第5話
あの黒マントの怪人が、何者なのかは分からない。
確かなのは、悪魔以外の化け物という事だけだ。
あの時、警官はマントの中に消えてしまった。
【消失】というより、【捕食】された感じだ。
もし一連の失踪事件がヤツの仕業なら、あれと同じ方法で人を消失させたに違いない。
つまり行方不明者は皆、ヤツに喰われたという事だ。
全く、とんでもない化け物である。
ただ、一つだけ引っかかる事があった。
失踪事件が始まったのは、この数ヶ月の間だ。
それまでは、犯罪とは無縁の、いたって平穏な町だったのだ。
なぜ急に、あんな化け物が出没するようになったのか?
何か、そうなるキッカケでもあったのだろうか?
それと、俺を襲ったあの黒い鞭……
あれがヤツの身体の一部だとすれば、恐らく複数の触手を有した怪物に違いない。
鋭利で、黒光りする、節くれ立った触手──
以前……どこかで見たような……
俺は物思いに
ダルボット邸からさほど遠くなく、一本道の自然道だ。
恐らくここが、チャールズの父親が使用していた散歩コースなのだろう。
正直、彼の父親はもうこの世にはいないと、俺は思っている。
血のりのステッキが、それを物語っているからだ。
そう……あのステッキが……
「……神父さま!」
背後で、
振り向くと、満面の笑みでヘンリーが駆けて来る。
「よぉ、森の妖精!こんなとこで何してんだ?」
俺は、笑いながら言った。
「お父様と、蝶を見に行ってたの」
小鳥のように首を
その背後には、ステッキを手にしたチャールズの姿があった。
「ああ、ナイトメア神父。こんな所で、お会いするとは……何をされているのですか?」
息を
口調は丁寧だが、どこか探るような響きは隠せなかった。
俺は、たった今お宅に
勿論、父親の部屋を見せてもらった事も付け加える。
「……そうでしたか。それは、留守にして申し訳ありませんでした」
チャールズはステッキを持ち上げ、謝意を述べた。
上等の品だが、取っ手の金メッキが剥がれている。
チャールズは俺の訪問理由を知りたそうだったが、あえて何も言わなかった。
しばしの沈黙が流れる。
「そうだ!神父さまにも、蝶を見せてあげるよ。いっぱい、いるんだよ……ほら、こっちこっち!」
唐突に、ヘンリーが俺の手を取り、跳ねるように歩き始めた。
俺は、苦笑いを浮かべながらも素直に従った。
散歩コースから脇道に入り、五分ほど歩くと、急に開けた場所に出た。
色とりどりの花が咲き乱れる草原だ。
そよ風に乗って、あちこちで蝶が舞っている。
「ヘンリーのお気に入りの場所なのです」
無理矢理連れて来た事を詫びるように、チャールズが呟く。
「本当に自然が好きな子で……虫を見ても、少しも怖がらない。生き物を大事にする、心の優しい子です」
チャールズは、走り回る息子に目を細めて言った。
深い愛情の中にも、どこか俯瞰的なニュアンスがあるように感じられた。
「あれぇ、変な虫がいる!?」
一本の樹木を眺めていたヘンリーが、大声を上げる。
近寄ってみると、木の根元に数匹の小さな虫が
「何だろ?おかしな模様ぉ!」
確かに、変わった虫だった。
甲虫のように見えるが、背中にハロウィン・パンプキン(人面を
「本当だ。これは……初めて見る虫だね……」
ヘンリーの肩に手を置きながら、チャールズは優しく囁いた。
だが、その顔が僅かに引き攣ったのを、俺は見逃さなかった。
************
ダルボット親子と別れた後、俺はある場所に向かった。
チャールズ
何をするのかって?
思い出したのさ!
あの化け物の、節くれだった黒い鞭──
あれをどこで見たかを……
場所は、
古今東西の書物が所狭しと並んでいる中の、一冊の本だった。
何気なく手に取ったその本の記憶が、唐突に蘇ったのである。
俺は図書館に入ると、脇目も振らず閲覧室に飛び込んだ。
すぐさまパソコンで検索し、収納棚に移動する。
綺麗に仕分けされた蔵書の一番奥に、目的のものは置かれていた。
『壁のなかの
それが、その本のタイトルだった。
今から丁度百年前、アメリカの小説家ハワード・フィリップス・ラブクラフトにより書かれた怪奇小説だ。
古城を舞台にした本作は、血縁が招く陰惨な事件や、カニバリズムなどが描かれている。
そしてこの物語には、『ニャルラトホテプ』なる異形が登場する。
【這い寄る混沌】の異名を持つ、異界の化け物である。
ラブクラフトの創り出した異形の数々は、作家オーガスト・ダーレスにより、『クトゥルフ神話』として体系化されている。
その中でも、ニャルラトホテプは、自らの主人であるアザトースと同等の力を有し、人間に狂気と混乱をもたらす事を至上の歓びとするイカれたヤツだ。
潜在的な恐怖心を
俺は過去に読んだ内容を思い出しながら、頁をめくった。
ふいに、モノクロの挿絵が目に入る。
「これだ!」
俺は、思わず声を上げた。
そこには、当作に登場するニャルラトホテプの姿が描かれていた。
生い茂った樹木のように膨らんだ肉体──
そこに無数に生える突起物──
鋭利で、黒光りする、節くれ立った……触手!
それはまさに、俺を襲った黒マントの触手そのものだった。
だが、ここに描かれているのは、絡み合う
どう見ても、あの黒マントとは似ても似つかない。
まさか、他にも……
俺はふと思いつき、再びパソコンに向き直った。
そのまま、ラブクラフト作品の挿絵に絞って再検索する。
映し出された画像を繰り越していくうち、ある一枚に目が止まった。
これは……!?
全身が真っ黒な人型の影──
頭部と
間違いない……
あの黒マントの怪人物だ!
俺は、この挿絵の入った作品を検索した。
『魔女の家の夢』
この挿絵の影男は、『暗黒の男』と呼ばれるニャルラトホテプの化身らしい。
そもそもニャルラトホテプは、『千の化身』と呼ばれるほどに、変幻自在に姿を変えられるとある。
ゆえにラブクラフトの小説では、作品ごとにその表現が様々なのである。
俺を襲ったのは、このニャルラトホテプなのか……
俺は改めて、画面上の『暗黒の男』を凝視した。
いや、待て待て!
俺は、暴走する自らの想像に歯止めをかけた。
あくまでコイツは、ラブクラフトの想像上の産物だ。
挿絵にしても、作品の内容を踏まえて描いた架空の容姿に過ぎない。
普通なら、そんなものが実在するなど、あり得ない話である。
だが……
俺は腕を組み、大きく椅子に背を預けた。
もし、その【あり得ない事】が、起こったとしたら……
人間界でも、魔界でも無い、第三の異界が存在するとしたら……
ヤツは、一体……何のために現れたというのか?
俺の胸中を、嫌悪感を伴った疑念が激しく渦巻く。
そしてこの渦は、たった一本の電話により氷解したのだった。
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