第19話「休息」
シルディアは今、夜会の会場から少し離れた休憩室へ来ていた。
参加者がリラックスできるようにと装飾の控えめな室内。
けれども、控えめに飾られた花瓶や絵画は価値の分かる者が見れば、一目で一級品だと理解できるだろう。
竜が支えているデザインのローテーブルの前には紺色のソファーが備えられていた。
ずっしりとしたソファーに腰を沈め、天井を見上げる。
女神の彫刻が施された天井は、見ているだけで心が落ち着いた。
この場にいない、心がざわめく原因となった男にシルディアは文句を垂れる。
「オデルがあんな恥ずかしいことを真面目な顔で言うから悪いのよ……」
シルディアは一人にしてほしいとオデルにお願いして、休憩室へ入ったのだ。
じっと見つめるオデルの瞳から逃げてきたとも言う。
「そもそも顔が良すぎだわ。顔のいい人ならたくさん見てきたはずなのに、ペースを崩されてばかりで悔しい」
慈悲深い笑みで見下ろすフロージェ似の女神に語りかける。
「それにしても、オデルはなんで今の自分を好きになって欲しいなんて言ったのかしら。ねぇ?」
当たり前だが、問いかけても答えは返ってこない。
控えめなノック音が聞こえ、シルディアはふぅと息をついて女神から目を逸らした。
ただ正面の壁にかかった絵画にも女神が描かれているため、あまり意味はないが。
「ヴィーニャです」
「入っていいわよ」
「失礼致します」
音を立てずに開いた扉からヴィーニャがワゴンと共に入室した。
テーブルに置かれたティーカップからアールグレイのいい匂いが漂う。
「ゆっくり休むようにと、皇王陛下が仰ってましたよ」
そう言ってテーブルに置かれたのは切り分けられたイチゴのタルトだ。
脱兎のごとくオデルの前から逃げてきたというのに、シルディアを気遣う彼は心の広い人なのだろう。
(わたしには勿体ないぐらいの人ね。イチゴが好きだって知った途端これだも――)
用意されたフォークを取り、タルトに手を付けようとして気が付く。
突然止まったシルディアを不思議そうに首を傾げ眺めるヴィーニャに問う。
「このタルト、オデルが作った物かしら?」
「いえ。夜会でお出しになってるものです」
「ここで食べるとオデルが嫌がりそうね」
シルディアが苦笑を零せば、ヴィーニャも同意した。
「そうですね。ではこちらは下げますね」
「せっかく持って来てくれたのに悪いわね」
「いえ。気が回らず申し訳ありません」
「ヴィーニャが悪いわけじゃないの。でも、なんだか駄目な気がしたの。ごめんなさい」
「謝らないでください。シルディア様は陛下のつがいなのですから、もっとわがままを言ってもいいぐらいですよ」
粛々とタルトを片付けながら微笑むヴィーニャに、シルディアはじゃあとわがままを言うことにした。
「相談に乗ってくれる?」
「わがままじゃない気がするんですが……。もちろんです」
「さっきオデルから今の自分を好きになってほしいって言われたんだけど、どういう意味だと思う?」
「それは……そのままの意味では?」
「えっと、違うの! 幼少期にオデルと一度会ってて……昔のオデルは優しくて、いや今も優しいんだけど……なんて言ったらいいのかしら」
「ふむ。皇王陛下は昔の自分に嫉妬していらっしゃるのでは?」
「言われたわ」
「でしょうね」
心底納得したように頷かれ、シルディアは頭を抱えた。
「そもそもなんで昔の自分に嫉妬するのか分からないのよ。だって自分よ?」
「竜族でない人には分からない感覚かもしれないですね。竜族は目の前の自分を深く愛して欲しいんです。過去の自分と今の自分は別物なんですよ」
「うーん? 分かるような、分からないような……?」
「お時間がある時に直接お聞きしたらいいと思いますよ。きっと答えて下さいます」
「それを本人に聞くのは流石に恥ずかしいわ」
「そういう可愛らしいお顔はぜひ皇王陛下の前でなさってください」
