〈王国記17〉 休日3

「でもなんだかんだ、叙任式よかったなあ。この一週間の中で、一番騎士!って感じがした。王女様もとっても麗しかったし」


 私の麗しいという言葉に反応してか、そういえば、とエナがポケットからピアスを取り出した。

 午前中、肺動脈通りの雑貨屋で買ったものだ。エナは、シンプルなパールのスタッドピアスを選んだ。私も同じものが欲しくて手を伸ばしたが、エナに別のものを勧められた。理由を尋ねると、アンナ丸顔だから、丸いのじゃないほうがいいよ、と言われ、チェーンタイプで似たような種類のものを渡された。


 エナが両手で自分の耳にピアスを着けながら、うん、やっぱいい感じだね、と私のほうを見て言ってくれた。私も既に今日買ったピアスをつけている。


 そんなこんなしているうちに、私たちのテーブルにも、ケーキが運ばれてくるのが見えた。


 ウェイトレスさんの身長が低いからか、その分、遠目で見たときにケーキが大きく見えた。と思ったが、テーブルに近づききっても依然大きい。遠近法でもなんでもなくただ純粋に大きくて最高である。歓声があがる。

「おいしそう」

「おいしそう」

 阿呆みたいな感想がエナとハモり、甘味は人の知能を下げることを知る。

 クッキー生地のタルトの上に、生クリームがたっぷり、そしてそれ以上にフルーツがたっぷり乗っかっている。さくらんぼなんかはまるごと乗っかっていて、何かしらの魔法を使わないと零れ落ちてしまいそうな果物のボリュームだ。


 ウェイトレスさんの手で、お皿が優雅にテーブル、自分の目の前に置かれる。このきらめく幸福な食べ物が、自らのものであり、これから胃に収められる未来を実感し、幸せで胸がきゅうっとなる。向かいのエナも、魚を前にした猫のように目を見開いて見入っている。


 ごゆっくりおすごしください、とウェイトレスさんが鈴のなるような声で言い、お辞儀をしてくれた。我に返り、ありがとうございます、と返す。


 顔をあげた彼女を見届け、ケーキに向き合おうとしたが、私は動きが止まってしまった。もう一度、ウェイトレスさんのほうを見る。彼女は優雅に微笑んでいる。


 フォークを手に取ったエナが、動き出さない私を見てじれったそうにしている。でも、それどころではなかった。


「王女様⁉」


 目の前の笑みが、あっという間にいたずらっぽいものに様変わりする。


「あれ? 呼び捨てで呼んでくれないの?」


 弾けるような笑顔。下からこちらを覗き込むような姿勢に、前掛けの裾が揺れる。


「その節は、大変失礼をいたしました‼」


 頭をテーブルにつけん勢いで謝る。訓練場に響き渡った名乗りを聞いたときの、徐々に焦りがこみあげる感覚を思い出す。

 というか、王女様を立たせてこちらが座っているとか、何かしらの刑罰が下されてしかるべき蛮行では? しかし、座っているのが不敬だと言うのなら、王女様の前で装飾品を身に着けているのも不敬だし、ケーキを運ばせているのも不敬だ。もう何が正解か分からない。


 困ったときのエナ頼みと隣を見るが、彼女も口を開いて固まってしまっていた。


「あ、ごめんなさい、楽しい時間を邪魔するつもりはなかったの」


 と王女様は両手をこちらに向けてくれた。座ったままでいいという意味だろうか。状況が飲み込み切れていないため、なんの返答もできない。身体も動かせない。


「いつものようにお店に入ったら、見知った顔を見つけたものでしたか……見つけたからっ、つい店主にお願いして、いたずらしちゃったっ」


 時折噛みながらも、にこにこと嬉しそうな王女様。しかし依然、こちらは言葉がでなかった。


 びっくりした。ぜんぜん気づかなかった。その恰好もかわいい。いろいろ言いたいことが思い浮かびはするのだが、口に出す前に躊躇いがうまれ、結局尻込みしてしまう。エナも同じ状況のようで、必死に頭を働かせているが、最適解が見つからないようだった。


 だって王女様だ。数日前は普通に話をしたけれど、あの時の私は目の前

にいるのが王女様だとは分かっていなかった。叙任式での立ち振る舞いを見た後では、とても同じことはできない。今にして思えば、あの朝自分のとった行動が騎士としてどれだけ悪しきものだったかが分かる。


