2001年5月2日

「先輩、もしかして一睡もしていないんですか?」

 静かな店内に、若い女性の声が響いた。

 ビデオやDVDの陳列棚が並び、配置されたスピーカーから有線のクラシックBGMが流れているごく普通のレンタルビデオ屋の店内だ。

 堀井は店の奥から椅子を持ち出して勝手にカウンターに陣取り、大あくびをしながらノートに何やら文字を書き込んでいる。

「そうだよ。ショウの家で徹夜ボンバーマンに付き合わされて、解放されたのがついさっきさ。勝つまで付き合わされるこっちの身にもなって欲しいよ、まったく。やっと昨日の経験をまとめる事が出来る」

「映画の参考にするために、昨日は走り屋の人たちと会ったんですよね。……それがなんで徹夜ゲームになるんですか」

 三つ編みを一本おさげにして肩から垂らし、赤いフレームの眼鏡をかけた彼女が嘆息しながら答える。

 店から支給されたエプロンの左胸に貼りつけられてあるネームプレートには、『七崎喜久子ななさききくこ』と書かれていた。

 喜久子は一つ溜息をつくと、眼鏡の奥から冷ややかな視線を堀井に送った。

「……あの、先輩。いくら寂れている店でも今は営業中ですから。自分の部屋なり大学の部室でやって下さい。今お客様がきたらどうするんですか?」

「僕とて出来れば戻りたいところだけど、大学の連中は『学校祭の出し物はクレイアニメーションだ!』とそればかりでね。どいつもこいつも泥人形をちょっとずつ動かすことで頭が一杯なのさ。脳内麻薬が激しく出るのは、走り屋の世界だよ! タイヤのゴムが焼けて鼻を突く匂い! 焼け跡から立ち上る白い煙! ドリフト車が運んでくる熱い風! あれこそ、我が映画研究会の自主発表にふさわしい作品だという確信が僕にはある! だが僕が一人だけ、走り屋達の物語を映像化して発表しようと訴えても、ああ、哀しいかな、僕の声は誰にも届かない」

 妙に芝居がかかった言い回しだったが、彼女も慣れた様子で切り返す。

「だからって、カウンターを占拠する理由にはなりませんから、とりあえずそこから出てください。いくら店長と友達でも営業妨害です」

「――なるほど。君にそこまで言われると、自分が悪いことをしているなという気もなる。ところで、だ。七崎喜久子君」

「はい」

 名前を呼ばれて、喜久子は何事かと思った。堀井が彼女を呼ぶときは、昔から『キッコ君』だった。ついでにいうと彼の口の端がほんのり歪んでいるように見えるのは、きっと何かを企んでいるのに違いない、という予感を抱かせた。

「昨日に続き、今日も走り屋の世界に突入してくるけど、速見俊介と君は同級生だったんだろう? 伝言があるなら引き受けるよ」

「……速見くんに伝える言葉なんて……その」

 口ごもりながら喜久子は目を伏せた、そして落ち着きなくカウンターの上に置いてあるビデオを手に取り、誰にも聞こえないように幾つか小さく呟いたが、やがて顔を上げて。

「車のことなんてサッパリ分かりませんから。事故を起こさないようにと、伝えてください」

「僕が期待しているようなことはないようだね」

「……先輩っ!」

「さてと、じゃあそろそろまたショウの家にでも行くか。速見も、もうバイトが終わる時間のはずだし」

「速見くんは何の仕事をしているんですか?」

「彼の友人によると、昼間はガソリンスタンドでバイトしているそうだ」

「正社員は難しかったんですね」

「時期が悪い――と言えば、救いがないんだけど、僕らの年代は本当に運が無かった。就職氷河期直撃だからね。でも君はビデオ屋のアルバイトを見つけ、速見はガソリンスタンドで働いている。無職よりはいいんじゃない」

 言いながら堀井は椅子から立ち上がり、カウンターの上に広げていたノートや筆記用具を鞄に入れ始める。準備が終わるとにこやかに喜久子に向かって手を上げた。

「それじゃまたね、キッコ君」

「はい。今度は店長がいる時にでも」

 カウンターに立ったまま喜久子は頷いた。多少ぎこちないが笑みを浮かべているのは、接客業の成果だろう。

 堀井は自動ドアの前に立ちながら、ぼんやりとこれからの予定を考えてた。

(これからショウの家に行って速見と合流。そのあとで大沼に向かうんだよね。あそこは昔キャンプに行った時以来だから10年ぶりぐらいか。というか、あんな場所に走り屋が集まるような場所があったかなぁ。観光客ぐらいしかいないと思ってたよ)