「だからそれはどういう顔よ……」
シルディアが肩を落とせば、ヴィーニャがくすりと笑う。
「シルディア様はそのままでいてくださいね」
「変わるつもりはないけれど……どうして?」
「長い年月は人を……変えてしまうものですから」
寂しげに呟かれる。
消え入りそうな声にシルディアは思わずティーカップを口に運ぶ手を止めた。
盗み見たヴィーニャはひどく哀愁が漂っており、かげりのある表情を浮かべていた。
「……何かあったのか、聞いてもいい?」
「十二年前、竜の怒りを買った者がいます」
「竜の怒り……?」
「その名の通りです。その者は慈悲深い心を持っていましたが、いつしか心を蝕んでいた闇に囚われてしまったのです」
「その人はどうなったの?」
「一命を取り留めました」
「そう」
「ただ社交界から永久追放となりましたけどね」
からりと笑ったヴィーニャは、シルディアが口を開く前にあからさまに話題を変えた。
「もうそろそろお色直しなさいますか?」
「えぇ。紅茶を飲み終わったら夜会に戻ろうかしら」
ヴィーニャはワゴンの真ん中に用意していた化粧箱を取り出す。
用意がいいと横目で見つつティーカップを手に取った。
瞬間。
扉と窓が同時に開かれた。
と同時に白煙が入り込む。
「シルディア様!」
「っ!? げほっ」
目の前が視認できないほど室内に白煙が立ち込め、シルディアは思わず咳き込んでしまった。
途端に歪む視界。吐き気すら覚える感覚。
(うぁっ)
ぐるぐると視界が回る。
姿勢を保つことができず、シルディアはソファーに手をついた。
現状を把握しようと必死に目を凝らせば、影が二つ白煙の中を動くのが見えた。そのうちの一人はヴィーニャだろう。
(ヴィーニャって戦えたの? オデルが私に護衛をつけなかったのは、そういう……?)
場違いなことを考えていたからだろうか。目の前を化粧箱が通り過ぎた。
攻撃手段に使われたそれが窓際の床に当たり中身が散らばった音が響く。
化粧箱が通った空間の白煙が薄くなっている。
襲撃者二人はまだそれに気が付いていない。
(わたしに逃げ道を作ってくれたのね。わたしが逃げればヴィーニャは一人で退避すればいい。この体調でどこまで素早く動けるかが問題ね)
思考は回るものの、いまだに視界は歪んでいる上に吐き気は収まっていない。
襲撃者にバレないようゆっくり足裏に力を込める。
(そもそもこの白煙を吸い込んだ時から、めまいと吐き気がしたのだから……この白煙がない所に出れば勝機はある!)
そろりとできる限り白煙を揺らがさないよう動く。
吐き気をこらえながら忍び足で開け放たれた窓際へ歩みを進める。
化粧箱から散らばった化粧品が道しるべとなっていて、辿りやすい。
ふらふらと酒に酔った人のような足取りでシルディアは進む。
やっとの思いでバルコニーまで辿り着き、出られた! と窓枠に手をかけた、その時。
ぬるりとバルコニーの影から灰色のローブが姿を現した。
驚き視線を上げるが、フードを目深にかぶっているため顔がよく見えない。
シルディアが認識できたのはそれだけで、喉からかひゅっと息の詰まる音が鳴る。
ぐわんと視界が回り、いつの間にかシルディアは冷たい床に叩きつけられていた。
(こ、れは、いけない……意識が……)
「ちょっと。ちゃんと捕らえてください」
「無茶言わないでくださいよぉ。俺、なんかバカ強ぇ侍女の相手してたんっすよ? そもそも予定では挟み撃ちするって言ってたじゃないっすか」
「それがその侍女ですか?」
「はい! ここに転がすより連れて行った方がより安全っしょ」
「違いないですね」
(ヴィー、ニャ……。オデ、ル……)
遠のく意識の中で、襲撃者達の会話を聞きながらせめてもと手近にあった物を握りしめた。
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