国だった。天気が変わりやすいから、急に猛烈な雨が降ってくることはあるのだが、基本的には晴れている印象が強いな。空が青くて、湿度も高くないので、公園で太陽の光を浴びてのんびりしているだけでも気持ちが良い。だから街中でも、特になにをするでもなくぼーっとしている人をよく見かけていた」
「話に聞くだけでも行ってみたい国だな。大和はそこで通訳の仕事をしていたんだろ。オーストラリアは、英語でいいんだっけ? そこから何の言語に通訳するんだ? 日本語か?」
「ああ、英語が公用語だ。ただ、オーストラリアは人口の半分が移民だから、さまざまな言語を母国語とする人が入り混じっていて、日本語を含めて色々な言語の通訳の需要が高いのだ。基本的に皆英語が話せることが前提ではあるのだが、商談や専門的な会議になると、齟齬なく完全に通じないと困るからな」
「なるほどな。それでオーストラリアにいたのか。大和ってなんの言葉が話せるんだ? 何ヶ国語? って聞いたらいいのかな」
その問いかけに、私は仕事相手にいつもしている嘘をつくことにした。
「大体二十言語だ。興味を持った言語は随時習得していくから、今後も増えていくだろうが」
「え、にじゅうって。そんなに話せるようになるもんなのか? すごいな、天才じゃねぇか。っていうか、俺、世界にそんなにたくさん言語があるとも思ってなかったんだが」
驚きの表情を浮かべる真澄に、俺は曖昧な笑顔を浮かべる。私自身はその言語の習得になんの努力もしていないわけであるので、賞賛されるとどうも反応に迷う。
二十言語の習得はかなり難しいが、例え特殊能力がなかったとしても、まったくもって不可能なものではない。目立ちすぎず、俺の持つ能力との齟齬も生まれにくいちょうどいい塩梅の数字だと思う。世界に目を向けてみれば、過去には百の言語を話すことができると主張していた者もいたという。
「世界中には約七千の言語があるらしいぞ。そのうちの二千言語は、話者が千人以下というから、多くの言語が少数民族の言語として残っている形になるが」
「へー。言葉ってそんなにあるんだ。大和が話せる数も、世界にある数も俺の想像を軽く超えてたわ。お前がそれだけ話せるなら、きっとあいつの話もわかってくれるだろうっていう期待は膨らんだけどな」
真澄はそこまで声を弾ませて言ってから、ふと思いついたように眉を寄せる。
「あれ。いやでも、世界にそれだけ膨大な量の言語があるなら、その中の一つを大和が話せるかどうかはわかんねーのか? ……ま、いいか。ともかくすごいよ。俺なんて中学高校と六年間も英語勉強したのに、アイハブアペンくらいしか話せねぇし」
感心しきりという真澄の素直な反応を見て、さらなる深掘りをされないように話を変える。
「真澄はなんの仕事をしているのか、聞いても良いか。この軽トラックは自家用車で、肉体労働をしていると言っていたな。真澄は
妙子さんというのは真澄の祖母だ。
彼の祖父母は穂地村で農家をしていた。穂地村からの引っ越しはダム建設による立退きだったため、その補償で古鳥にも家と農地をもらっているはずだ。
「畑の手伝いはしてるが、主な農作業は、ばあちゃんがまだ自分でやってるよ。規模は縮小したけどな。俺はいま、古鳥で御用聞の仕事をしてるんだ。いわゆる何でも屋だな。穂地村もそうだったが、古鳥には若者が少ないからな。俺みたいな若いやつは何かとやることがあるんだよ。家具を動かしてくれとか、庭木を切ってくれとか、病院に連れて行ってくれとかな。そういう色々なことをするとき、この軽トラがあると、なにかと便利なんだ」
真澄と話していると、忘れていた過去の記憶が徐々に蘇ってくる。
「古鳥から出る気はないのか? 昔はたしか、大阪に行きたいと言っていなかったか。大阪でたこ焼き屋の社長になるのだとか」
私が問いかけた途端、真澄は吹き出し、声を上げて笑った。
「あーあー、言ってたなそんなこと。うわ恥ずかしっ」
その豪快な笑い方に、私もつられる。しばらく二人で笑い合ってから、真澄はしみじみと言葉を続けた。
「いまでも、まぁ都会に憧れはあるけど、住みたいって気持ちはねぇかもな。なにより、ばあちゃんを置いては行けねぇし。ばあちゃんだけじゃなくて、集落のほかの人たちも、なんだかんだ俺のこと頼りにしてるからな」
真澄の両親は、彼が物心ついた頃から、彼を祖父母の元に置いてどこかへ行ってしまった。彼が幼い頃に大阪へ行きたいと言っていたのは、彼の母親が大阪にいるという、嘘か真かもわからない話を聞いていたからだろう。しかし大人になってみれば、顔もろくに覚えていない親よりも、自分をずっと守り育ててきてくれた祖父母のことを大切に思うのは当然のことだ。
真澄の祖父である
祖父母と両親と、愛情があるのはどちらだと問われれば、私自身も、もう亡くなっている祖父母だと考える間も無く答える。
私が四歳のときに祖父母の元に預けられた表向きの理由は、私が小児喘息を患っていたからだ。空気の良い場所で暮らしたら喘息が良くなるのだという説明を、言い含めるようにされたことを覚えている。しかし本当の理由は、蒸発同然でいなくなった真澄の両親とそう変わらないはずだ。
当時私の両親は離婚調停中であり、以来、母とは一度も会っていない。祖父母が亡くなった後は東京に住む父の元に身を寄せたが、顔を合わせても、いつも他人行儀な挨拶だけで済ませて、ろくな会話をしなかった。大学進学を機に家を出るまで七年間も一緒に暮らしていたことになるが、楽しかった思い出の一つもありはしない。
「そういえば、空港から古鳥に直接向かっちまってるけど、親父さんのところには行かなくていいのか? たしか東京にいるんだろ?」
私の考えていたことを見通したわけではないだろうが、真澄がふと思いついたように問いかけてくる。三年も日本に帰ってきていなかったと知っているのだから、実家に顔を出さなくて良いのかというのは当然の質問だ。
「かまわない。特に話すこともないしな」
父は当然、私の連絡先を知っている。だが、オーストラリアにいたときに、父から連絡がくることは一度もなかった。私も連絡をしなかったのだから父を責められはしないが、わざわざ顔を出す必要もないだろうと判断をするに、十分な時間が経ったと思っている。
真澄も祖父母に育てられた経験から私の気持ちがわかるのか、なにかを察したように、それ以上父のことについては尋ねてこなかった。
「今回相談した件が済んだら、東京で暮らすのか?」
「いや。オーストラリアで度々仕事を依頼してくれていた人が、私のことを直接雇いたいと言ってくれている。だから、問題が解決したらその人に連絡して、就労ビザを発行してもらってオーストラリアに戻るつもりでいる。もしオーストラリアでビザが取れなかったら、他の国に行くのもいいかなとは考えているが」
父のことを別にしたとしても、私は東京に自分の居場所を見出せなかった。東京は私にとって無味乾燥としすぎている。人生の半分以上を東京で過ごしたことになるが、私の故郷と言えば少年期を過ごした穂地村であり、穂地村はもうこの世界からなくなってしまったのだ。
「そっか……また海外に行っちまうのか。俺は寂しいけど、でもなんか格好いいな」
真澄の声のトーンが少しだけ下がる。
「再出国の準備が整うまでの間、真澄の家に居させてもらおうと思っているのだが、かまわないか? 向こうでしっかり働いて貯金はしていたから、もちろん家賃は支払うが」
「なーに家賃とか水臭いこと言ってんだよ。そんなもん受け取れるわけねぇだろ。そもそも今回、困ってお前を呼びつけたのは俺たちの方だし。さっきも言ったが、部屋は腐るほど余ってんだって。いつまでだっていていいよ。気に入ってずっといてくれたら、もっと嬉しいし」
ハンドルを握って前を向いたままだが、真澄は明るい表情で私の言葉をそう笑い飛ばす。運転中でなければ、肩や背中をバシバシと叩かれていたような気がする。最後に付け加えられた言葉には、冗談ではなく本気の色が混ざっているような気配がした。
「ありがとう、助かるよ」
「おう。ばあちゃんも、大和が来るって喜んでるからさ。今日俺が出てくるときも、大和が好きだったレモンのヨーグルトを張り切って作ってた。夕飯もご馳走作るってさ」
「レモンのヨーグルト! 懐かしいな」
真澄の口から出た何気ない単語に、また一つ、閉め切っていた記憶の扉が開いた。
口の中に、妙子さんが作った爽やかなヨーグルトの味が蘇ってくる。手作りのあれは、正確にはヨーグルトではない。カルピスとレモン汁と牛乳を、おそらく寒天かなにかで固めたものだったはずだ。しかし、とてもおいしかったことだけは覚えている。真澄の家に遊びに行くと、ガラスの器に盛られてよく八刻に出てきた。
懐かしい話で笑い合っていると、真澄が一瞬だけ黙った。続けてこう問われる。
「なぁ。大和は、あそこのこと、嫌いじゃないか?」
「あそこって?」
「古鳥のこと。いや、穂地村って言った方がいいのか、よくわかんねぇけど」
「もちろん、嫌いなわけがないが。なぜ?」
私が特になんの気負いもなく答えると、真澄は鼻からゆっくりと息を吐き出した。
「それならよかったぜ。いや、大和が東京に引っ越しちまうときさ、ちょっと大変だっただろ。それから一度も帰ってこないし、あそこのことが嫌いになったのかなって、思ってたんだ」
安心したような真澄の言葉に頷く。
「ああ、そういえばそうだった……かな。あの頃のことは、正直、あまりよく覚えていないんだ」
「
「そうだな」
真澄が呼んだ『寛治さん』と『雪さん』というのは、私の祖父母の名前だ。二人とも山で足を滑らせ転落死した。だから、まだ小学生だった私は身寄りがなくなり、父のいる東京に引っ越したのだ。
しかし、二人の死を知ったときに自分がどのような感情でいたのか、二人をどう弔ったか、よく思い出せない。それに付随して、穂地村から東京に引っ越したときのことも、まるで記憶に靄がかかってしまっているかのように判然としない。真澄の言うように、両親同然に育ててくれた二人の死が、私自身にとってあまりにもショックなものだったからなのかもしれない。
むしろ記憶に強くあるのは、東京から穂地村に預けられ、初めて真澄に出会った日のことだ。すでに両親の仲が悪いことは子供心に察してはいたが、当時はまだ夫婦として、私を送りに両親が揃っていた。
あの日は、桜の木ではなく、道路の隅にだけ薄桃色の花びらが残る、晴れた春の日だった。初めて東京の都心部を離れた私の目には、新緑に包まれた穂地村はとても美しいものとして映った。
村に着いてから一時間ほどが経過した昼下がり。両親と祖父母の上滑りするような会話を、畳張りの居間に置かれた座布団に座って私は聞いていた。
私自身はほとんど言葉を発していなかったが、話題の中心は私だ。私がどのようなものが好きで、どのようなものが嫌いか。喘息を中心にした体調のこと、薬のこと、気をつけねばならないこと、母と共に熱心に家庭でおこなっていた学習のことなど。
ここは父自身の実家だというのに、父は私同様にほとんど口を開かなかった。対照的に、母は幾度も頭を下げて、
「どうか大和をお願いします」
と言っていた。
そんなに自分のことが心配ならば、母も一緒にこの家に住めば良いのにと思ったことを憶えている。しかし改めて思い返せば、あのときの母の熱心さは、私をここに捨てていくという決意があったからこそのものだったのだ。なんとも残酷な話だ。
退屈を感じながらふと視線を横に移したとき、庭に面した大きな掃き出し窓の向こうに、自分と同い年くらいの少年の姿があった。あの日はまだ肌寒さの残る気温だったが、少年はTシャツに半ズボン姿で、どこから持ってきたのか、身長の倍ほどもありそうな長さの竹竿を持っていた。それが、真澄だ。