 店から出ると、オレンジ色に染まった夕陽が堀井の視界に飛び込んできた。首を巡らせ反対の空を見上げると、地平線はすでに紺とも濃い青とも言えない夜の帳が降りかかり、遙か遠くの星々が瞬き始めている。

 そうだ、と堀井は心の中で呟く。

 この空の色は、速見の乗っている車と同じ色だ。


 ※


 17時をわずかに過ぎ、来客がこない事を確認すると、俊介は同僚や上司に挨拶をしてアルバイト先であるガソリンスタンドから出た。一息ついてから空を見上げると夕陽が眩しい。もう少しすると夜になるだろう。

 俊介はこの時間帯の空の色が気に入っていた。残り香のように地平線をオレンジ色に染め上げる夕陽に対して、反対側は薄い青から濃い紺色へと移り変わる夜空のグラデーション。朝と昼、昼と夜のわずかな間にしか見ることが出来ない空の色。自分でもどうしてか解らないが、この空を見ていると落ち着くのだ。

 愛車に乗り込み、キーを回したところで俊介はあくびを咬み殺し、滲んできた涙は指で振り払った。

 昨夜ショウと堀井を送った後、津軽海峡を一瞥出来る国道278号線を真っ直ぐに走り、湯の川でUターン。産業道路と呼ばれている国道100号に入って真っ直ぐに走り、そうして国道5号線にぶつかったところで左折して直進。これでほぼ函館を一周したコースになる。

 そこまで走った頃、俊介はようやく心の落ち着きを取り戻して帰宅した。自宅前に車を止め、S15から降りた時にはもう深夜2時を過ぎていた。

 そのまま自分の部屋に戻ると朝8時まで眠り、9時にはバイトに出かけた。唯一の家族である父親とは、一度も顔を会わさない。

 そしておそらく、今日も同じような予定になるだろう。

 このままショウの家に行き、適当に晩ご飯を食べて大沼へ。

 そこで相川さんに堀井を紹介させる。相川さんは話好きな性格の上に、読書家でもあるから話は合うだろう。その間に、自分は好きなように走れば良い。

 雑多な事を考える頭とは別に、腕と足は正確無比な操作で車を運転していく。道のりは完全に身体で覚えているのだ。

 途中、コンビニに立ち寄って夕食であるおにぎりを2,3個と茶を買っていく。胃の中には空腹を紛らわせる程度の食べ物しか入れない。

 それら時間を含めて、アルバイト先から出て30分ほどで、俊介はショウの家の前に辿り着いた。

 家の前に車を止め、クラクションを鳴らして合図すると、家の二階の窓にショウの顔が浮かび手招きをした。もう一つの人影らしいものも見えたので、すでに堀井も居るのだろう。

 勝手知ったる様子で俊介はショウの家に入って行った。玄関で靴を脱ぎ、階段を上がってノックも無しにドアを開ける。案の定、ショウと堀井がいた。

 ベッドと机、机の上にはパソコンとプリンターがあるだけのシンプルな八畳の部屋で、壁には人気アイドルグループのポスターが貼ってある。そのアイドルたちの微笑む先にショウと堀井は座り、例によってゲームをしていた。

 俊介は呆れ顔で、

「またボンバーマンか?」

「それは昨日徹夜でやった。だから今度はプロレスだ。虎だ、お前は虎なるんだ」

「格ゲーはやるけどプロレスは初めてだなぁ。ちょっと説明書見せてよ」

 意気軒昂として新しいディスクをゲーム機にセットするショウを横目に、堀井が説明書を読んでいる。この調子だと出発するまでもう少しかかりそうだ。

 俊介は適当な場所に座ると、袋からおにぎりを取り出してかぶりつく。

「出発は何時頃にする?」

「んー……まぁ、あと1時間くらいあとじゃね。8時ちょい過ぎに大沼に到着すりゃいいだろ」

 テレビを見つめたままショウが答える。

「あんまり早く着いても、相川さんも居ねぇだろうし……よっと、ほらジャイアントスイングだ」

「いきなりかい。初心者にも容赦ないね、君は」

「ショウは手加減しないからな」

 一個目を平らげ、二個目のおにぎりを開けながら俊介。

「基本的に何やっても全力で行く。ゲームでも喧嘩でも」

「ゲームはともかくとして、暴力的なのは遠慮したいね」

「何言ってんだ堀井。最初ゲーセンであった時、エゲツねえ技ばっかり出してたくせによ」

「そりゃ、本気出さないと負ける相手だからさ」

 なるほど、と俊介は納得した。ショウと堀井、まるで接点がなさそうな二人だがゲーム好きという共通点があった。さしずめ勝負に負けたショウが、対戦相手である堀井の顔を見に行ったのが切っ掛けなのだろう。

