The Legend of Goddess

山谷灘尾

第1話  巨大観音

 高速道路からその巨大な白亜の像が見え始めた時、もう黄昏が迫りつつあった。遠くで鱗雲がまるで抽象絵画のように波を渦巻き、太陽の赤い残り滓のような輝きが滅しようとしていた。街灯がまるで蛍の光を散らしたように飛び去ってゆく。渋滞のために予想外に時間がかかったことを安岡は後悔していた。


「奥様、もう今日は引き返しましょうか?」


 後ろの席に座っていた高齢の女主人に声をかけた。彼女は濃紺のスーツにスラックスを履いて、下に白いウールの丸首セーターを着ている。上等なパールのネックレスと整えられた白髪がフィットして気品を一層高めている。


「ここまで来たんだもの、安岡さん。観音様にお礼を言って帰らないとバチが当たりそうだわ。」


 彼女は腕に百合の花を数本抱え、それがまるで彼女自身の象徴のように見える。


 「このお花をせっかく買ったんだもの。お花も可哀想でしょ。」


彼女の短いため息を聞くと安岡には選択の余地がなくなった。


「奥様、でもあそこの観音様は立ち入り禁止の筈ですよ。もう何年も廃墟になって、広場に立っている記念堂も、横のホテルも夜は変な輩が立ち入って警察も苦慮しているとかいうから」


「じゃあ、あなたがそばにいて、お花だけ備えたらサッと帰りましょう、ね、お願いだからそれだけは叶えさせて」


 観音は地方の観光スポットとしてバブル期に高額な費用で建設された。当初はコンクリート上に金メッキされて壮観な姿だったという。しかし、バブル崩壊後、観光客が途絶え、修復がされずに観音は金箔も剥がれ落ち、ホテルや記念堂も廃墟となって放置された。


 所有者は転々と入れ替わり、メインテナンスはされずに、高層建造物に必要な航空障害燈も消え果てて、地方航空局の監視対象となった。まもなく敷地は暴走族や廃墟オタク、不審者の冒険心と破壊衝動を満たす対象となった。


 記念堂やホテルのガラスは破壊され、照明は悉く潰れ果て、家具や置物は薙ぎ倒されて、スプレーによるグラフィティが壁面を覆った。しかし宗教心故か、観音像は無傷のままで据え置かれた。ただ、観音像の基礎や頭部にひびが入り、防災上危険建築物に指定されるようになった。


 ミドリがその観音像を信仰の対象とし始めたのは、観音像が放置された前世紀末である。丁度運転手の安岡に連れられて、温泉地に療養する途上で高速を走る車窓から見つけたのである。安岡に無理を言って、観音像のそばに駐車し、そして孫娘の脚が元に戻るよう、祈願し始めたのだ。


 東京の美大に通うゆいなは轢き逃げに遭い、両脚の機能を失った。病院で必死に毎日リハビリに勤しむも機能は回復せず、車椅子で通学することになった。友人の助けもあり、通学や実習はなんとかこなせたが、金属で巨大な立体を作るゆいながやりたい作品制作は断念せざるを得なかった。


 工業高校生が着る実習服を着て、分厚い安全靴を履く。眼を保護するため、アーク溶接用のゴーグルを被り、鉄を溶かし、くっつけ、重心を安定させながら計算して組み立てる。立ち仕事が続くその作品制作は彼女には一生無理に思われた。


 尊敬するジャコメッティの彫刻作品を更に巨大化したような作品案は教授の絶賛を受け、商業ギャラリーデビューも近いと思われていたのに。ゆいなはイーゼルの前に座ってもできる平面作品に転向したのだ。


 ミドリはしかし諦めなかった。なぜだか、その放置された観音に不思議な力を感じ、ひと月に一度は安岡に連れられて、観音に祈りを捧げたのである。すると奇跡が起こった。丁度ゆいなが事故から二年を過ぎた頃、リハビリ中に立って歩けるようになったのである。


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