 国に仕える身である騎士が、その国主の娘に向かい、礼を欠いた言動で

接すること。


 それは、叙任式での王女様の、必死の努力を無駄にする行いだ。日々、王女として暮らす中で、国の頂点に存在するに恥じない人間であろうとする、幼い女の子の一生懸命な背伸びを、軽んじる行為だ。


 だからこそ、ここであの朝のように気軽な言葉を返すことはできなかっ

た。


 狼狽しているこちらの様子を見て、王女様の顔からだんだん笑顔が消えていく。私たちが困惑していることが徐々に伝わったようだった。

 私はなんとか口を開く。


「そうでしたか」


 長い時間をかけ、どうにか返した言葉は、そんなつまらないもので、自分でも驚くほど落ち着いていて、だからこそ空間に冷たくこだました。

 それを聞いて、王女様の口が小さく開かれた。楽しみにしていたものがなくなってしまったときの失望が、表情に暗い影を落とし、瞳が揺らいだ。

 そうして何かを悟ったように目が伏せられた。


 王女様のこぶしがぎゅっと握られるのが視界の端に移った。それを見たとき、激しい後悔が私の胸を襲った。けれどそのときには、王女様は目の前で顔をあげていた。私がエナとの会話の中で、麗しいと形容した笑顔だった。


「ごめんなさい。お休み中に、話しかけてしまって。ご迷惑でしたね。またお城でお会いしましょう」


 王女様は、綺麗な声で、そう言った。踵を返す。小走りでカウンターまでかけていく。小さな背中が遠ざかっていく。本当に小さい背中。あ、と声がでかけ、手を伸ばしかける。


 聴こえるはずもなく、王女様はそのまま店主の元までたどりつくと、後ろ手に結い紐を解いて、前掛けをきれいにたたんで返した。そこで私はようやく、王女様がウェイトレスの格好をしていたことを認識した。


 数分前を想像する。カフェに入るなり、私たちを見つけたときの王女様の喜びと、同時に頭に浮かんだひらめき。いたずらっぽい笑み。私たちにばれないように、こっそり店主に話しかけたときの胸の高鳴り。柱の影でいそいそと前掛けを身に着けるときの緊張。なれない所作をそうとばれないように繕いながらケーキを運んでいる間の王女様の期待。想像する。


 こういうことが、何回もあったのだろうか。


 そうでなければ、目をふせてから、あげるまでのわずかな間で、態度を完璧に切り替えられるようには思えなかった。


 礼節、忠義、それを表すための態度、どれも大切なことだとは思う。


 前掛けを返した王女様が、また小走りで出口に向かっていく。店主と、私たち以外の数組の客が、その姿を目で追う。彼女の所作は優雅だが、その頬は真っ赤で、王女様でもドッキリが盛大に失敗したことが、人並みに恥ずかしかったのだということを知る。


 レイアは、何が好きなの?

 敬語を使わない人、ですかね。というよりも、敬語が嫌いです。

 そのわりに、自分はさっきから敬語だけれど。

 …………確かに! 言われてみればそうですね。


 あの朝の会話が、ふと頭に浮かび上がった。同時に、さっき私たちに話しかけてくれたときの彼女の、慣れないながらも弾むような口調を思い出して、たまらなく胸が苦しくなった。


 レイア! と、気づいたら呼び止めていた。


 店主が遠くで驚いたようにこちらを見つめているのが視界の端に映る。レイアが振り向く。やっぱり、その瞳は少しだけ濡れている。


「よかったら、一緒にどう?」


 声が震えた。さっきの今でこんなことを言っても、冷たくつっぱねられるのではないか。たとえ王女様がよくても、こんな口調で話しかけるのは、やはり騎士にあるまじき行いなのではないか。そういった懸念で、身体が震えた。

 でも、この震えは、私たちのテーブルに向かう途中、レイアも同様に体験した震えのはずだ。それでも今の私と一緒で、大きく鳴る胸の鼓動に任せて、踏み出してくれたんだ。


 レイアが、大きく目を見開く。私の顔を見て、それから、テーブルの上のケーキを見て、また私の顔を見た。その表情が次第に喜色で満ち溢れ、瞳が美しく輝いた。それを見て、緊張で張り詰めていた私の顔の筋肉も、ようやく弛緩する。


「うん!」


 レイアはそう言って、弾むような足取りでこちらに駆け寄る一歩を踏み出した。

 この光景を間違いだという人がいたら、この笑顔を見てもなおそう思うのかが知りたい。それくらい、心から嬉しそうな笑顔だった。

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