真澄は私と視線が合うと、慌てて逃げるようにして庭の植え込みの裏に隠れた。しかしまだそこにいることは、はみ出している竹竿ですぐにわかる。
私は興味を引かれて座布団から立ち上がり、掃き出し窓に両手をついて、真澄の様子を観察した。真澄も私が近づいてきたことに気がついたのか、植え込みからひょこっと顔を覗かせる。
と、私の様子を見守っていた祖母がそばにやってきて、窓を開けた。私の頭の上に置かれた祖母の手からは、じんわりと暖かさが伝わってきた。
「真澄ちゃん、こっちおいで。うちの孫の大和だよ。真澄ちゃんと同じで四歳だから、仲良くしてやってな」
祖母に呼ばれ、真澄はまたおずおずとした様子で姿を現すと、窓のすぐそばのところまでやってくる。当時の真澄は髪を丸刈りにしていて『田舎の子供』を体現したような存在だった。
「おまえ、大和っていうのか?」
やや乱暴に問いかけられ、私は言葉を発さずに頷く。
「おれ、杉原真澄」
「真澄。それ、なに?」
ずっと気になっていた、彼の持っている竹竿を指差す。
「これか? これは竹だ。家の裏で拾った。かっこいいだろ」
なにが格好いいのかはよくわからなかったが、真澄が自信満々に言うものだから、私はまた頷いた。
「大和、真澄ちゃんと遊びに行ってくるかい?」
私たちのやり取りを微笑ましげに見守っていた祖母に問われ、三度目の頷きをする。この癖は大人になった今でも抜けていない気がするが、私は言葉で返事をする代わりに、頷きで済ませる傾向がある。
祖母が私の靴を取りに行ってくれた。掃き出し窓の下に靴を揃えて置かれ、私はそこから庭へ出る。庭と言っても、塀などの囲いがあるわけではない。裏手にはすぐそばまで深い森が迫っていて、玄関側からはすぐに正面の道に出られるようになっていた。
待ち構えていた真澄に手を引かれるまま、私は歩き出す。そのとき、背後から声をかけられた。
「大和……っ。あまり、走らないようにね」
振り向くと、母が掃き出し窓から心配そうな顔を出し、私の方を見ている。
私の体調をいつでも気にしていた母は、普段からうんざりするほどに小うるさかった。しかし、このときばかりは違う。他にもっとなにか言いたそうではあったが、そのすべてを必死に飲み込んでいるような様子だった。
違和感を覚えながらも、私はただ頷いた。そうして、真澄と共に家を離れて行ったのだ。
その日、私と真澄は心ゆくまで遊んだ。すでに穂地村の家の周辺を知り尽くしていた真澄は、私にさまざまなことを教えてくれた。特別だと言われて、貸してもらった竹竿を無意味に振り回すのも、なんとなく楽しかった。
真澄は、一人で遊んでいるときに、車でやってきた私のことを見つけて、様子を見にきたのだそうだ。このあたりに同い年の子供はいなかったから、遊び相手ができてとても嬉しいのだと言っていた。森の中にある秘密基地だという場所に案内してもらい、
「おれたち友達だからな」
と言ってもらえたことは、東京には友達らしい友達がいなかった私にとっても、嬉しいことだった。正真正銘、真澄は私のはじめての友達だ。
家に帰ったのは、太陽が傾きかけ、あたりが夕暮れに染まってからだ。祖母の作る夕飯の匂いが漂う、東京のマンションとは比べ物にならないほどに広い家の中。そこにはすでに、両親の姿はどこにもなかった。
私はここにくる前に、祖父母の家に一人で預けられることを言い含められていた。だから、両親に置いていかれることは、はじめからわかっていたことだ。
しかしその晩。泣き疲れて昏倒するように眠りにつくまで私の涙が止まることはなく、優しい祖父母を心底困らせることになる。
幼い私は、自分が両親に捨てられたのだということを、正しく理解していた。
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