第46話愛を捨てる
マグリットの服を身に付けてから、僕は自室へと向けて歩いていく。
等間隔で並ぶ窓から陽射しが射し込み、僕を照らし出す。
長い髪に、成長した骨格、華奢とは違う引き締まった身体が落とす影は、
まるで影法師ばかりが、成長しているようだ。
16歳のままの僕の精神は、置いてけぼりにされてしまっていた。
心許ない思いを抱えたまま自室の扉を開き、部屋の中を目にした瞬間、僕の身体は固まった。
誰もいないはず自室の出窓に、一人の少女が片膝を抱えるように座っていた。
彼女の黄金がかった光沢を帯びる髪は、紗のように白い横顔を彩っていた。
顔がこちらに向くと、睫毛の陰の奥に潜んだ薔薇色の瞳が僕を映し出した。
華奢な首もとから胸元までを覆うオーガンジーの生地越しに、真珠色の肌が淡く透けて見える。
レースと重ねられたミルク色のシルクドレスは、胸下で切り返しがあり、彼女が立ち上がると柔らかく襞の寄せ足首まで覆い隠した。
「フロレンス…、…」
呆然と呟く僕の声に、フロレンスは片手で無造作にドレスのスカートを掴むと、横に広げて見せる。
「ドレスしかない。と言われてしまっては、断れないだろう。やはり似合わないか」
肩を竦めるフロレンスの仕草に、僕はまだ魂を囚われたように呆けながら、頭を左右に振った。
窓辺から射し込む陽光を受け、淡い光に縁取られるフロレンスは、聖女のように清らかで、美しい。
僕は彼女の側まで歩み寄り正面で立ち止まると、途切れた言葉をようやく吐き出した。
「いや…、…君が、とても…綺麗で。言葉が出なくなった」
「馬子にも衣装というヤツだな」
長い睫毛を瞬かせて見せたフロレンスが、可笑しそうに笑うと華奢な肩が弾む。
彼女の微かな仕草が、微笑む形の良い唇が、今の僕に何よりも愛しく、救いでもあった。
たった一人の愛しい人。
そして、唯一の理解者であろう人。
僕はフロレンスを見詰めると、ずっと抱えていた疑問をようやく口にした。
「フロレンス、君は…未来の記憶があるのか?」
フロレンスの笑みに象られていた唇が、ゆっくりと引き絞られていった。
彼女の瞳が、覚悟を決めるように僕を真っ直ぐに見据える。
「ある。だからこそ、君を迎えに来たんだ。ジークヴァルト」
僕の心臓が一際は強く脈打った。
耳の奥で激しく脈動する鼓動が、煩くて仕方ない。
浅くなりそうな呼吸を必死に繰り返すと、その度に、僕の未来であったはずの記憶が甦った。
僕は瞳を伏せて俯くと、次々沸き上がってくる記憶に溺れそうになりながら、声を絞り出す。
「じゃあ、あの未来は、いや、未来だったものは…本当にあったこと、なのか?」
「そうだ。選ばれるはずだった未来。それをねじ曲げて、私たちはここにいる」
「なんで、どうやって…」
僕が驚きに目を見開き、フロレンスを映し出す。
見詰めた彼女の薔薇色の瞳の奥に、鮮やかな焔が見えた。その目に宿る、全てを灼き払う輝きが、僕の罪を突きつける。
「ルベルは炎と断罪の精霊だ。罪が犯された時、その者が心からの償いを望むなら…罪に応じた罰を与え、やり直す機会を与えてくれる」
「それで…、…この身体に?」
僕は確かめるように、片手を自分の胸に触れさせた。
視線を自分の身体に落とすと、そこにはフロレンスを見上げていた頃の僕はもう、いない。
成長した外見と、ちぐはぐな精神ばかりが、ぽつんと立っているばかりだ。
「君が学び、成長していく時間を代償として支払ったのだろう。そして犯した罪を忘れるな、と言っているのだと、思う」
失われた、僕の歳月。
それだけの月日があれば、今よりも多く学び、公爵家を受け継ぎ、貴族としての責任を果たせていただろう。
しかし、この姿ではジークヴァルトとして人前に立つことさえ、難しくなる。
僕の払った代償の重さが、じわじわと鉛のように腹に沈殿していった。
それでも、妹の無事な姿を思えば。
罪を贖うことができる安堵を思えば。
後悔などなかった。
たった一つの心掛りを除いて。
「だったらなんで、フロレンスにも記憶が?まさか、僕のせいで」
僕は、抱えていた不安を口にした。
フロレンスという理解者が居てくれ喜びに反して、愛しい人を巻き込んでしまったかもしれない恐怖が、僕の心の中に巣くっていたのだ。
