第222話 気まずくても幸せな雰囲気
しまった。風呂から逃げてきて、自己嫌悪でうずくまる。
あそこでノックするべきだった。母さんの「愛ちゃん、まだ入ったばかりだから、タオル持って行ってあげて」に完全に油断した。
正直に言えば、男が多い家だから、風呂場で気を遣うなんて選択肢、生まれてから一度も経験したことがなかった。その油断が完全に裏目に出たんだ。
さきほどの光景をうっすら思い出すだけで、身体が固まる。
見てはいけないほど、白くて美しい存在が、家の脱衣所にいたのだから。
「怒ってるかな……」
心配になりながら、放心して天井を見つめる。そこに突然、彼女の顔が現れた。
「大丈夫です。そこまで、怒っていませんから」
音もなくこちらを驚かせようとして笑う彼女は、まだ髪が濡れていて非日常感をかもしだしている。それも、俺のシャツを着ていた。いや、着ていた洋服は、今母さんがクリーニングに持って行ってるし、仕方のないことだと思う。でもさ、だぼだぼの自分の服を、髪が濡れて風呂上りの彼女が着てくれている。これは、普通の高校生が味わってはいけない危険なものだ。
「時よ止まれ、汝は美しい」
思わずゲーテのファウストの名文が口から洩れる。
「何ですか。謝罪もなしに、死んじゃう言葉を言われても困りますよ。それとも自害しようとしてます?」
そのツッコミに思わず笑ってしまう。ファウストを最後まで読んでいないとできない切り返しだ。さすがは、優等生。教養深い。でも、感心するよりも先に言わなくちゃいけないことがある。
俺は向き直って正座をして頭を下げた。
「さっきはごめん。正直、油断してた」
「いいですよ。センパイになら見られてもいいし」
平謝りする俺に少しだけ恥ずかしそうに彼女はそう言ってくれた。
「ありがとう。ん、大丈夫? 顔が真っ赤だけど……」
彼女は風呂上りだということを差し置いても、顔を蒸気させていた。もしかして、湯当たり?
「私だって、恥ずかしいんですよ……もう、バカ」
もじもじしながらそう返された。
「アイスでも食べる?」
思わず出たのは、その言葉で……
「食べます」
彼女は少しでも自分の体温を下げようと、手をうちわにして、ぱたぱたと振っていた。
俺は急いで、冷凍庫に走った。
※
「勢いで……先輩になら、裸を見せてもいいって言っちゃった……私のバカ」
※
店でもデザート用に出している業務用の少し良いバニラアイスを容器に移し替えて、二人分を用意した。
「はい」
「ありがとうございます」
その後は、気まずい雰囲気で無言でアイスを食べる。彼女は、最初の一口を食べて「おいしい」と言ってくれた。気まずいけど、そこまで不快ではない雰囲気で時間が過ぎていく。
そこに母さんが帰ってきた。
「また、強く雨が降り出したわね。あら、ふたりともどうしたの? だんまりしちゃって」
母さんはどこか嬉しそうに笑っていた。
「……」
俺たちは黙ってアイスを食べることしかできなかった。
「英治、少しだけこっちで手伝ってくれる?」
そう言われて、俺は再び台所に向かった。
※
「母さん、さっき俺たちをからかおうとしてたんじゃ……」
俺が苦情を言うと、母は少しだけ微笑を浮かべて何も言わなかった。
「ねぇ、英治。愛ちゃん大丈夫?」
その微笑を解いて、母さんは真面目に聞いてくる。
「わからない。でも、かなり落ち込んでいたよ」
「そうよね。だから、あなたは愛ちゃんのそばにいてあげたほうがいいと思うの」
「えっ?」
「雨もやまないし、今日はうちに泊まっていってもらいなさい」
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