126.負け犬リオ

 ジョエルの喉から、獣じみた怒りの雄叫びが響き渡り、ついに壁から手を離した。再び急降下。全体重をかけてヘイグに襲いかかる。空気を切り裂く音が執務室に響く。


「これで終わりだ!」


 バトルアックスと鉤爪が交差する。金属と金属がぶつかり合う甲高い音が、二人の周りに渦巻く。


 一瞬の静寂。


 そして、ヘイグの口から血が噴き出す。彼の体が大きく鉤爪に引き裂かれ、深紅の血が床に溢れ出る。体が重々しく床に倒れこむ。


「う......くっ......」


 ヘイグは苦しげにもがく。その目には、怒りと悔しさ、そして深い悲しみが宿っている


「リオ......すまん......」


 最後の言葉を絞り出すと、ヘイグの目から光が消えた。魂が抜けたように、彼は息絶えた。


 ジョエルはそれを見て口角を吊り上げた。勝利の喜びが彼の顔に浮かぶ。しかし、その表情もつかの間、彼自身も口から血を吐いた。背中には大きなバトルアックスの切り傷が走っている。二人の男の戦いは、まさに互角だったのだ。


 執務室に静寂が戻る。アーサーもまだ立っている兵達も皆一様にして息をのむ。死闘の痕跡だけが、先ほどまでの激しい戦いを物語っている。


「――――報告!」


 突如、兵士の声が静寂を破る。一人の兵士が息を切らせながら部屋の中に駆け込んでくる。


「殿下! 金獅子の団を制圧完了いたしました! 半数は死亡、半数は捕獲に成功しました。数人逃げた者もおりますが、捕まるのも時間の問題かと思います!」

「ああ、わかった」

「ただ、一点だけ......」


 兵士が言いづらそうに目を伏せる。


「『赤い鎧』だけは捕獲する事ができませんでした」


 アーサーの顔が一瞬にして怒りに歪む。


「なんだとっ!? 相手は片目の潰れた女一人だぞ! お前達は何をやっているんだ!」

「しかし、夜の森を探すには限度があり......」

「貴様ッ! 俺の命令を聞けないばかりか、口ごたえをするとは! なんと無礼な!」


 アーサーの怒声が執務室に響き渡る。アーサーはすぐさま鞭を取り出し、兵に叩きつけようとする。


 その時、ジョエルの体が崩れ落ちる音が聞こえた。全ての事をやりきったかのように、彼は脱力し倒れたのだ。アーサーは一旦手を止めた。


「役目は果たしました......。後は頼みましたよ......」


 ジョエルの声は、かすかに震えている。


「ああ、大いに役に立ったよ」


 アーサーは満面の笑みを浮かべた。その目には、冷酷な光が宿っている。


「......あなたに......言ったのではありません。ここにはいない、獣公国の全ての誇り高き民達に言ったのです」


 ジョエルの体が動かなくなり、唯一目だけを動かして天井を見つめる。


(......ああ――――)


 今まで出会った大切な人たちが目に浮かぶ。最初は故郷の家族、友人、仲間達を思い出す。奪われ陵辱され殺された彼らの顔が、ジョエルの心を締め付ける。


 だが、徐々に目に浮かぶのは、自分が裏切ったはずのルーナ隊の仲間達だった。――10年。それは、彼にとってあまりにも長い年月だった。彼が憎しみ以外の情を持つには十分な時間だった。

 自分のせいで半数は死に、捕まったもう半数もきっとこれから恐ろしい目に合う。全て自分のせいだ。後悔はない。それでもなお、死の寸前、想わずにはいられない。喧嘩し、笑い、背中を預け合い、語らった。大切な日々だった。


《ジョエルってやっぱルーナの事好きなんじゃないだか?》


 遠い昔の記憶が蘇る。デニスが冗談混じりに酒の席でそんな事を言っていた。


《そんな訳ないじゃないですか。あの人ハーフエルフですよ?》

《関係ないだよ!》

《たとえあの人が獣人だったとしても、あんなガサツな女願い下げですね》


(こんなの......なんで今、思い出してるんでしょうね......。......なんで......あの人が捕まらなくて良かったと思っているんでしょうかね......)


 それを最後に、ジョエルの瞳から光が消えた。まるでガラス玉のように空虚を見つめていた。


「......ふんッ。獣風情が! 何が『誇り高き』だ」


 アーサーの冷たい声が響く。彼はジョエルの死体に唾を飛ばし、容赦なく蹴った。その音が、むなしく部屋に響く。


「う......ぐっ......。へい......ぐ......」


 リオは力を振り絞って立とうとするが体が言う事をきかず崩れ落ちる。


「おお! そうそうお前がいたんだったな! あまりに影が薄いから途中からすっかり忘れていたよ」


 アーサーの目が、残忍な光を放つ。アーサーはリオの怪我した右手を足で踏みつけた。グギリッと骨の折れる音が響く。リオは声にならない悲鳴をあげた。


「......ッ......」

「ひひッ......痛むか? 負け犬。母を弄び殺した報いだ。これからお前に死よりも恐ろしい地獄を見せてやる......ヒヒッ」

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