第210話 宇垣の思惑&兄弟の夜

 許すか。

 もし、あの光あふれる場所に戻ることができれば、今の地位など惜しくない。だが、それは叶わぬ願いだとわかっている。


 なら、進むしかない。


「止まるには、大きな犠牲を払いすぎていますから」

 自分でも驚くほど暗い声になってしまった。南さんは、物悲しそうに、こちらを見ていた。


「キッチン青野は、守君の味を守り続けているよ」

 複雑な気持ちだな。嬉しさと申し訳なさが同居している。


「そうですか。では、私はここで」

 南さんの姿を振り返らずに、会計を済ませた後、表に待たせていた車で東京に戻る。


「よろしいのですか、お嬢様にお会いにならないで」

 運転手の秘書が気を遣ってくれるが、「大丈夫だ」とだけ返しておいた。

 少し酔いが回ってきた。思わず、目を閉じそうになる。このまま、眠れば悪夢を見るだろうな。


「宇垣先生。総理は、かなり追いつめられています。そろそろ、何か動いてくるのではありませんか」


「だろうな。いくつか想定はしている」


「想定ですか?」


「ああ。総理は、俺を取り込もうとしている。このまま政権が揺さぶられれば、支持率が下がる。彼にとっては有力者は、自分の身を脅かす政敵になりえる。俺が総理だったら、閣内の重要そうに見えて権力がないポストに閉じ込めようとするだろう。形ばかりの副総理とか」

 副総理や党の副総裁は、完全な名誉ポストだ。それに、あがりのポジション。これ以上の出世は望めなくなる。それらの名誉ポストに金や人事を掌握できる幹事長ほどの旨味はない。それに、ついにここまで来ているんだ。いよいよ、目的を果たそうとしているのだから。


「では、そろそろ動くと?」


「ああ、こっちには切り札がある。まだ、利用価値のある近藤を最大限使うつもりだ。全面戦争が近い」

 あの最高権力者である老人を引きずり下ろすには、かなり骨が折れる。何度、総裁選に負けても這い上がり、執念に近い権力欲であの地位に就いた妖怪のような人間だ。どんな手段を使ってでも、今の地位にしがみつくはずだ。それにとどめを刺さなくてはいけない。


 車はゆっくりと都内へと向かっていく。


 ※


―英治視点―


 いろいろあって、うまく眠れない。

 スマホを使って、小説の推敲を始めてしまったから、余計に眠れなくなっている。

 水を飲もうと、自室を出て、1階を目指した。兄さんと母さんは、もう寝ているだろうから、できる限り足音を立てずに。


 だが、台所は電気がついていた。

「英治、どうしたんだ。こんな夜遅くに」

 兄さんが、一人で酒を飲んでいた。


「ちょっと、眠れなくて。水でも飲もうかなと」

 

「そうか」

 兄さんは、だるま型の瓶に入ったウィスキーを飲んでいた。父さんもよく晩酌に飲んでいたやつだ。ミネラルウォーターのボトルがわきにあるから水割りだろう。コップを取り出して、兄さんの横にある水を注ぐ。


 つまみに食べているのは、じゃがバターに塩辛をのせたやつだ。それも父さんがよく食べていた。兄さんも、俺と同じで感傷的な気分なんだろうな。


「食うか? 懐かしいだろう」


「うん。父さんがよくやっていた組み合わせだ」


「たまにな。レシピとかで悩んでいる時は、一人でこういう風にやっているんだよ。なんだか、父さんがヒントを教えてくれる気がしてな」


「兄さんでも悩むことあるんだ」

 料理に関しては、ある意味、天才的だと思っていた。レシピを読んだだけで、父さんの味に限りなく近い料理を作ることができているし。お客さんの反応も上々だ。新作メニューも全部美味しい。


「そりゃあ、あるさ。むしろ、悩むことだらけだよ」


「そっか」

 兄への感謝が深まっていく。俺のために、若くして立派に父親代わりをしてくれている。


「あと、少しだな。英治と酒を飲める日も」


「うん」


「ごめんな。今回の件、父さんだったら、もっとうまくやれていたと思う」

 突然の謝罪に一瞬、ポカンとしてしまった。そして、不器用な兄さんらしいなと思う。


「何言ってるんだよ。前も言ったけど、兄さんが謝ることじゃない。俺のために……家族のために頑張ってくれている兄さんのこと、本当に尊敬しているし、ありがたいと思っているんだ。いつも本当にありがとう。俺も、兄さんと酒を飲める日を楽しみにしている」

 照れ隠しに、兄さんの作ってくれたじゃがバターを一口放り込んだ。濃厚なうまみが口の中いっぱいに広がった。

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