弐
お市が家を飛び出してから、清二の奮闘によってなんとか家が地主として権威を持ち直した頃、雷雨の夜に家の戸が叩かれた。
きっと行脚僧であろうと思った清二は、そばで掃除をしていた女中に家に招き入れるよう声をかけた。
言われた通り玄関に向かった女中は、戸を開けて思わず悲鳴をあげてしまった。
「何事だい」
その声に驚いて書斎から飛び出してきた清二の目には、びしょぬれの女性が映った。
「…お市さん」
女中がえっ、と声をあげる。そして今一度女のほうを向きなおった。
伸び放題のざんばら髪に隠された顔は青白く、目がくぼんでおり、身に着けているのはくすんだ茶色のもんぺ、伸びる手足は異常なほど細い棒っきれのようであった。
まさかこのみすぼらしい女が、あの自信に満ち溢れた美しいお市には見えなかった。
信じられない、と顔を歪める女中を他所目に清二は土間へ飛び出し、お市を家に招き入れた。
次の日、医者には酷い肺炎だと診断された。
お市は清二が何を訊いても答えなかった。ただ色ない瞳でうつむいていた。
帰宅したお市は肺炎含め心身ともに疲弊しきっており、すでに生きる意志を失っているように見えた。
しかし、それでも清二に対して見せる拒否反応は、もはや意地のようだった。夢見た東京に、持っていたプライドも自身もずたずたにされてなお、いやむしろだからこそ、彼女は自分の強さを信じたかった。
一向に元気を取り戻さないお市を心配に思った清二は、ついにお市を手放す決心をする。
占いで吉と言われる日にお市の生家におもむき、あらかたことの次第を説明してから、せめてお市が回復するまでだけでも置いてやってほしいと言った。
しかし家主は、すでにお市は清二の家の者だと言って取り合わず、挙句にはお市が村を飛び出したあの日からすでに彼女との縁は切れたのだと言い、清二も家から追い出した。
お市の家にすがることもできず、がっくりと肩を落として帰宅した清二に知らされたのは、お市の懐妊であった。
お市が帰ってきて、三月が経った頃の話である。
それから半年ばかりが過ぎて、ついにお市は産気づいた。
隣で付きっ切りで治療する医者は、お産を乗り越えお市が無事であることは万に一つもないと言った。
お市にとって産屋とはまさしく死の床であったのだ。
汗をかくことさえ出来ず、苦悶の表情で横たわるお市を見ながら、清二はそっとその拳を握った。
初めて、彼女は拒むことなく、その手を開いた。
ただ、弱りすぎて抵抗する力も残っていなかったのかもしれない。それでも清二はお市が受け入れてくれたことが嬉しかった。
固く固くつかんだその細い右手が、愛おしくてたまらなかった。
そのすぐあと、屋敷中に産声が轟いた。
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