イフ・エンド

白と黒のパーカー

第1話 血の口づけ

 それはなんでもない日だった。

 いつも通りに朝起きて、歯を磨いて、登校して、勉強して。そして貴女と一緒に下校する。

 何気ない日常の風景、そんな一幕。

 どうしてそんなことを言ってしまったのか、今となってはもうわからない。

 これからの私の人生を全くと言っていいほどに変えてしまった出来事は、思わず口をついて出た貴女への質問だった。


「ねぇ、リコち。好きな人......いる?」


 瞬間、時が止まったかのような錯覚。

 降るにはまだ早い雪がその場で静止した。吐く息が白く震えている。それは思いがけない気温の低さによる体の震えか、自分が今口に出してしまった言葉による心の震えか。

 恐る恐る隣を歩く貴女の顔をのぞくと、少し困ったような表情かおをしていた。

 それはそうだろう。だって私は誰よりも知っているのだ。貴女がこの手の質問を蛇蝎だかつのごとく嫌っていることを。

 知っているからこそ、なぜ貴女を困らせるだけの質問を自分がしてしまったのかがわからない。

 自分の本心はどこにあるのか? 私は貴女になんと答えてもらいたいのだろうか。

 私の名前を呼んで欲しかった? 違う。

 クラスで一番格好いい男子の名前? 違う。

 なら、別の誰かほかの女の子の名前? それは絶対に嫌だ!

 そんなことを忙しなく脳内で考えていると、先ほどまで私の隣にいた貴女はいつの間にか真正面に移動してきていた。

 それから一拍ほどの時間をおいて、貴女はまた少し困ったような表情をたたえながらおずおずと口を開いた。


「葉山カノコ、かな。なんて」


 その言葉が聞こえた瞬間に私は自分の過ちの大きさに気付いた。

 自分のこの心に渦巻く浅ましい気持ちを知らずとは言え貴女に押し付けていたことに気付いたからだ。

 自分の本心はどこにあるのか? 私は貴女に何と答えてもらいたいのだろうか?

 何を腑抜けたことを考えていたのか、分かっていないわけがないだろう。

 本当は何がなんでも自分の名前を呼んで欲しかったのだ。

 私、葉山カノコは親友である白露リコのことが好きで好きでたまらないのだ。

 事実それが今叶った。いや、叶ってしまったのだが、目の前にいる貴女は悲しげで儚い蜃気楼のように今にも消えてしまいそうな顔をしていることに気付いてしまう。

 ああ、私はなんてことをしてしまったのか。抑えられない気持ちがあったのは本当、それでもこの気持ちはずっと秘めておこうと思っていたことも本当。

 本心を伝えなくとも貴女と親友としてずっと一緒にいられればそれで良いと、そう思っていたのに。

 それを今、自分の手で破ってしまったのだ。

 死んでしまえばいい、こんな自分勝手な人間は今すぐにどこか高いところへと登って頭から地面に叩きつけられるべきなんだ。

 壊れた頭蓋から溢れ出す脳漿は地面をテラテラと濡らし、やがて揮発しこの世界を揺蕩う大気の中の一部として紛れ込みたい。

 頭を掻きむしり、沈黙と沈黙で線引きされた貴女と私の境界線で微妙な時間のズレが生じる。

 急速に血の気が引き青ざめた私の顔は、この世界の何よりも醜かっただろう。

 チカチカと明滅する目の中を通る神経が針の筵に座るかのようにじくじくと痛む。閉じる瞼をこじ開けるようにして流れ出す涙が噴火口から噴き出したばかりの溶岩のように熱い。

 思考は定まらず、視点も定まらない。ぐわんぐわんと高速で回転し続ける世界を前に立っていることができずに顔面から地面らしきものへと倒れこむ。口の中には絶望とともにやってくる血の香り。

 痛みを感じたのかどうかも理解できないままに私の意識は暗転した。


 次に気付いた時には私は本当に自分のマンションの屋上に立っていた。

 目の前には落下防止用の柵がある。乗り越えられない高さではないなとぼんやり考える頭と体の動きは乖離して、一歩また一歩と柵のほうへ歩いていく。

 このまま私は飛び降りるつもりなのだろうか。

 自分の行動なのにもかかわらずまるで誰かに操作されているかのような錯覚に陥る。

 そのまま視点は上空へと上がり物理的に私を俯瞰する。

 ちょうど三人称視点のゲームのキャラクターを背面の頭頂部から見下ろす感じである。

 柵に向かってゆっくりと歩みを進める私の眼前には、その心とは正反対にキラキラと光り輝く夜景が望める。進む足はよく見るとすくんでいるようで、がくがくと小刻みに揺れている。怖いのだろうか。どこまで行っても他人事のように感じる。

