愛と言うもの

榎木扇海

 ある田舎村の地主の次男坊として生を受けた清二せいじは、病がちである兄の代わりとして、10のときに一家の跡継ぎとなった。

 清二は愚直で誠実だったが、のろくさく野心のない男で、母や兄からは「のろ坊」と呼ばれ比較的可愛がられて育った。


 そんな清二の初恋は、二十歳、自身の婚儀のときであった。

 親同士の利害から組まれた婚姻だったが、妻となるおいちはたいそう美しい女ごで清二は一目で好きになった。


 しかし村で一番大きな商屋の一人娘として溢れんばかりの愛情を受けて育ち、日本一のべっぴんだと囃されて生きてきたお市は、田舎臭い「のろ坊」などどうしても好きになれなかった。

 清二のことを目の敵にして忌み嫌い、触れることさえいやがった。


 お市は我儘で奔放な娘だった。


 清二が手ずから作った朝餉を「不味い」と言って蹴り飛ばしたり、気に入らない女中を「盗人だ」と言い張って追い出したり、夫が働いている内に男達を屋敷に呼んではしゃぎ回ったりもした。


 しかし清二はそんなお市を咎めることはなく、むしろ自由でよいと言った。


 お市にはたくさんの金を使い、自身は百姓同等の暮らしをした。

 それがお市は気に入らなかった。お市を我儘だと口にせずとも責めていると思い込んだ。


 お市は清二の何もかもが大嫌いだった。

 田舎臭いところも、とろくさいところも、まじめなところも。


 そんな清二に反抗するためか、お市は常々「東京に行きたい」と言っていた。

「こんな田舎に居たら私は腐ってしまう」

それがお市の口癖だった。



 二人が結婚してもうすぐ一年という春近い日のことである。

 清二が遅くまで寝ているお市を起こしに部屋の襖を開けると、そこはがらんとしたもぬけの殻であった。

 清二がお市に贈った高い着物や宝石と共に、彼女の姿が見えなくなっていた。

 ふと嫌な予感がした清二は自宅の金庫を開けると、そこも空っぽになっていた。

 つまり、お市は逃げたのだ。清二の家の金目の物をごっそり持ち去って。


 清二はお市を探すことをしなかった。そんな暇もなかったのである。

 一晩のうちに窮地に瀕してしまった家を建て直すのに奮闘せざるをえなかった。

 賢い兄や経営上手な父に教えを乞いつつ、下働きまでして清二は必死で家をつなぎとめた。


 地主の息子として、跡継ぎとして、ぬくぬくと育ってきた清二には経験したことのない屈辱であったに違いない。


 しかし文句ひとつ言わずに働き、家のために身を粉にする姿を見ていた側の者たちは彼にお市を探し出して金を差し出せと追い詰めようと何度も提案した。

 清二がそれを受け入れることは絶対にしなかった。ここまで追い詰められていてなお、彼はお市に幸せでいてほしかったのである。

「どうせ、見つかりやしないよ」

優しく笑いながらそういう清二は、頼りなさげに、また強い男に見えた。


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