黒幸の創作論……らしきもの

黒幸

読解力がないと嘆くよりもやることがあるかもしれない

 まず、そう考えるに至ったのはとある映画を視聴したせい。

 その映画の名は『アノニマス・アニマルズ 動物の惑星』。

 実に考えさせられるところが多い映画でした。

 まず、作品詳細に書いてあるあらすじから、フェイクが混じっているのです。

 「衝撃のラストにあなたは何を感じる」と書いてありますが、そのようなものはありません。

 衝撃のラストになる為には前提条件が必要です。

 物語が進む中で視聴者に世界観やテーマといった情報を提示して、理解を促すこと。

 これがなければ、理解出来ていないのに「これが衝撃のラスト」とドヤ顔で語られても困るというもの。


 それでは創作論自体には関係ないのですが、『アノニマス・アニマルズ 動物の惑星』の中身についても軽く、解説したいと思います。

 この映画、何と台詞が一切ありません。

 人間が出てきても一切、言葉を喋らないのです。

 息遣いや動物の呻き声といった環境音が台詞代わりになっています。


 世界観についてもこれといった説明はなく、オープニングで一人の男が歩いているだけ。

 恐らくはこれが荘子の胡蝶の夢のように現が夢であり、夢が現であるかのようなどちらが現実だったのかと思わせる演出なのでしょうが、非常に分かりにくいです。

 ここからは犬や牛、馬といった動物頭の被り物を被った獣人と呼ぶべき謎の人種が支配する世界が描かれ、人間は被支配者という立場。


 現実の世界で言うところの牧場もしくは屠殺場らしき場所に閉じ込められた人間が、理不尽に殺されていったり……。

 闘犬によく似た賭けの現場で男二人が戦わせられた挙句、拒否した男の一人が容赦なく殺されたり……。


 ええ、そうなのです。

 これこそがこの映画の訴えたいテーマなのでしょう。

 人間は動物に何と酷いことをしているのだろうか?

 よく考えるべきではないだろうか?

 多分、そう訴えたいのでしょうが全くと言っていいほどに伝わって来ません。

 なぜか?

 制作側の伝わって当然と胡坐をかいている姿といいますか、分からない者には分かる必要がないとも取れる傲慢さが垣間見えるから。


 はい、そういうことです。

 最近、SNS界隈で炎上気味に沸騰していた読者の『読解力』が落ちている云々といった問題に通じるところがあるのです。

 読者の『読解力』は例に挙げた映画への『理解力』と似たようなもの。

 これくらいは分かって当然”だろう”。

 この程度は理解してくれる”だろう”。

 運転者がよく言われる”だろう”運転はいけないと同じです。

 ”だろう”という主観的な思い込みがいけないのではないかと思います。


 高尚で難しい命題や物語が美しい文章で描かれていたとしても分かってもらえなければ、共感を抱いても貰えません。

 分からない者にはどうでもいい。

 分かる人にだけ伝わればいい。

 そういった考えも確かにあります。

 ただ、そういう孤高と言うべき考えとスタイルを貫いている場合、万人に読まれたいといった思いはそれほど強くないのではないでしょうか?


 件の『読解力』問題では読まれないのは読む側が、理解出来ないからだと読者側に責任があるように論点が変えられていた気もします。

 しかし、誰しも少なからず、あるのではないでしょうか?

 「自分の作品が読まれないのはおかしい。読んでくれない方がおかしいのだ」と考えたことは一度もない。

 そう胸を張って言える人がどれだけいるでしょうか?


 だからこそ、もう一度、自分の作品を見直してみるべきです。

 分かりやすい内容ですか?

 『読解力』にかこつけて、分かりにくいことはありませんか?

 Web小説は万人の目に触れる以上、独りよがりに書いてもいけないのではないでしょうか?


 などと書いているものの自らの心臓にナイフを突き立て、自害しているのと変わらない内容でした……。

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