雪の音

睦月 龍

第1話 白い雪と白い部屋の天井

「寒っ」

病室なのに、やけに寒い。外気が下がってきているのだろうか。ゆっくりとベッドから起き上がり、窓に近づいた。鉛色の空から白い綿の様な雪がはらはらと舞い降りてきた。

「あぁ……」

私は、頭を垂らした。また雪だ。うんざりする位降り積もっているのに、また降ってきた。

「いつになったら、退院出来るんだろ」

ずっとこの白い安全過ぎる部屋の中で過ごすことになるんだろうか。私は、短いため息をつきながら病室の窓を見つめていた。

「コンコンコン」

ノックの音が聞こえて、私はベッドに足を滑らせた。

「宮野さん、検温と血圧測定の時間よ」

「どうぞ」

ベッドから声をかけると、若い新米の看護師といつものベテラン看護師宇山さんが病室に入ってきた。

「気分はどう?」

私は口を一文字にして、わざとらしく息を吐いた。

「ねぇ、宇山さん。私いつ退院出来るの」

宇山さんは、静かに笑って私を見た。その表情は、微かだが何だか悲しそうな笑みだった。

「あかりちゃん、頑張ってるもんね。退院したいよね」

私の枝みたいな腕にカフを巻いて、ガーっと血圧計を動かしながら。

「あなたの病気はね、統合失調症って言って、幻覚……」「知ってます。私が聞きたいのは、いつ退院出来るかです。学校だってあるし……」

「……」

宇山さんが困った様に、薄く口角を上げていた。

「あの……」

その時、宇山さんの隣に居た若い看護師が、控え目に声を出した。

「彼女は、金原さん。これから私と代わって担当になる看護師よ」

宇山さんが、極めて明るく金原という看護師を紹介した。

「金原 美郷です。よろしくお願いします」

シュッとした顔で、長い髪を一纏めにしていて、ナチュラルメイク、本当に化粧をしているのか分からない位、地味な普通な感じの看護師だった。

「よろしくお願いします」

素っ気なく私が呟くと、金原さんは血圧計と体温計を小脇に抱え宇山さんと部屋を出ていった。

「はぁ……」

主治医の笠山先生がOKを出さなければ、退院はおろか外出も出来ない。私の病気は統合失調症……らしい。病気の発症は、中学の時。しかも、中学1年の時にその兆候はあった。

『ブス』

隣のクラスに友達が居て、クラスで一緒にご飯を食べる時、ある男子グループの前を通りすぎた時にそう言われた。私は小心者の気にしすぎ自意識過剰だったから、その言葉に酷く傷付いた。友達の浅海は、誰に言われたのか聞いてきた。黒板の近くにいつも居る人達。と答えると、『あぁ、あの人達誰にでも言うから気にしないで』と、気を遣ってくれた。私は、気が楽になったが、次の日、トイレに入った時にまた、ブスと言われた様な気がしたのだ。誰もそこには居ないのに。段々と精神がおかしくなる。例えば、バンっとドアを閉められただけで自殺しろ、と声が聞こえたり、誰も居ない自分の家のリビングから声が聞こえたりする。私は遂に中3の夏、精神が崩壊した。異変に気づいた両親は、泣きわめく私を病院に連れて精神科に連れて行った。白野病院ー。

そこは、一度入院したら退院出来ないことで有名だった。その一番最初に診断をしたのが笠山先生だった。

『うーん、これは統合失調症の疑いがありますね』

私と両親は、愕然として笠山先生を見たのを覚えている。

所謂、昔でいう精神分裂症のこと。名前が改名されて統合失調症となったが、名前だけ。主な幻覚や被害妄想、思考伝播、考えが抜き取られる感覚などは精神分裂症そのもの。とりあえず、投薬治療が始まり、私は暫く学校を休学することになった。私は本を読むことが好きなので、両親に小説を買ってきて貰っていた。中でもミステリーが好きで、アガサ・クリスティのABC殺人事件やアクロイド殺しは今でも再読している。私が初めてミステリーを読んだのは、アガサ・クリスティがきっかけだったりする。

ミステリーの謎解きが楽しいのだ。考察を立てて、犯人の動機やトリックを見破るのも。

「コンコンコン」

「はい」

「あかり、私」

ドアの向こうから母の声が聞こえた。

「どうぞ」

横になり、窓の方を見ていた。

「調子はどう?眠れてる?」

母は病室に入って来て、荷物入れの中から洗濯物を取り出した。てきぱきと新しい下着やら着替えを入れ換えながら、いつもの様に聞いてくる。

「まあまあかな」

母は、パタンと荷物入れの戸棚を閉めて、私の方に向き直った。

「あかり、知ってた?坂場佑斗君、ここに入院してるみたいよ」

坂場佑斗……。同じ高校に通っている少し頭に障害がある子だ。

「そうなんだ?」

興味なかったので、私は母を上目遣いに見た。母は、頷き黙って布団を直してくれた。

「坂場君、肺炎も患ってるらしいのよ。可哀想よね」

同情を引こうとしているのか、本当にそう思っているのか分からないが、母は、憐れんだ声を出していた。可哀想……なんて無責任な言葉なんだろう。無責任で無味乾燥していて、冷たい。私にはそんな感じがする。

