後悔の連鎖

森本 晃次

第1話 社会情勢

の物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年6月時点のものです。


 K市というと、県庁所在地であるF市の隣に位置し、都心部まで、電車に乗っても、30分以内という、昭和の昔からのベッドタウンであった。近くには、似たような市がいくつかあり、そのすべてが、人口、10万前後という結構大きなベッドタウンを形成していて、その分、結構それぞれの市で、刺激し合って、競争心をむき出しにしていたりした。

 そのせいもあってか、市の境目がいびつなところもあり、数軒だけ家が突出していて、左右で、それぞれ市が違うということもあったりした。

 今は、4つほどの人口10万単位の市が密集していて、これが、

「平成の市町村合併などで一つになっていれば、県でも、3番目くらいの大都市になっていることだろう」

 と言われている。

 ただ、考えてみれば、それぞれに意地のようなものがあったり、合併することで得をする市もあれば、損をする市もある。そうなると、全会一致で、すべての市が賛成するということはないだろう。

 そもそも、市として独立しているところなのだから、そんなに必死になって、他の市と一緒になる必要もない。下手に一つになってしまうと、自分たちの主張が通らないことで、それまであったプライドが傷つけられることになるので、あまり、市町村合併の意味はない。

 K市は、北側を県庁所在地の市と接していて、結構半分くらいの市の境を接していることになるから、下手をすると、県庁所在地に、市町村合併で組み込まれる可能性もあった。

 それだけは避けたかった。

 たぶん、区になるのだろうが、それも嫌だったのだ。

 ここは、市に昇格したのは、戦後、10年くらいであった。ちょうど、日本が独立国としての体裁が整い。

「もはや戦後ではない」

 と言われ始めた頃であった。

 帝都では、東京タワーの建設が行われていた頃であろう。住宅問題もだいぶ落ち着いてきて、テレビなどが、一般家庭に普及し始める頃ではなかっただろうか。

 ただ、このあたりはまだ、

「戦後」

 の雰囲気が残っていた。

 なぜなら、このあたりは、米軍キャンプが残っていて、いわゆる、

「米軍基地の街」

 でもあったのだ。

 旧日本軍の建設した空港を収容し、そこから戦闘機が飛び立っていたのだという話を聞かされた。

「米軍というのは、そんなに怖いものではなかったよ」

 と、祖母から聞かされたことがあった。

 母親もまだその頃は生まれる前か、生まれていても、まだ小さかった頃か、記憶にないということであった。

 ただ、祖母から聞かされてはいたと言っていたので、イメージは沸いたのではないだろうか。

 今は、当然のことながら、米軍基地はなくなっていて、そこに大きなスポーツ公園や、住宅街が建ち並んでいて、昔の面影は、もうほとんどない。

 昔の面影として記憶にあるのは、鉄道の引き込み線があり、その引き込み線の奥に、白い扉が、観音開きでついていたが、それが、米軍基地の名残りだということを、聞かされたことがあった。

 まだ、小学生くらいの頃で、記憶としては、低学年の頃だったと思う。かろうじて、昭和だったと思うので、当時は、JRではなく、国鉄だったのだろう。

 昭和から平成になった頃に、ちょうど、JRが発足したということであったのだ。

 そんなK市というところは、それほど広いわけではないが、

「都心に近い」

 ということで、十分なベッドタウンになるわけなので、マンションが建ち並んだり、住宅街が山のすそ野に出来上がったりと、ある時期から一気に栄えてきた。

 だが、最初は、駅などの公共交通機関を中心とした商店街が栄えていたのだが、ある時期、ちょうど、21世紀に変わる頃くらいからであろうか、街の商店街は、次第にさびれていき、郊外にできた大型ショッピングセンターに、その地位を奪われることになった。

