死装束を着たりんご
Horens・O
死装束を着たりんご
四畳半の汚れたアパートに、男はいた。手にはりんごを持っていた。その日の午前中に久しぶりに実家を訪れたときに、母からもらったのだった。
男は幼い頃からりんごが好物だったが、久しく食べていない。連日の長時間労働で心身ともに疲弊していて、食事の楽しさなどもめっきり忘れていた。男にとってもはや楽しいことなど一つも残っていなかった。
手にあるりんごを見る。色味や質感から上等な物のように見える。しかし、美味しそうとは到底思えなかった。せっかくいただいた物だからと一口大きく齧り付いたが、まるでスポンジでも食べているような不味さを感じて、男はりんごを捨てた。
深夜、男はどうにも眠れず考え事をしていた。ここ最近ずっとそうだった。そのとき、かさかさとビニールの音が聞こえた。それからことっと物が落ちる音、転がる音がする。音はどんどん近づいている。すぐそばまで来た! 男が恐怖に身をこわばらせていると、それはいきなり言った。
「なんやわれぇ、ワイを食べ残しやがって!」
男は驚いて飛び起きる。それから、慌てて電気をつけると、そこには白い死装束を着た、一口齧られた痕跡の残るりんごがいた。りんごは言った。
「ワイはなぁ、うまーく食われるためにおるんや。それが本望っちゅうもんや! やのにあんたなぁ、ワイのことを全然ウマないっちゅうみたいに一口齧って残しやがって! 人の気持ち考えたことあるんか? いやワイりんごやったわ! なんでやねん! ……ふぅ。ちゅうかよう見たら、なんやジブン辛気臭い顔しやがって、なんかあったんか? お兄ちゃんに教えてみぃ? ……おっさんちゃうわ!」
りんごはそれから延々話し続けたが、そのほとんどが特に意味のないものだった。りんごは一息ついて言った
「いやそれでな、洋梨の野郎に言ってやったんや。ワイがほんとの用無しやないかい! ってな! ……いや、なんでもないんや、忘れてくれんか? それでなぁ……おっとっと、自己紹介がまだやったな! ワイは見ての通り、りんごの妖精や、よろしゅうな。こうやってみんな寝静まったタイミングでそぞーっと現れて……『わっ!』って驚かすんが仕事や! ……。いやそれりんごの幽霊やろぉ! って、ツッこんで欲しかったやが。……なんやジブン、ホンマに疲れてそうやなぁ」
りんごはよし、と一息ついて言った。
「なぁ兄ちゃん。話して楽になることもあるんやで。ええやろ、ワイが話聞いたるわ! ほな、まずぁジブンのことぉワイに教えてや」
男は最初ポツポツ話し始めたが、やがて大声で泣きながら話出した。りんごは面白おかしく相槌を打ち、男は、そのうち、自分の現状を笑ってしまえるような気がした。自分の過去を、会社の事を、そして、そのことを誰にも話せないことを……。男は話終えたころには憑き物が取れたようなあたたかい気持ちになった。
「おう、なんか、ええ顔するようになったやんか。ほな、よろしゅう頼むで」
りんごは言った。男は驚いて聞き返した。
「いやなぁ、ワイは元々、食ってもらうためにここにおるんやからなぁ。そりゃ、ジブンが食ってくれんとな」
男は叫んだ。いやだ、お前と離れたくない、いやだ、と。
「んなこと言ったってなぁ。ほら、見ての通り、ワイはりんごなんやで。りんごっちゅうのはなぁ、美味しく食ってもらうのが一番嬉しいんや。兄ちゃんがワイのことを思ってくれんねやったら、せめて、うまいなぁ、って思いながら食ってほしいんや。やから、頼むで」
男は目に涙を浮かべながらリンゴを見た。いつのまにか白い死装束は消えていた。男はりんごを両手に取り、大きな口を開けて齧った。とても美味しかった。涙が溢れた。がぶりがぶりと精一杯に齧り付くたびに、口の中にみずみずしい甘さが広がったのだ。男は泣きながらりんごを食べ続けた。
男はりんごを食べ終えてから、目に浮かんだ涙を拭って、笑顔で言った。
「りんごが死装束着てるとか、なんでやねん!」
死装束を着たりんご Horens・O @welb666
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