空蝉に微笑と願いを
千桐加蓮
第1話 残響
制服のワイシャツの裾を捲り、十二時が過ぎたことをスマホで確認して、
改札を出て、一人で家に向かって帰っていた。
今日のお昼は何を頼もうかと、ウキウキの表情で帰り道を歩いている。海大は、出前サイトをはじめとした、SNSを使いこなす、ごく普通の女子高校生である。
夏風がスカートを靡かせ、ロングの髪を高い位置でポニーテールをしていた先の方が、風に揺れる。
夏風が吹いている方向を不意にみると、そこには一人の男がいた。
誰もいない公園のブランコの近くに遠くを見て、そこに立っている。
アイビースタイルの服装をしている男の人だ。恐らく、三十半ばくらいで、一昔前のサラリーマンを印象つけるようなオーラの男。
海大は、思わず立ち止まった。少し吊り上がっている目とはいえ、優しそうな人だ。
「あの人、しっかりしてそう」
他人事のように呟きながらも、海大はゆっくりと、その男の人の方に近寄る。
寂しそうな背中をしばらく眺めていると、男の人は、海大を見ることなく
「僕が見えるんですか?」
とだけ尋ねられた。
海大は、気まずそうに苦笑いを浮かべた。
「あ、そっちの方でしたか」
そっちの方というのは、生きていないけれど、人間の形を模した人のこと。
「僕、幽霊ですけど、お嬢さん生きてますよね」
「どっちでも良くないですか? それを知って、あの世に連れていくつもりですか?」
海大は、わざと喧嘩腰に言い放った。きっかけを作ったのは、間違いなく海大の方だ。都合がいいお嬢さんだと思われても仕方ない。
海大のような人間の場合、このように初めは言い放たないと、幽霊にあの世に引き込まれるから用心しなさいと、小さい頃から母に聞かされて続けていたので、それに従う。
「見えるからと言って、連れてはいきません。使命を全うしてください」
海大は、ポニーテールの先の方を触りながら
「あー、そういう人じゃないんですね」
と、言って謝罪をすると、幽霊は「構いません」と、作り物の笑顔で言ってきた。まだまだ暑い日は続くというのに、海大の背筋が少々冷たくなった。
「まだ、学生さんですか? その歳で僕が見える人は限られると思いますが」
海大は、学校指定のバックをブランコ付近に投げて、公園の敷地に入る。
「高二です。ユタの曾孫だからじゃないのかな」
「あぁ、沖縄の」
「はい」
曽祖母は、沖縄で民間の霊媒師を生業としていた。その話を母からよく聞かされていた。赤ちゃんがお化けが見える、亡くなった人のことを目で追うという話はあるらしいが、私は高校生になっても、幽霊が見える。
海大は、ブランコに座ろうと、靴で地面を蹴った。幽霊は、ブランコの椅子の部分に手をついて言った。
「沖縄、行ってみたいですね」
その言葉に嘘があるようには全く聞こえなかったから、素直に話してしまったのだろうか。海大も少し考えて
「一緒に行きますか?」
なんてことを言ってしまって、自分で自分に驚いた。幽霊相手に、一緒に沖縄に行こうと言っているのだ。自分でも何を言っているんだと思う。
そんな海大に対して、幽霊はなんとも言えない顔をしているので
「冗談ですよ」
海大は、少し怒ったような口調で言った。
それから、続けて
「お盆は終わりましたけど」
と、ブランコを漕ぎながら、海大は呟いた。
「僕の命日が近いんですよ。僕、刑務所で死にましたけどね」
海大は、ブランコを漕いだまま、顔を横にして幽霊を見た。
体が震えた。穏やかに笑い、なんともないような表情をする幽霊を見た。
「罪を犯したんですか?」
苦笑いもいい所だ。海大は、ブランコを漕ぐ足を止めることはなく聞いた。
「そうですね、罪を犯しましたね。その罰でここにいます」
「罰が重いのですね」
「……そうですね」
ブランコに揺られて、しばらく間があった。ブランコをゆっくりと足で止めて、海大は地面と足をつけた後、ブランコに座った幽霊を見る。
「結婚してたんですね」
幽霊の左薬指の指輪を見て、続けて言った。
「お子さんはいたんですか?」
「ええ」
幽霊の作り笑顔が、一瞬本物の笑顔に見えた。
そして、すぐに悲しそうな顔へと戻って、また作り笑顔を浮かべた。遠くを見る幽霊の横顔に海大は見惚れる。
綺麗な横顔だ。こんな顔で、奥さんを見ていたのだろうかと考えてしまう。
その顔を奥さんは、もう永遠に見ることができないのかと思うと、急に切なくなった。
海大も幽霊と同じように、遠くの方を見てみる。保育園の建物で遠くを見ようにも、建物の壁しか見えない。
「何が面白いんだろう」
思わず呟いた言葉に、幽霊は何も言ってこない。聞こえなかったようだ。
しばらく、会話が途切れたが、海大は唇を尖らせて
「愛してたんですか? 奥さんとお子さんのこと」
木々が揺れた。風が強まっていく。風は、幽霊と海大の髪を揺らす。幽霊が座っていたブランコは、音を立てて動いた。
海大が幽霊を見ると、さっき見た作り笑顔がそこにはない。目を大きく開いて
「愛してる」
「え」
「愛してる」
幽霊の左手が、ブランコ持ち手に触れていた。強く握りしめている。
幽霊の作り笑顔は消えていた。代わりに現れたのは、今にも泣き出しそうな顔をした男の人の顔だった。
海大も、そんな男の人の顔に驚いたから、何も言えなくなってしまった。
ただ見つめ合うだけで、時間が過ぎる。その時間の経過でわかったことがある。
幽霊は涙を流していないのだ。それなのに泣いている。
そんな気がした。
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