 皆が車を持つようになり、郊外の住宅が手軽に買えるようになったのが、大きいのかも知れない。

 バブルが弾けたことで、土地の値段が下がり始めたのも原因だった。

 土地の値段は下がり、ベッドタウンとして、住民がどんどん増えてくることで、手軽にマイホームが持てるようになった。

 普通の家庭では、バブル崩壊をもろに受けてしまっているので、なかなか家を買うなど、考えられない。リストラや、

「残業してはいけない」

 と言われはするが、仕事量が減るどころか、人が減っている分、自分へのしわ寄せが増えてくる中で、不安だけを抱えて生きている人に、

「マイホームなどという危険な夢など持てるはずがない」

 ということで、普通の庶民には、高嶺の花であった。

 だが、業種によっては、バブルの崩壊に関係のない(と言えば語弊があるだろうが)、いや、影響が比較的少なかったところは、マイホームを買う人もいたに違いない。

 考えてみれば、バブルの時期は、

「土地の値段は下がらない」

 と言って。

「土地ころがし」

 などと言われ、まるで、株で商売するかのように、土地を転がすかのようにして、金儲けをしていた人がたくさんいた。

「これを投資というんだ」

 と言っている人もいた時代があり、少々金があれば、誰でも手を出す商売だったのだ。

 そういう意味ではバブルの時代はいろいろな神話と呼ばれるものがあった。この土地のように、

「土地の値段は下がらない神話」

 であったり、

「銀行を中心とした金融会社はつぶれることはない」

 などというものがあった。

 しかし、そもそもバブルというのは、読んで字のごとしで、

「泡」

 という意味で、平たくいうと、

「実体のないもの」

 と言えるのだ。

 つまり、土地の値段も、金融がやっている貸付などのものは、値段が上がった分の利益で儲けているわけで、上がり続けるということに限界がないという神話がどうして信じられていたのか、今の人が結果から考えれば、すぐに理解できることなのに、当時は、一般庶民は別にして、経済学者などの専門家でも、真面目に信じていたことだったのであろう。

「事業を拡大して、どんどん商売を広げれば、その分、利益が増える。つまり、売り上げが増えた分だけ、利益が増えるわけで、利益第一主義なわけなので、当然、事業の拡大が一番優先されるべきことであろう」

 と言える。

 バブルが弾けてから、ネット時代に入り、さらに、商売が、

「会員制の宅配業」

 などというものに移行していくと、その利便性から、会員になる人が増えてくる。

 この新しい業界は、どんどん増えてくるのだが、これもある意味、問題がある。

 というのは、基本が、

「会員制」

 というところにあった。

 つまり、

「会員が増えなければ、基本的に売り上げは伸びない」

 ということである。

 例えば、最初に会員になった人は、100人いたとして。最初は、皆一か月で5万の購入があったとすれば、月で500万の売り上げになる。それが半年経って、50人会員が増えて、150人になったとすれば、皆が果たして5万円を買ってくれるであろうか?

 新しく会員になった人は買ってくれるかも知れないが、既存の会員は、次第に売り上げは減っていくのではないか?

 つまり、最初こそ、皆、物珍しさで、どんどん買うが、次第に、ネットによる購入を生活費で計算し始めると、次第に財布のひもをきつく締め始めるのだ。

 商品がずっと変わり映えしないものとなってしまうと、マンネリ化してしまうと、

「やっぱり、スーパーで、自分で見て買う方がいいわ」

 と思ったり、

「月末締めの翌月引き落としなどということで、金銭感覚が鈍ってくる」

 と考える人が多くなり、次第に一人の購入価格が減っていくのが当たり前になってくるのだ。

 そうなると、会社側が何を考えるかというと、

「会員を増やす」

 ということが、一番に考えるようになる。

 もちろん、真新しい商品を探すというのも並行して行う必要があるが、一番目に見えて成果が分かるのは、会員を増やすことである。

 その考えは、ある意味、自転車操業のようなものではないだろうか?

 それをあからさまに感じたのは、今から、15年くらい前に問題になった、

「自費出版社系の、社会問題」

 であった。

 バブルが弾けたことで、残業をしなくなった時間の余裕を、サブカルチャーなどに時間を使う人が増えてきた。ジムに通ったり、趣味に打ち込むために、教室に通ったりなど、それまで、

