B・Bの向こう側へ

今田喜碩

2001年5月1日

 回転灯の光が見えなくなって30秒。

 運転席で組んだ腕をハンドルに乗せていた速見俊介はやみしゅんすけは、ゆっくりと息を漏らした。

「……行ったか」

 彼が呟くと同時、車内に張り詰めた空気が解けていく。

 俊介は視線を上げてバックミラーを見ると、後部座席にいる金髪男が天井に腕を伸ばし、室内灯のスイッチに手かけるところが見えた。

「みたいだな」

 金髪男の相槌と共に車内に光が灯る。俊介は眩しさに少しだけ目を細めつつ口を開いた。

「いつもこんな感じだ。今日はあのソアラがクラクション鳴らさなかったから、逃げるのが遅れたけどな」

 言いながら俊介は思い出していた。けたたましく騒ぎ立てながら段々と大きくなってくるパトカーのサイレン。夜空を明滅させる赤い光。缶コーヒーを片手に、危機感もなく車の脇にボサッと突っ立ている見慣れない顔をした、トヨタ・ソアラのドライバー――おそらく素人だろう。

 そして、素人だからこそ彼は知らないのだ。

 自分たちのようにドリフト行為を行なっている者だけでなく、それを見に来ている者たちも捕まるという事を。

 俊介は確認するように、金髪男に声をかける。

「ショウ……こんな感じでいいのか?」

「こんなんでいいんじゃね? まァあのソアラはしょっぺかったけどよ。……どうよ堀井、ビビってんじゃねえぞ」

 金髪男――ショウは問われて、白い歯を見せながら隣にいる男を肘でつついた。

 堀井と言う名前らしい。黒い髪、黒縁フレームの四角い眼鏡、灰色のパーカーに黒いジーンズ。どこかオタクっぽいな、と俊介は初対面の瞬間にそう思った。

 この堀井は数時間前、ショウがどこからともなく連れてきたばかりで馴染みがない。だから必然的にショウを挟んでのやりとりとなる。

 俊介は首だけ振り返ると、視線でショウに促した。

「で、初めてドリフトして警察に追いかけられた感想は? 映画の参考になりそうか?」

「やっぱり生で実感すると違うね。身体でこう……曲がるときのGとか、鼻につく焼けたタイヤの臭いとか、イメージと全然違うね! 色々あったから、もうちょっと落ち着いたら時間をかけて思い出したいよ」

 笑顔を見せて堀井が答える。答えながらも手に持ったメモ帳に何やら書き込むのは忘れない。

 こいつ乗り物に強いな、と俊介は感心した。生まれて初めてドリフトを体験したのなら、もう少し青い顔をしている。車内で吐かれると困るのでそれなりに手加減はしたが、パトカーに追われている時は全力だったはずだ。

「乗り物強いんだな」

「まあね。生まれてこのかた、乗り物で酔った事はないよ」

 俊介の呟きが耳に入り、少しだけ自慢気に堀井が頬を緩めた。だがすぐに真顔になり、

「でも今日は手加減してたんでしょ? 一週間後に本番に影響がないようにさ」

「ああ。タイヤがズルズルだから今日は様子見だ。近いうちにタイヤを変えたら、その時は大沼に連れていく」

「いいね。その時はまた頼むよ」

「ところでシュン、悪ぃけどコンビニ寄ってもらっていいか? ちょっくら飲みもん欲しいわ」

 話の合間を見計らってショウが口を挟んだ。

「ハセストでいいか?」

 答えながら俊介はエンジンのキーを回した。車体が軽く揺れ、排気音と共にヘッドライトが周囲を照らし出す。


 港町、函館。


 その街の観光名所の一つである、金森赤レンガ倉庫と呼ばれる路面に彼らの載っている車はあった。

 昼間は多くの観光客で賑わう場所ではあるが、歓楽街ではないので、深夜まで営業している店はコンビニくらいしかない。そのため深夜12時を過ぎる頃には全く人影が失くなる。埠頭に沿って建てられた倉庫がライトアップされているものの、並び立つ街灯のオレンジの光が、昼間の喧騒とは無縁の静けさを照らし出していた。

 俊介は右手を伸ばしてパワーウインドウのスイッチを入れて、わずかに窓を開け外気を取り入れた。生臭い潮の香りが鼻をくすぐり、寄せては返す静かな波の音が聞こえてくる。

 車は夜の闇を滑るように走りだした。

 シルビアS15、通称イチゴーと呼ばれている車種だ。夜明け前のような空を思わせる、鮮やかなブリリアントブルーのS15が俊介の愛車だった。

 彼らの乗る車は数分ほど走ったところで、一番近くにあるコンビニの前で停車した。そこは店内で焼き鳥を焼くことで有名な店であり、同時に24時間営業だ。

 俊介がシートベルトを外し車から降りると、後部座席に座っているショウと堀井も続いた。三人揃って自動ドアの前に立つと、店内に染み付いた焼き鳥の匂いと、明るい照明が包み込む。

 店員の挨拶を聞き流しながら、俊介はドリンクのある方へと歩き始めた。堀井は雑誌コーナーの前で立ち止まると、おもむろに本に手を伸ばし始める。ショウはレジ前にあるホットドリンクコーナーの前で腕を組み、何を飲もうかと思案しながら眺めている。