「あかり、元気な時にもし会ったら、よろしく伝えておいて。あそこのお兄さんとよく会うのよ。坂場春樹さんて方。イケメンで優しそうなのよ」

思わず顔がひきつった。イケメンて単語には母は弱い。

「私が?何で?」

訝しげに母を見ると、母は肩をすくめて息を吐いた。

「私の楽しみなの。ほら、お父さんとは真逆のタイプだし、若いし、目の保養じゃない、春樹君」

「知らないけど」

私は、突っぱねてしっしと母を部屋から追い出した。

呆れて物も言いたくない。

「坂場佑斗か」

母が居なくなった病室にポツリと呟いた。


『お前なんか病気あるし、病弱やん。何か疲れたわ』

その夜、元カレ拓斗から言われたフラれた時の光景がフラッシュバックして、過呼吸になった。

(どうしよう、どうしよう……)

枕元脇のナースコールのボタンを押した。

「はい、ナースステーションです。宮野さん、どうされましたか?」

呼吸するだけで精一杯で、言葉が出てこない。

「宮野さん?今行きますよ」

男性看護師の落ち着いた声で、ナースコールは切られた。

ナースステーションから近い私の病室。

「コンコンコン」

ドアのノックが聞こえて、男性看護師が入ってきた。

「これを」

渡されたのは、睡眠薬と精神安定剤だ。ペットボトルの水を渡され、その場で服薬を促された。

「何がありましたか?」

私と同じ目線で、看護師は聞いてきた。

「……元カレとの思い出が夢に出てきて、パニクっちゃって。」

私はうつむき加減にボソボソと話した。看護師は、「あぁ」と、何とも言えない気まずさの様な頷き方をすると、私を寝かせてくれた。今は寝かせてもらうよりも、話を聞いて欲しかった。

「ゆっくりお休みになってください、では失礼します」

穏やかだが何処か事務的な感じの固い声で、看護師は出て行った。

やがて、睡眠薬が効いてきたのか私は深い眠りについた。気付くと夜が明けていた。目が覚めて、また白い天井が見えた。私は、落胆して小さな洗面所で顔を洗う。今日もまた雪、嫌になる。

「チッ」

思わず舌打ちをしてしまった。

「宮野さん、検温……」

「ドンっ」

昨日の新米看護師の声がして、イラットっときて枕を投げつけてしまった。

「キャっ」

と小さく悲鳴を挙げた。

「気が立ってるの、後にして」

イラついたトゲのある声で看護師を威嚇し、追い払った。

というのも、実は元カレ拓斗から連絡がきたからだ。今更なに?って感じだ。

「あんな奴……」

唇を噛みしめて、ブルブルと震えていると、ドアをノックする音が聞こえた。

「入って来ないでって言ってるで……」

ドアが開いた時、呆然としてしまった。

「誰……?」

「何か凄い音が聞こえたから見に来ちゃった。宮野さんじゃない」

その人物は、坂場佑斗の兄、春樹と佑斗だった。

兄弟と言えど、どちらもあまり似ていない。兄は、黒髪に黒目がちのアーモンドアイ、長身でやせ形。

弟は、ライトブラウンの髪に薄茶色の目、アーモンドアイは変わらず病人さながらの顔色の悪さでやせ形だった。

「君が、宮野あかりさん?お世話になってます、坂場佑斗の兄で春樹です」

私は、これでもかって言うくらい兄弟を睨み付けて威嚇した。

「何、イライラしてんの。具合悪いなら看護師呼ぼうか?」

佑斗は、春樹が私を呆れた様に見たので不安そうな目の色をしていた。

「うざ、何で勝手に入ってくんの。叫ぶわよ!不審者だって」

春樹が、はぁっとため息をついて、私のベッドのそばに来た。まるで、小さな子をたしなめるかの目で私を見た。

「な、何」

「いい加減、落ち着きな。薬飲んだ方がいいんじゃない?」

 その言葉にまたイライラして、髪を掻きむしった。

 「消えて」

「……」

「消えてよ!」

 春樹を睨み見ていると、無言で息を吐き病室から静かに出て行った。

坂場兄弟が病室を出て行った後、目から冷たいものが溢れ出た。

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