「自分にはできない」

 と思っていたが、

「時間があるなら、やってみよう」

 と思うようになったことで、爆発的に増えたのが、

「小説執筆」

 という趣味であった。

 昔は、小説家を目指したり、本を出したいと思っていたりした人が本を書いて行動するとすれば、

「有名出版社が主催する、文学新人賞に応募する」

 ということか、あるいは。

「原稿を直接、出版社に持ち込んで、編集者に見てもらう」

 というやり方くらいしかなかっただろう。

 出版社の新人賞など、それこそ、最近始めた人間には、ハードルが高すぎる。もし、入賞できたとしても、次回作への期待から、そこで終わってしまう人が結構いるという。

 持ち込み原稿に至っては、編集者の人は受け取りくらいはするだろうが、ほぼ、確実に読みもしないで、ゴミ箱行きが関の山である。編集者の人間も、

「俺たちだって暇じゃないんだ」

 と、自分の仕事もあるし、既存の先生たちへのフォローもある、新人にもなっていないずぶの素人の作品に目を通すなど、そんな時間、あるわけはないというものだ。

 しかし、そんな状況を逆手に取って出てきたのが、

「自費出版社系」

 の会社だった。

 自費出版というのは、昔からあったが、それはあくまでも、

「本にしたいという原稿があったら、製本してあげる」

 という程度の製本作業くらいであった。

 当然、本屋への流通などありえず、退職金の一部で、自分が書いた本を形にして、知り合いに配るというくらいのものだったのだ。

 だが、その頃に爆発的に増えた、小説執筆を趣味にしている人を相手にすれば、儲かるということが分かってきたのか、自費出版社系の会社もうまくできていた。

 まず、新聞や雑誌、ネットなどで、

「本を出しませんか?」

 ということで、小説を書いている人の目に留まるようにする。

「原稿をお送りください。こちらで必ず読んで、評価をして、出版内容を提案いたします」

 などということを書いてある。

「どうせ、小説を書いても、どこにも見せるところがない」

 と思っているところにそういう広告を見れば、皆こぞって、原稿を送るだろう。

 確かに、相手は批評をして返してくれる。

 相手がうまいところは、

「長所ばかりを褒めるのではなく、短所も適切に指摘して、どうすればよくなるのかということまで細かく書いてある」

 出版社に持ち込んでも、読まれずゴミ箱行きだということを分かっている人にとっては、雲泥の差に感じることだろう。

 そうやって、筆者を安心させておいて、出版案内を行う。出版方法には三つがあり、まず一つは、

「優秀な作品なので、出版社が全面バックアップで、費用もすべて、出版社持ちとなる、企画出版」

 というやり方、そして、

「優秀な作品であるが、すべてを出版社が負うというのは危険なので、お互いに出版費用を折版するという共同出版というやり方」

 そして、今までのような自費出版のやり方の3つであった。

 ただ、基本は共同出版しか言わない。

 しかも、定価×発行部数のさらに上の値段を筆者に見積もりとして出すのだ。経済学の基本、いや、小学生低学年レベルの算数ができさえすれば、おかしいということが分かりそうなものなのに、どう皆が納得して本を出す気になるのか分からないが、実際に本を出そうという人が相当数いたという。しかし、聴いた人の話であるが、

「出版社にずっと企画出版を目指して原稿を送り続けていると、相手がキレて、今まであなたの作品を自分の権限で共同出版にしてきたけど、もうできませんと言い出したんですよ」

 という、

「それでどうしたんですか?」

「こちらも、そんな、疑問に思っている会社に、百万円単位の金を出すきはないので、企画出版できるまで、原稿を送り続けると言ったんですよ。こっちもいい加減詐欺だと思い始めていましたからね。すると相手はこういうんですよ。企画出版なんて、ずぶの素人にできるわけがない、こっちだって商売だから、著者に知名度がないとできないんですよ。著者が芸能人のような人か、犯罪者などでなければ、企画出版は、100%ありえませんよっていうんですよ。さすがにこれが相手の本音だと分かりました。最初から企画出版などありえないのに、その気にさせて、共同出版で、お金を出させるというやり方なんだってね」

