◆閑話: 何かが足りない学舎 @阿知波 碧
時系列は第一章最終話の後、舞台は現代日本です。特別なことは何も起こりません。
************************************************
やがて、その歌声がわたくしを含めた歌い手たちの内へ染み入るようにして消えると、大きなスピーカーを通した「着席」という合図が送られ、ザザっという空気が震える音を響かせながら一同一斉に座席へと腰を下ろしました。
あらまぁ、もう終わりですのね。どうにも身が入りませんわ。好きな歌でしたのに。
どこか、後ろ髪を引かれているような思いがいたします。
日々、興味の赴くまま、様々なことに取り組み、そのほとんどで満足のゆく結果を出してきたわたくしに、どのような心残りがあるというのでしょうか。いくら考えても思い当たりません。
ただ、何かが足りない。何かを忘れている。どうしてか、そんな気持ちがしてならないのです。
「
自分の名前が呼ばれたことに気付き、わたくしは考え事に没頭しかけていた意識を切り替え、声楽の先生にもお褒めの言葉を頂いた軽やかに響く声で「はい」と返事をして起立します。
いけませんね。
そうして今、目の前のすべきことまで忘れてしまっては世話がありませんわ……と思いつつも、また気が付けば、何物かも知れない不備不足を探し続けてしまっていました。
ここは、わたくしが通う私立女学園に附属する大講堂です。
ずらりと並んだ固定席を埋め尽くす生徒たちの間を、歩幅を乱すことなく、優雅に、さりとて場の進行を滞らせたりはしないよう足早に歩んで参ります。正面最奥に設置された階段を登れば、壇上の演台にてわたくしが在籍する高等部の校長先生が迎えてくださいました。
この方のお顔、やっぱり見慣れませんでしたわね。
校長先生は柔和なお顔をした妙齢の女性です。仕立ての良いお召し物でとても上品に思えます。
わたくしは、この方に含むところは何一つございません……けれど。
昨年末、本学園は創立以来まったく類を見ない大不祥事を引き起こしてしまいました。
その
学園の卒業生を特定の団体・職業へ、まるで人身売買のように
芋づる式に組織の関係者や利益を享受していた方々も
幸い、残された理事会や各方面に根を張ったOB会の方々のご尽力により、九死に一生を
目の前にいらっしゃる校長先生を始め、
ただ、わたくし個人の問題として、見慣れない新任職員の方々が目に
物忘れに悩まされるような年ではありませんのにね。
ひょっとすると、いなくなられた先生のどなたかと何かございましたかしら?
「卒業証書、授与……」
ああ、もう! 集中! 集中! ですわ!
「
校長先生が内容を読み上げられ、賞状をこちらへ差し出してこられます。
わたくしは小さく一歩を踏み出し、両手でそれを受け取ると、小さく後退して元の位置へ戻り、次に呼ばれた方のお名前を音に聞きつつ、登ってきた方の反対側から壇上を後にするのでした。
ええと、そう言えば、まだ肝心なことについてご説明しておりませんでしたわね?
ご覧の通り、本日は本学園高等部の卒業証書授与式……俗に言う卒業式が執り行われています。
この大講堂にて、生徒と父兄を合わせたよりも遙かに人数が多い来賓の方々に見守られながら、
名字の関係上、わたくしを最初として始まった卒業証書授与もほどなく最後の方のようですね。
二月の半ば頃に催され、様々な不安が解消された反動から盛り上がりすぎてしまった
それでも、後ろの方の席より在校生たちのすすり泣く声など漏れ聞こえてくれば、こちらへも少しずつその空気は
やがて、学園長や来賓の方々による有り難くも長々とした祝辞がすべて結ばれ、式も終わりへ近付きます。在校生代表の送辞に続き、
そうして、式の締めくくりとなる合唱曲「
『今年からは、この歌を唄うことを取りやめよう』そのような声も事前には上がったそうです。
先述の不祥事、たとえ学園の運営が維持されていたとしても世間の目は厳しいものです。
この歌を生徒に唄わせる……その事実が呼び込む厄介ごとは
『それでも唄いたい。唄わせてください』全校生徒の署名まで集めて嘆願したのは生徒会でした。
わたくしたちはしっかりと存じておりますもの。
学園主催のパーティーに備え、お休みの日を返上してダンススクールへ通っていた先生の姿を覚えています。二年生のときのキャンプでは、遭難した生徒を捜して暗くなるまで森の中を駈け回っていましたわね。生徒たちに囲まれて、少しお顔を赤くしながら注意していた、丸いお鼻がちょっと可愛らしい男の先生……あれは、どなただったかしら?
何故か、お名前どころかハッキリとしたお顔でさえ思い出せない先生について、またも意識が引っかかりますけれど、ここはお詫びと感謝を込めて全力で唄い上げましょう。
仰げば尊し……我が師の恩……。
教えの庭にも……
思えばいと
今こそ別れめ……いざ、さらば……――。
後から後から
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「答辞、とても素晴らしかったですわー」
「学園史に記されるべき答辞でしたわー」
「
卒業式がつつがなく終了し、わたくしたち卒業生は列を組んで大講堂から退場して参りました。
三月半ばのこの時期としては珍しく、本日はとても春めいた暖かな陽気となっています。
人工的な照明の
これぞ、まさに晴れの日……といったところでしょうか。
幼稚舎より親しくお付き合いさせていただいている
「生徒会長は
「あら、どうして、そんなことを仰いますの?」
「
「いえ、卒業生代表はわたくしたち全員の顔ですもの、本来であればあの方が……」
「あの方? どなたのことでしょう?」
「……それは、転校生の……あら? どうしたことかしら。お名前が思い出せませんわ。とても目立つ容姿の……ん、またですの? わたくし、本当に変ですわね……」
生まれつき強い癖のある髪をごまかしたくて始めた自分自身の縦巻きロールを指でくるくると巻き取りながら、
まるで物語に登場するお姫さまのようだったあの方は……誰……?
「碧さん? どうかなさいました?」
「ん、なんでもございませんわ。それよりもホームルームの後はどういたしましょう?」
「お花見がよろしいですわー」
「お団子もよろしいですわー」
「それでは、並木のカフェテラスですわね」
それは、昨年の春も五人でお花見をしたお気に入りのカフェテラスのことです。
ちょうど通り掛かった先生のお鼻を、礼さんとしほりさんがいつものようにからかったりして、あの方も珍しく朗らかにお笑いになって……。
「くすっ、よろしいですわね。なんだか、わたくしもお団子の気分になって参りましたわ」
五人? 先生? 依然として物忘れが気になりました。
けれども、もういい加減、それはそれで構いません。
だって、そうではありませんか?
本日、わたくしたちはこの
そのまま学園附属大学へ進むわたくし、ご実家で婚活に望まれるという
幼小中高と十五年間に
だとしても――。
楽しい思い出があった。
そこに大切な人たちがいた。
たとえ忘れてしまったとしても、それだけは、きっと変わらないのですもの。
閑話: 何かが足りない学舎 【完】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます