傷つく覚悟もないくせに

梅林 冬実

傷つく覚悟もないくせに

傷つく覚悟もないくせに

あの人の傍にいるのが間違いなのよ


屈服しがたい感情が芽生える

もう終わったことなのにさ


「何がよ?」

面倒くささを隠さない

わざと体を反らして

大仰に腕組みして見せる

そして上目使いにその人を見る


彼女は震えてる

ガタガタと落ち着かない様子を

隠すことなく

女は高飛車にこちらを詰る


傷つく覚悟もないくせに


「さっき聞いたわよ」


あの人なら去った 私の元から

あの人は向かった この人の元へ

勝負はついてる 私は敗北者

なのになおも私に挑む

私からあの人を奪ったのに

まだ何か言いたいことがあるのだろうか

野生が理性を圧倒していたのは

少し前のこと

もうカタはつけたのよ

自分にもあの人にも


私のことどれだけ傷つけてきたか

あんた分かってる?


この人はずっとあの人のことが好きだった

だけどほんの少し前まで

あの人の恋人は私で

私の恋人はあの人で

だからクリスマスも正月も

桜も海も紅葉も二人で楽しんだの


それが何?当たり前のことでしょ


もう私に用はないはずよ


何故唇を嚙みしめるのか

何故恨めしそうにこちらを見つめるのか

何故震えているのか

何故今にも泣き出しそうなのか


分からないよ 泣きたいのはこっちだったのに

今はこの人と共にいるとあの人から聞かされて

気持ちが昇華していくのを感じた

胸にたっぷりたまった清水が

瞬く間に蒸発したみたいに

私の心は空っぽになった

あんなにも思ったあの人の

大好きだった髪も背中も

無力な何かにすり替わってしまったんだから


もういいでしょ


私は去る

この人に用はない

勿論 あの人にも

くるり背を向け歩き出す

赤いヒールがアスファルトを鳴らす


「待ちなさいよ!」


うるさいな


言葉に出さない 思うだけ

吠え面ってあんなのをいうのかしら

誰もいない日の暮れた高架下

わざわざ呼びつけて

一体何の用?

あんたはあんたの想い人と

素直な時間を過ごせばいい

私には何の関係もないこと


ふと思いつき 顔だけ振り向かせる


あの人 お味噌汁はしょっぱいのが好みよ


再び歩き出す

女の咆哮はいつ聞いても耳障り

せっかくのアドバイスなんだから

大人しく聞いていればいいのに


変な人


高架下を抜けたら駅はすぐそこ

改札を通ってホームで電車を待つ


あの人 まだあそこにいたりして

そんな気がした


傷つく覚悟もないくせに


そのまま返すわ

傷つく覚悟も 傷付ける覚悟もないくせに

あの人の傍にいようなんて

思い違いも甚だしいのよ


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傷つく覚悟もないくせに 梅林 冬実 @umemomosakura333

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