そんな僕の思いをよそに、フロレンスは頭を左右に振って、決然と否定した。
「違う。私も共に贖えと、ルベルは仰せなのだろう。私が、君を…殺せなかったから」
フロレンスの声が、微かに震える。
俯いた彼女の柔らかな横顔を隠すように、絹のような髪が肩口を滑って垂れ掛かった。
フロレンスの両手の指が組み合わされ、祈り、許しを求めるように強く強く、握り込まれる。
「すまない。私が君を…───愛してしまったから、背負わせてしまった」
血を絞り出すような声は、愛と一緒に罪を吐き出すような苦悩に満ちた響きで、僕を心を締め上げる。
僕は反射的に腕を伸ばすと、フロレンスの身体を抱き寄せていた。
「フロレンス、違う…そうじゃないっ!」
胸の中に収まる、フロレンスの華奢な身体。微かに震える肩の細さは、幼い頃と変わらないものだった。
彼女に何一つとして罪はないのに、どうしたらこの苦痛から救えるのだろうか。
フロレンスを抱き締める腕に力を込め、片手を滑らせると、柔らかな髪を掻き握る。
「ジークヴァルト…?」
僕の胸に抱き込まれたフロレンスの唇から、戸惑うような声が漏れた。
「君のせいじゃない…、…君はただ、僕を救ってくれたんだ…ただ、それだけじゃないか」
フロレンスにまで、記憶を残す必要なんてなかったのに。
彼女の中から残酷な記憶を消したくて、僕は唇を彼女の小さな頭に押し付けて、繰り返し精霊に祈り続けた。
───精霊よ、どうか僕にだけ罰をお与え下さい。どうか、彼女をお救い下さい
祈りを繰り返す僕の背に、フロレンスの腕が触れた。
彼女は僕の心臓の上に唇を寄せると、そっと、内緒話をするように囁き掛ける。
「ジーク…覚えているか?初陣の前夜に、君が私を抱き締めてくれたこと」
僕は突然の問いかけに、戸惑いながら微かに頷いた。
「ああ、君がいなくなったって騒ぎがあった夜だ」
「ジークが、最初に私を見つけてくれたんだ。抱き締めてくれて…一緒に逃げよう、って、笑って言ってくれた」
彼女の微かに微笑む気配が、幼い頃の忘れられない思い出へと、僕を誘った。
戦の強行軍と、能力の負荷に耐えきれないだろう虚弱なロザモンド公爵の代わりに、齢十二の幼いフロレンスが出兵することになった。
そして出陣前夜に、彼女は姿を消したのだ。
困り果て、助けを求めたロザモンド公爵と父の密談を盗み聞きした僕は、彼女を探しに邸宅を抜け出した。
初春の頃のまだ冷たい夜空の下、彼女が好きだった場所を目指して、僕は一心に駆け抜けた。
そして、貴族街の奥にある人気のない庭園の泉の畔で幼いフロレンスを見付けたのだ。
降るような星屑を映し出す泉の前で泣く彼女の姿が、切なくて。
引き留めたくて。
急いで駆け寄って抱き締めたことを、僕は今でも覚えている。
あの日から、きっと僕は、フロレンスをどうしようもなく愛していたのだ。
公爵家の跡取りであることを、捨ててしまいたいぐらいに。
「あの夜、君は公爵家じゃなくて…私を選んでくれた。それだけで、私は一人で生きていけると思ったんだ。だから、私は君が居るだけで、良い。君が、私を想っていなくても…それだけで、生きていける」
フロレンスの告白に、僕も君を愛していると告げたくて、堪らなかった。
だけど、言えるはずがない。
歩むはずだった未来で、僕は守るべき国民を殺め、彼女に犠牲を強いた。
そして今もなお、残された記憶で彼女を苦しめている。
そんな自分が、今さら彼女にどの面を下げて愛を乞えと言うのだ。
人並みの幸せを得ようというのだ。
僕は愛してると告げる代わりに、国民の命を摘んだ手をフロレンスの肩にそっと置いて、身体を引き離した。
「…フロレンス、これだけは覚えていてくれ。君になんの罪もない。君は僕を救い、妹を救い、公国を救った。誰がなんと言おうと、君は公国の守護者だ」
僕は自分の想い飲み下し、守護者としてのフロレンスに語り掛けた。まるで、幼い頃の思い出を全て塗り替えるように。
僕を見上げたフロレンスの瞳が、徐々に泣き出しそうは微笑みに歪んでいく。
「…、…ありがとう、ジークヴァルト」
ジーク、そう呼んでくれた幼いフロレンスの顔は、もうそこにはなくなってしまっていた。
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