 と、詐欺だと分かっていたというには、さすがにこの話になると、怒りがこみあげてくるようだった。

 そして、こうも言った。

「つまりは、あいつらのやり方とすれば、まずは、会員、つまり原稿を送ってくる連中をたくさん掴んで、その中から、本を出すカモを見つける。そのためには、相手を安心させるために、まず、宣伝で人を募り、そして送ってきた原稿に真摯に向き合って、返事と提案をする。だから、出資として、会社側は、まず宣伝費用と、相手を安心させるために批評をできるだけの人材に対しての人件費が必要になる。ここまでは分かっていたんだろうが、本を作っても、売れるわけではない。そもそも、売るつもりなどないわけで、本を作るのに出させる金が利益のすべてになる。出ていく金の中で気づかないのは、本をどんどん作り続けると、作った本はすべて、在庫ということになる。筆者とすれば、まるで自分の命とも言えるような、なけなしの金で出版したもの。人によっては、借金してでも、本を出しているかも知れない。そんな思いがあるので、処分もできない。やつらはそれを最初から分かっていたのかね? だけど、そのうちに本を出した人もおかしいと思うようになる、まったく本を出しても反応がないからだ。有名書店には置くと言っていたのに、置かれた気配がない。当たり前のことである。そんな無名の訳の分からない出版社の本を、有名書店が置くわけがないだろう。そうやって、次第に追い詰められていくんだよ。そんな会社はね。それで、裁判沙汰になったりして、信用という絶対的なものが崩れると、宣伝しても人が集まらなくなる。次第に皆詐欺だと思い始めると、元々が零細企業、潰れ始めると一気だった。バタバタと潰れていったものだよ」

 と言っていた。

「要するに、自転車操業だったということですか?」

 と聞くと、

「そう、まさにその通り。一つがおかしくなると、後は油がキレてしまったかのような感じだよね。まったく動かんくなり、前にも後ろにも進めない。要するに、本当に詐欺以外の何者でもなかったということだからね」

 ということだった。

「自転車操業の恐ろしさというところなのかな?」

 というと、

「それ以外ないということだろうね」

 と、全面的に意見の一致があったのだ。

 そういう意味で、自転車操業を行っていると、

「近い将来、立ち行かなくなる」

 ということは、今までの事例が証明していることである。

 宅配事業に関しては、今はまだ上昇気流なのかも知れないが、自費出版系は完全に詐欺だったので、没落も仕方がないが、それにしても、

「没落し始めてからというものが早かった」

 と言えるであろう。

 そんな時代が、あっという間に過ぎていき、最近感じることとして、

「世間は住みにくくなったな?」

 と思うことと、

「自由に過ごせるようになった:

 と思うことが、両方あるということだ。

 一種の、コンプライアンスであったり、プライバシーなどという言葉がキーワードになったりしているのだろう。

 元をただせば、時代としては、昭和の終わり頃からであろうか?

「嫌煙権」

 などと言う言葉とともに、キーワードになったのが、

「副流煙」

 という言葉であった。

 今しか知らない人は分からないだろうが、昔、特に昭和の50年代くらいまでは、タバコはどこでも吸えたのだ。

 会社の会議室であったり、電車の中、さらには、学校の職員室で、タバコの煙が充満しているなどというのは、当たり前のことだった。

 今でこそ、

「室内で吸えるところは、自宅しかない」

 と言われる時代になってきたが、禁煙室などというのがあり、タバコを吸わない人はそっちに行けばいいというような感じで、圧倒的に喫煙者の方が強かった。

 まるで、

「タバコを吸うのは当たり前だ」

 と言わんばかりであった。

 しかし、それから30年の間に、変わってきたのだ。

 公共の交通機関である、ターミナルや電車の中を見れば分かること。

 例えば電車で、8両編成の電車があったとすれば、最初はすべての車両で吸えていたのだが、そのうち、嫌煙権が叫ばれるようになると、

「前から4両目と8両目は禁煙車両というように、まるで、今の、

「通勤時間帯による、女性専用列車」

 のような扱いであった。

 それが、そのうちに、逆になってきた。

 電車は基本的に禁煙車となり、禁煙車両が今度は喫煙者量に変わるという感じである。

 そして、その頃には、ホームでは全面禁煙となった。

 ただし、大きなターミナルのホームに喫煙ルームを設け、そこ以外では吸えないというような今に近い状態になってきた。

 そして、今が、それまで、大っぴらに吸えていた、パチンコ屋や、スナックなどでも禁煙が義務付けられるようになり、基本、室内では吸ってはいけないことになったのだった。

 この時代になると、完全に喫煙者は、

「悪人」

 ということになる。

 ただ、これはほとんどの人がマナーを守っているのに、一部の不心得者がマナーを守らない。

 パチンコ屋で吸えなくなったので、表に出て、駐車場などで吸っている。本当はいけないことなのに、平気でやっているのを見ると、普通(タバコを吸わない)の人間には、そんな連中が悪党にしか見えない。そういう目で結局は、マナーを守って吸っている人たちにまで、同じような目で見るのだ。