 そういえば、このまま私が飛び降りればこのマンションは事故物件になるのだろうか。

 家族も住んでいるし、そうなれば賠償金など請求されたりするのかもしれない。

 つまり自分が今しようとしていることは他人に迷惑をかけ続けるだけの自己満足。

 今日その自己満足で放った言葉のせいで自己嫌悪に陥っていたのにもかかわらず、私はまた同じことを繰り返そうとしているのか。

 もう、考えるのは辞めよう。これから死ぬ私にこの先も続いていく世界のことなんて関係ない。

 いつの間にか三人称視点から一人称視点へと戻っている。

 伸ばした手は柵をつかみ、体を浮かせて向こう側へとよじ登る......ことは出来なかった。

 誰かが後ろから私の体を羽交い締めにしている。

 ゆっくりと振り返った私の後ろにはリコがいた。


「何してんのよバカ!」

 

 言葉と同時に飛んできた平手打ちは私の頬を強かに張り飛ばした。

 唇が切れて口の中に血の味が広がる。


「痛い」

「痛いってことはまだそれを感じるだけの活力はあるってことだね」


 なんと言っていいのかはわからないけれど、こういう時はもう少し優しい言葉をかけてくれるものではないのだろうか。

 それでも私を視界にとらえて離さないリコの眼はとても力強く暖かかった。


「なんで?」

「え?」


 別にとぼけたわけじゃない。本当になにを聞かれたのか分からなかったのだ。


「なんで自殺しようとしたの」

「......洗濯物を干そうとしてたりして」


 バチンという大きな音とともにもう一度私の頬が張り飛ばされた。


「こんな時にまで人を煙に巻こうとするんじゃないの!」


 そう言って今度は私の体を強く抱きしめるリコの体はとても冷たくて震えていた。


「もしかして、ずっと探してくれてた?」

「当たり前。貴女自分がどんな顔して私の前から逃げ出したかわかってるの? 急に頭を掻きむしりながら全てに絶望したような顔して走り出すんだから、しばらく呆気にとられたわよ」

「それは、申し訳ない」


 本当に申し訳ない。あの時は......というか今も割とどうにかしている。

 

「はぁ、もう良い。結局貴女は死ぬ前に私に見つけられたんだから。で、話は大幅に戻るけれどどうして私にあんな質問したの?」

「自殺しようとしてた人間に追い打ちかけてくるね」

「うるさい、答えて」


 実は内心結構驚いている。リコはもっとおとなしくて優しくて、強く握りしめれば壊れてしまいそうなほど脆い陶器のようなイメージだったから。

 そんな私の想像とは裏腹に、飛び降りようとした私を羽交い絞めで引き戻してから平手打ち(二回)そのあとに抱きしめてくれて、今は話を聞こうとしてくれている。

 知らなかったよ、私。貴女にそんなに強い部分があったなんて。

 自分の気持ちに素直になれないで、勝手に不貞腐れて好きな人の本質を見ようともしていなかった。

 そんな私に貴女のことを好きでいる資格があるのかな。


「......いひぇひぇ」

「また貴女何かごちゃごちゃ頭の中で考えてるでしょ」


 真顔で両頬を引っ張ってくるのはやめて欲しい。

 この際だ。腹を割って話し合うのも悪くないのかもしれない。その結果私の醜い部分が曝け出されたとしても、まぁ今更だろう。


「......ふぅ、分かった。私の思いの丈、全部リコちにぶつけるね」

「やっと、いつもの飄々とした顔に戻ったね」

「私ね。女の子が好きなの。それは友達としてとかじゃなくて恋人として。これから先もずっと続く人生の伴侶として好きなの」


 自分の心の内を誰かに話すのがこんなにも恐ろしいものなのかと、少しだけ怖気づいてしまう。もしかしたら受け入れてもらえないんじゃないか、気持ち悪がられるのではないか。

 そもそも人間というのは自分と違うものを受け入れられないものであり、受け入れられないものは気持ち悪いものである。

 それは正直仕方のないことだと思う。私にだってこの世の中に理解できないことは沢山あるし、それらを無条件に受け入れることができるかと問われれば、ノータイムで頷くことはできない。

 だからこれは、お互いの価値観のぶつけ合い。譲り合いなどない醜い本性をぶつけ合う感情の戦争。

 私の一番大好きな人へ最大限の愛情と狂気のありったけをぶつけようと思う。


「恋って何なのかな。好きって何なのかな。この世界には当たり前に恋愛という言葉が存在して恋愛という行為が蔓延っているけれど、それが真っすぐに受け入れられているのって男の子と女の子が付き合って色んな艱難辛苦を乗り越えた先にある結婚そして死別。それだけが絶対の正しさをもってこの世界に受け入れられて回っている」


 話していく途中感情の発露が高ぶりすぎて涙が止まらない。この広い屋上の敷地以上にいっぱい広がる吸い込まれそうなほどの闇色の空。それらを仰ぎ見ながら両手を広げくるくると回りながら貴女に心のヘドロを投げつける。