 おにぎりを咀嚼し、お茶と共に喉の奥へと追いやると、俊介はふと窓の外を見た。

 茜色の西日が目に映える。だがそれもあと僅かの事だろう。すぐに陽が落ちて、空は綺麗な濃紺に染まる。それが合図であるかのように、一部の走り屋達は大沼へ向かって国道5号線を上っていくだろう。自分たちもそんな連中の一人だ。

 俊介は堀井に向かって手を差し出した。

「ちょっと次、変わってくれないか」

 堀井と入れ替わりに俊介がコントローラーを握ると、ショウが不敵な笑顔を浮かべた。

「よく来た、俺のライバル」

「いつそんな関係になったんだ」

「最初に会った時に決まってるべ」

「意味が分からない」

 画面の中でレスラー同士が組み合う。

 ぼうっとそれらを見ながら、俊介はショウに初めて出会った時の事を思い出していた。

 出会いは確か、中学生になったばかりの事だと思う。

 お金が欲しくて新聞配達のアルバイトを始めてみたら、同じ店にいたのがショウだ。


 ※


 出会った頃からショウは金髪頭だった。

 不良然としたその姿に多少たじろいだものの、同年代の気安さもあり、仲が良くなるのにそう時間はかからなかった。お互いに違う中学校に通っていたが、少し早めに店に到着し、新聞店のテーブルを並べて卓球をして遊ぶのがちょっとした日課にすらなっていた。

 そして同時期、俊介の学校で他校との揉め事があった。

 中学生同士による縄張り争いだ。一部の素行の悪い生徒同士が喧嘩をし合うようになり、そのとばっちりを普通の生徒が被るようになる。

 新聞店でのいつもの笑顔とは違うショウの顔を見たのはその頃だ。

 俊介が配達を終えて帰ろうとすると、通りすがりの公園で喧嘩が起きていた。

 初めは無視するつもりだった――視線の先に、たった独りで5,6人と立ち回るショウを見るまでは。

 嫌でも目立つ金髪頭。怒気を漲らせ紅潮した顔。口の端からは血が流れている。

 一人がショウを背中から羽交い絞めにし、残った連中が殴りかかっている。ショウも動かせる脚で蹴りを放ったり、頭突きで応戦しているが旗色は悪い。

 俊介はその時まで殴り合いなどした事がない。

 ただ身体が勝手に動いた。

 自転車を蹴倒し、怯えているのか気合を入れているのか分からない素っ頓狂な奇声を張り上げ、ショウを後ろから羽交い締めにしていた学ラン服の腰に蹴りを入れた。

 蹴られた男が血走った目でこちらに振り返り、拳を振り上げた。

 反射的に歯を食いしばる。だから殴られた時のダメージは少なかった。そもそも的確にダメージを与えるパンチというのは技術が要る。学生同士の喧嘩ではその技術もたかが知れているだろう。しかし『人に害意を向けられる』という行為は心理的な動揺が大きい。

 一瞬、俊介の頭が真っ白になった。勢いだけで駆けつけてきた気持ちが萎えていく。

 そこを狙い、学ラン服の男が俊介に向けて追撃の拳を振り上げた。だが同時に男は脇腹に激しい衝撃を受けて体をくの字にして吹き飛び、地面に倒れ込む。

 俊介が視線を上げると、突き刺すような横蹴りを放ったばかりのショウと目が合った。

「ビビんなよ、シュン!」

「ああ!」

 ショウの激励で俊介の四肢に力が漲った。脳内のアドレナリンが過剰に分泌され、殴られた頬の痛みが消えて行く。

 その後はひたすら殴り合いだった。

 俊介は一人二人と相手にするだけで精一杯だったが、ショウは格闘技でもやっていたのか、的確な突きと重い蹴りで次々と相手を蹴散らしていく。

 そうして喧嘩は――俊介は5分くらいだと思っていたが、実際はものの3分もかからずに終わったらしい。

 俊介は緊張感から解放され、座り込んで肩で息をする。まさか自分の人生でこんな殴り合いをするとは思っていなかった。自分でもそんな度胸のある人間だとは思ってすらいなかった。

 そこへ、ショウが手を差し出してきた。

「よう、意外と根性あったんだな」

 そういったショウの笑顔はすっきりしていて、瞳の奥には暖かい光があった。

 この時からショウと俊介は単なる同僚ではなく、肩を並べて闘う戦友になった。そしてこの戦友が、俊介を走り屋の世界へと導いてくれたのだ。


 ※


 思い出にふけりながらゲームを続けていると、時計の針は19時半を示していた。三人はコントローラーを置いて立ち上がった。今から大沼に行けば丁度良い時間だろう。

 今日はどんな風に走ろうか――俊介はそんな事を考えながら、ショウの家の玄関をくぐった。

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