 ということは、

「あんな不心得者がいるから、マナーを守っている俺たちまで白い目で見られるんだ」

 と言って腹を立てている。

 つまり、不心得者に腹を立てているのは、普通にタバコを吸わない人たちではなく、マナーを守って吸っている人たちからすれば、これほど迷惑な話はないのだ。

 もし、

「喫煙者はすべて俺たちの味方だ」

 などという不心得者がいたとすれば、

「これ以上救いようのないバカだ」

 ということになるのだろう。

 今、タバコを吸っていない人も、その中にはかなりの人が、

「以前は吸っていたが、今は辞めた」

 という人がかなりいるはずだ。

 努力をして辞めた人にも申し訳ないと思わないのだろうか? そんな連中が、この世をおかしくしているということであろう。

 また、もう一つ、コンプライアンスであったり、プライバシーというのも、ここ十数年くらいの間に叫ばれてきたことだ。

 プライバシーというと、いわゆる、

「個人情報保護」

 の観点から来ているものだ。

 プライバシーで問題になってきたのは、ネットの普及が大きいのではないだろうか?

 特に問題になったのは、パソコンの中に、個人情報を置いておいて、電話番号や住所、氏名などを盗んでいって、迷惑メールを送りつけたり、下手をすると、詐欺に使ったりしていたのだ。

 さらに、銀行口座のIDやパスワードを盗んだり、買い物サイトでパスワードを盗むことで、勝手に買い物をされてしまったりという、被害もあったりした。

 そのため、個人情報保護の法律が作られ、パソコン業界でも、ウイルス駆除ソフトの開発などに奔走していたりするのだ。

 これこそ、IT時代における問題の一つと言えるだろう。

 さらに、今度はコンプライアンスと呼ばれるもので、これは、いわゆる、

「ハラスメント」

 と呼ばれるものである。

「セクハラ」、

「パワハラ」

 などという言葉が叫ばれるが、これも、ほぼ同じ時期くらいに施工された、昔から言われてきたことであるが、

「男女雇用均等法」

 というものが、影響しているのだろう。

 昔の、男尊女卑という時代から、今の男女平等という時代になるにつれて、昔はひどいものだった。

 これは日本に限ったことではなく、

 昔は、女性に選挙権がなかったりした時代もあったくらいだ。

 これは各国で法律があり、今ではほとんどの国で廃止されたものに、

「姦通罪」

 というものがあった。

 これは、結婚している配偶者のいる人が、姦通、つまり、浮気や不倫をした場合に、刑法で罰せられるというものだった。

 日本では、戦後、つまり、大日本帝国から日本国に生まれ変わり、民主主義憲法である、日本国憲法ができたからだった。

 というのも、日本における姦通罪というのは、他の国と比べてまったく違っていたのだ。

 というのは、日本における姦通罪というのは、

「姦通をしたのが、女性であり、男性が訴える場合にのみ、許される法律だった」

 ということである。

 つまり、男性が、不倫をしても、姦通罪にはならないということだったのだ。

 こんな法律は確かに日本だけだったが、新刑法が作られる時、この姦通罪の項目は、日本国憲法における、

「法の下の平等」

 というものに抵触するので、違憲であるという考えからであった。

 日本も日本国に生まれ変わってから、女性にも選挙権、いわゆる参政権が認められることになったくらいなので、女性差別はひどいものだったようだ。

 ただ、法の下の平等と言っても、女性の社会への参加はなかなか実現することもなく、なかなか社会が許さない状況が続いてきた。

 それでも、やっと21世紀に入ってから、男女雇用機会均等法ができ、社会に参画が、堂々と認められるようになった。

 しかし、若干、

「やりすぎ」

 という感じも否めない。

 特に、昔から呼ばれてきた名称の変更を余儀なくされたのは、何の必要があるのかと思っている人も少なくないだろう。

 スチュワーデスを、キャビンアテンダントと呼んでみたり、看護婦を看護師にしてみたりと、それに関しては反対意見が多いのも否めない気がする。

 そのうちに、男女差別だけではなく、上下関係であったり、社会で働く上での問題点を重要視するようになってきたのだ。

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