「これでしょ? これ。この本の企画だよね」

 唐突に堀井が声を上げ、手に持っていた雑誌を俊介に見せつけきた。遠目でも分かる派手な表紙に、大きく『モーターライフ』と書かれてある。大手出版社が発行している月刊の車雑誌だ。

「ああ、その本だ」

 彼に近づいて俊介は答えた。堀井の手から雑誌を抜き取るとページを捲り、巻頭のカラーページで手を止めた。そして文章に沿って指を這わせていく。

「丁度この辺りだな。『地元の走り屋と編集者が選りすぐったチームが対決する』ってところ」

「面白い企画だよねぇ。勝負して勝ったら関係のある会社にテストドライバーとして推薦してくれるんでしょ?」

「雑誌社のチームは、普段からテストドライバーやっている人だったり、プロのラリースト、D1に出ているような連中ばっかりで、地元チームが勝ったことは一度もない。さすがにレベルが違う」

「でもこれに君も出るんだろ? すごいよなぁ。本当にもうマンガみたいだよね」

「出るには出るけど……うちらのメンバーで勝てそうなのは、多分、相川さんぐらいだろうな」

「相川って、えっと、函館の走り屋の顔みたいな人だっけ? 今度紹介してくれると嬉しいな」

「大沼に行けばいつでも会えるさ。あの人は魚でも無いのに沼の主だからな」

「なぁに見てんだ? エロ本か?」

 缶コーヒーを片手に白い歯を見せてやってきたショウに、にべもなく俊介が答える。

「違う。モーターライフだ。例の企画を堀井に教えていたんだ」

「7日のアレか。詳しい事は買って読んだほうが早いぜ」

「そうだね。ついでだし買っていくか」

 ショウに促され堀井は棚から同じ本を抜き取ると、レジに向かって行った。

 俊介も改めてドリンク棚に戻り、適当なものを手にとる。

 そうして三人は再び同じ車に乗った。シートベルトを締め、ハンドルを握ったところで俊介が口を開いた。

「じゃあそろそろ解散するか。俺も明日バイトあるし」

「おう。結構いい時間だしな」

 コンビニにあった時計は、夜の12時を過ぎを示していたはずだと俊介は思い出した。

「堀井はどこまで送ればいい?」

「ショウの家でいいよ。今日はチャリンコでショウの家にきたんだ」

「解った」

 助手席に腕を回し、後ろを確認しながら車をバックさせる。そして駐車場から完全に出ると、静かにアクセルを踏み、加速が体感できない程緩やかな速度で走り始めた。つい数十分程前に、パトカーを振り切るために全力を出していた時とはうって変わって、実に穏やかな走り方だ。

 俊介や、ショウのような――俗に言う走り屋と呼ばれる人種は、いつもマフラーから爆音を撒き散らし、道路交通法を無視して暴走するような事はしない。それらは暴走族のやる事であって、自分たち走り屋とは違う、という明確な意識があった。

 必要なときに合わせて必要な走り方をする、目的に合わせた走りが出来るだけなのだ。特に『安全第一』をモットーにする相川の薫陶を受けた俊介は、同じ仲間が集う場所以外では滅多にその腕を披露したりはしない。普通の運転では、むしろ丁寧と呼ばれる部類の走り方をするのだ。今まで交通違反で切符を切られたことは、一度もない。

 俊介の運転する蒼い車が、夜の街を静かに走り抜ける。

 誰もが夜景を思い浮かべる函館の夜。

 扇状の地形に沿って無数の光の輝きを放ち、まるで宝石のような輝きを見せる。

 しかしそれは高いところから見下ろした場合であって、実際に市内を走ってみると、その想像は裏切られることになる。かつて街の繁華街として栄えた大門(だいもん)と呼ばれる地区ですら、寂れてしまい、シャッターが閉まったままの店が多いのだ。


 ――この街は時間が止まっている。


 背後に流れ行く景色を横目で眺めながら、俊介は心の中で呟いた。

 観光名所と言えば聞こえはいいが、地元の視線から見れば驚くほどに街の変化が少ない。古い名所を大切にするあまり、新しい時代を受け入れることに鈍感なのだ。だから長引く不況に対して、決定的な解決法を見いだせない。街に住む人も不満を抱えつつも現状に甘んじる。そうして真っ先に商店街が潰れていく。その成れの果てが大門にちらほらと見かけるシャッターの閉まった店舗だ。

 2001年5月現在――失われた10年とも呼ばれる平成不況の煽りを受けた地方都市としての側面を、俊介は肌で感じていた。痛感させられた、と言ってもいい。

 だからこそ。

 雑誌の企画は魅力的だった。雑誌社が編集したチームに勝てば、テストドライバーとして推薦される。好きな車を仕事として、この街から出て行ける可能性がある。

 そのことを考えいるうちに、ハンドルを握る腕に力が篭ってきた。目を細め、奥歯を噛み締める――そうでもしないと、レースに向けての闘志が喉の奥から迸りそうだった。

 ショウと堀井を送ったら、海岸線を軽く流してみようと俊介は決めた。そうでもしないとこの昂ぶりは収まりそうにない。例え家に帰ってもすぐに寝ることは出来ないだろう。明日のバイトに影響がない程度に1時間ほどのドライブだ。

 俊介はただそれだけ考え、ヘッドライトが照らす光の中を見つめ続けた。

 まるで光の中に、自分の進むべき道があるかのように。


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