9階 5

 このビルの9階に入ると呪われる。


 出社初日に先輩から言われた一言だ。そんな噂を信じているわけではないけど、10階から8階に降りるときは何となくエレベーターを使ってしまう。うちの会社の人間は、多分みんなそうだと思う。

「Sさんの話、知ってる?」

「え……いや、多分知らないけど」

 他の部署に所属している同期とたまたまランチが被り、お互いに近況報告も尽きてきた頃、同期が突然聞き覚えのある名前を口にした。よくある苗字だから、友人Aから聞いた人とは別人だろうと思っていたけれど。

「Sさん、商品企画部に居たんだけど、最近やめちゃったの」

 この話を聞かなければ良かったなと思っている。


 Sは新卒でうちの会社に入り3年ほど勤めていたらしい。勤務態度・業績共に優秀で、人当たりも良かった彼はみるみるうちに部内でトップに躍り出た。

 そんなSが変わり始めたのは、結婚して子どもを授かった後だった。

「奥さんとうまくいかない」

 そんな愚痴を周囲に漏らしていたらしい。それでもしばらくは真面目に仕事をしていたのだが、ある年に入ってきた新入社員Oと噂されるようになった。

 曰く、その新入社員との会議が多すぎるとか。毎日のように2人で会議室を使う様子に、周囲の社員も事情を察してはいたらしい。とはいえ、Sは仕事はできたので表立って咎めにくく、陰で噂される程度に留まっていたらしいけど。

 ある日、朝から会議に行って帰ってこないSにどうしても用事のあった社員が、予約されていた会議室に行ったところ、2人とも会議室に居なかった。流石に度がすぎているとのことで、部内の社員総出でオフィスを探すことになったが、2人は見当たらない。

「実は……2人が9階を使っているって話、盗み聞きしてしまって……」

 捜索も煮詰まってきたところで、ある社員が言いにくそうに告白する。その瞬間、オフィスは静まり返り、しばらく経つと、社員は各々の仕事に戻り始めた。

「俺が管理人に話してくる。皆は仕事を続けるように」

 新人達は首を傾げていたものの、上司の言葉に従う先輩社員に倣い、席に戻った。


「SとOは見つかった。これ以上、この件について触れないように」

 そう言った旨のメールが届いて、この事件は終幕した。Oはその後一度も会社に来ることなく退職し、Sはそのまま勤めていたものの、しばらくして辞めてしまった。


「ほら、うちの会社、なんだかんだ厳しいとこあるじゃん?その事件の後、Sさん、なんか全然仕事できなくなったらしくて。なんでも、物忘れが激しくなって、嘘をついたりしてたとか。9階の呪いって本当にあるんだねぇ」

 ゴシップ好きの同期が、少し楽しそうにそう付け加える。私は聞かなきゃ良かったなと思いつつ、仕事があるからと席を立った。友人Aの愚痴を話半分で聞いてて良かった、と思う。友人Aの上司はたまたま名前が同じで、仕事ができない人ってだけの話。

 「あ、嘘だと思ってるでしょ?仕方ないなぁ、これはとっておきなんだけどさぁ」


 Sは有休消化に入る前日に会社に来て、お世話になった人への挨拶などをしていた。Sはデスク周りの掃除をして、資料を整理して、なんてしていたら終業が遅くなったらしく、オフィスに残ったのはたまたま残業していた同僚と2人だけだった。同僚の方は挨拶も済ませたしなんか気まずくて、タバコを吸いにオフィスを15分くらい離れたらしい。戻ってきた時に、たまたまSとすれ違い、おつかれ、元気でな、なんて声をかけたんだけど。

「お世話になったので。お花、咲かせておきました。お仕事、もっと出来るといいですね」

 そんなことを言って、Sはエレベーターに乗って消えた。やっぱり最近のSは気味悪いよな、なんて思いつつ自分の席に戻ったらさ。


「花瓶が置いてあって、白い花が刺さってたんだって」


 呪いだよ、絶対、とテンション高く話す同期に悪気はなかったのだと思う。

 

 私は自分の席に戻って、なんとなくSNSを開く。友人Aの投稿は、上司の愚痴を投稿したきり更新されていない。

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