 何を思っているのか黙って耳を傾けたままの貴女は身じろぎ一つしない。

 あは、そんな姿もとっても綺麗で愛おしい。


「そんなのってズルい! って私は思う。たまたま女の子に生まれてきたせいで、たまたま相手も女の子だっただけで、本当に本当に本当に心からズタズタにしたいほど愛してる人に告白する権利すらまともに与えられない。これを狂っていると言わないで何と言うんだと思う?」


 ずりずりとすり足で柵のほうへと寄っていき、腰を支えに身を乗り出し仰け反る。天地がひっくり返って、地上は闇に飲まれ天上は煌びやかな人工物に蓋をされる。

 さっきまで身じろぎ一つしなかった貴女は一転警戒するように私の近くまで寄ってくる。


「うふふ、やっぱりリコちは優しいね。」


 仰け反る私の目の前にリコちが来る。だから私はその瞬間勢いよく起き上がりリコちの首を思い切り絞める。

 藻掻く両手を躱しながら立ち位置を入れ替えて今度は彼女を柵に押し付け仰け反らせる。


「えへへ、押し倒しちゃった」


 苦しみからか、怒りからか、驚きからか、確かに目を剥いた彼女の顔は尚も美しく我慢できずに口づけをする。

 口に広がるのは血の香り。これが正真正銘の私のファーストキス。


「ファーストキスの味は私の血の味だったね、っうぐ!」

「雰囲気ってものを考えなさいよ!」


 ゴチンと鼻先に強い衝撃、何事かと目を向けようとするがゆらゆらと揺れていて視線が定まらない。軽い脳震盪だろうか。

 顎に滴る液体の感触に違和感を覚えて拭ってみれば真っ赤な血。さっきの衝撃で鼻血が噴き出たらしい。

 頭をガンガンと叩きながら視線を戻すと、額から血を垂れ流すリコち。どうやら彼女に頭突きされたらしい。

 残るダメージにたたらを踏むと、その隙をつかれてリコちに今度は私が首を絞められて地面に押し倒される。

 そしてそのままあり得ないほどの勢いと威力で再びの口づけを交わす。

 ドスっと鈍い音を立てながらぶつかり合う二つの額と唇は血にまみれ最早どちらがどちらの血を浴びているのかわからないほどにぐちゃぐちゃである。


「貴女に奪われたファーストキスは確かにカノコの血の味だったけど、私から奪ってやったファーストキスは私と貴女の血のブレンドよ。せいぜい味わうことね」


 してやったりといった顔でにやりと笑うリコちの顔は赤黒く染まっており、とても奇麗だった。

 

「ねぇ、リコち。私ね。貴女が好き。どうしようもないくらいに好きなの」


 それに何か答えようとリコちが口を動かした瞬間にもう一度口を口でふさぎ何も話せないようにする。

 落ち着いたのを確認してからゆっくりと口を離すと艶やかな赤い糸が引く。

 蒸気した頬の赤みはとうに血にまみれており、リコちにばれないのは幸いだった。


「何も言わないで。だって貴女が例え私を好きだと言ってくれてもそれは一時の気の迷いかもしれないから。思春期の子供にはよくあることなんだよ? 自分の内面と外面の変化に戸惑って、自分の周りには早熟にみえる同級生がいる。あの男の子がカッコいいなんて話を聞いてもピンとなんて来ていないのに、仲間外れにされないためにはそれに合わせるしかない。でもいつかそんな生活疲れてしまう。だからこそその感情の逃げ場として、自分はマイノリティなのかもしれない。そうだ女の子が好きなんだから仕方がない。そんな風に自分を守るための殻として作り上げてしまうものもあるの」

「......私がそうだって言いたいの?」

「それだけじゃない。私たちは今はまだ高校生で若いから綺麗だけど、これから先どんどん年老いていく。そしたら皺も増えてよぼよぼのおばあちゃんになっちゃう。どう? それでもまだ私を好きでいられる自信がある?」

「ねぇ、カノコ」


 私の上に馬乗りになっている状態のカノコは一つ深呼吸してから真剣な顔で私に向かう。


「なに?」

「貴女、うるさい」

「は?」


 そう短くジト目でこっちを睨んだあと貪るように濃密な口づけを交わす。入り乱れる血液と唾液がお互いの顔も身体も汚しドロドロにしてしまう。

 お互いがお互いを求めるままに縺れ合い施しあう。

 汗と血と涙が二人の間から会話を奪い去り、激しい口づけが唯一の情報交換となった。


 暫くして、半ば放心状態の私たちはお互い夜空を見上げながら大の字に寝転がっていた。


「十年」

「何が?」

「私に十年ちょうだい」


 意図がつかめずに聞き返すことしか出来ない。


「それまでに私は貴女にふさわしい人間になってみせるから」


 そう告げたリコちは今までで一番の素敵な笑顔で笑い。その日を最後に彼女は私の前から姿を消した。


 


 

 

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