公爵令嬢の裏稼業

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プロローグ「激動の終着点」

 アーシャは思わず笑みを浮かべた。

 それは、待ち望んだ、とっくの昔に数える事をやめてしまった好機に対するものだ。

 魔獣の住む森の中では、彼女が標的を殺しても証拠すら残らないだろう。

 ひっそりと息を殺し、標的に忍び寄る。

 魔獣の徘徊があるというのに、標的の彼はテントも張らず、地面に毛布を敷いて寝ている。襲って下さいと言っているようなものだが、彼にとってこれは普通の事なので、罠ではないと確信できる。

 木の上から様子を見ていたが、アーシャは音を殺して地面に降り立った。

 あと数センチで彼に触れられる距離へ素早く移動し、寝息を立てる彼を見下ろした。


 一思いに苦しまないよう、殺してあげよう。

 アルビオン帝国に危険だと判断されるような、彼が悪い。これは正しい事なのだ。きっとそうだ。皇帝の命に間違いなどないのだから。


 そう言い聞かせ、短刀を彼の喉に振り下ろした。

 振り下ろしたはずの短刀が彼に届くことはなく、甲高い音が鳴り弾かれた。

 手から離れた短刀が地面に落ちる音が聞こえ、アーシャは我に返った。反射的に後ろに飛びのく。

 その行動は正しかったらしく、先ほど彼女の立っていた場所には鋭利な氷の塊が突き刺さっていた。

 彼の魔法だろう。寝ている間も発動するとは、流石は『英雄』と囁かれるだけはある。

 立ち上がった彼をアーシャが睨めば、重い溜息が聞こえた。


「……君か。どうして俺を狙うんだ? ずっと見てただろ」


 隠密行動は彼に気づかれていたらしい。

 アーシャは近くに落ちていた枝を彼に向って投げた。

 それは簡単に彼の剣技で防がれてしまう。

 もちろんそれは想定内で、間合いを詰めるための、単なる時間稼ぎにすぎない。

 袖口から新しい得物を取り出し、もう一度、彼の喉に向かってナイフを突いた。

 しかし、またしても彼に剣先が届くこともなく彼を覆う何かに阻まれてしまった。

 今度は弾かれるようなヘマはしなかったものの、彼女がどれだけ力を込めてもそれを貫通させる事はできなかった。

 圧倒的なまでに足りない己の力に、アーシャは唇を噛んだ。


「諦めなよ。俺に戦う意思はない。だから、君も武器をおさめて欲しいんだけど……。その様子だと無理かな?」


 彼を覆うものが無くなり、両手を上げた彼を見上げれば、藍方石アウイナイトのようなコバルトブルーの瞳が困ったようにこちらを見つめてくる。

 夜の闇が彼の髪をますます黒に染め、引き込まれそうなほどに綺麗な瞳のなんと幻想的なことか。


「君はどうして俺を殺そうとするの? 俺は帝国に恨みを買うような事はしてないと思うんだけど……っと危ないなぁ」


 不意を突こうとしても悟られてしまい、軽口を叩きながら、いとも簡単に避ける彼に、アーシャは舌を巻いた。


「もう少し、抵抗したらどうなのです? 私は貴方を殺すために、ここにいるのですよ?」


 やっと声が聴けた、などと笑う彼。そんな彼をアーシャは理解できなかった。

 いやに喉が渇く。それに、心なしか鼓動の音がはっきりと聞こえる気がする。

 両足に力を込め、


「命が全うできないのであれば、私に存在意義はありません。処分されるだけです。そうならないためにも、貴方の首、頂戴します」


 そう言い切ると同時に彼の懐に飛び込んだ。


 たとえ敵わない相手であろうと、放棄は絶対に許されない。相打ちになったとしても本望だ。


 うなじ辺りに強い衝撃が響き、手刀を食らったのだと悟ったが、アーシャの意識は少しずつ暗闇へと落ちていく。


「可哀想な人」


 優しい声とは裏腹に、彼の瞳の中には揺らめく炎が燻ぶっていた。

 その熱のこもった瞳の意味を知らない彼女は“食べられそう”だと、薄れゆく意識の中で思った。


 彼の髪がアーシャの頬をかすめ、チクリとした痛みが首に走る。

 彼女が覚えているのはそこまでだ。





  ◇◆◇





 教会の鐘が響き渡り、純白の衣装に包まれた男女に神父が問いかける。


「英雄アルバート・ミトラ。並びに、アーシャ・ティア・デューク・フォン・ウォフ=マナフ。両名は互いを夫、妻とし、生涯愛すると誓いますか?」


 参列者達が固唾を飲んで見守る中、アルバートは今にもスキップしそうな勢いで誓いを口にした。


「幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死が二人を分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ることを誓います」

「……誓います」


 アルバートとは正反対に、アーシャは淡々と簡潔に答えたが、彼はそれでも満足だったようで、嬉々として誓いの口づけを終わらせた。

 歓声が共鳴するかのように広がっていき、二人の結婚は周知の事実となった。

 アーシャとアルバートは敵同士だったはずだが、何故こうなってしまったのか分からず、彼女は内心頭を抱えた。


 どうしてこうなった!?

 

 と。

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