日傘を差せばいいんだよ

雨乃よるる

道化師の邂逅

 私のクラスには、全く恋愛に興味のないナルシストがいた。

「自分が美しすぎて、他人を美しいと思えない」

 おそらくこれは、彼の本音ではない。本性を隠すため、お茶を濁しているだけ。

 勉強も運動もできる完璧な俺様、と悦に浸っているのもキャラ作りだ。

 そんな彼に興味を抱いてしまった私は、ある暴挙に出た。


「好きです!付き合ってください!」

 自分でも笑ってしまうほど陳腐な表現だったが、彼の顔は急速に熱が冷めたように真顔になった。

 誰もいない教室、蝉の鳴く声が耳に痛い。

「それは本気?」

 そういえば蝉は、メスを呼び寄せるために鳴くんだっけ。

「うん。あたし本当にオオスケくんのことが好きなの!」

 私が心にもないことを甲高い声でまくしたてると、彼は状況をゆっくり咀嚼して、言った。

「いいよ。付き合っても」

「ほんと!」

 彼は、満面の笑みを浮かべた私の、目の奥を見透かす。

「でも今から言うことに納得したら、ね」

 うなずいた私に、いつもの調子を取り戻した彼が説明を始めた。

「まず、俺は自分のことしか眼中にない。須川さんのことを愛せるかは保証できない」

「それでもいいよ」

「そして、須川さんが、俺以外の人を好きになっても、俺は文句を言わない」

 彼が「俺のことだけ見てろ」というタイプでなかったことに安堵する。

「うん。でも他に好きな人なんてできないよ」

 そう、私の本当に好きな人はたった一人。これ以上増えることはない。

「ところでさ、須川さん」

「なに」

 スマホを内カメにして、前髪を整えていると、彼から予想外の言葉が飛んだ。

「今日の放課後、駅前の図書館行こう」

 蝉の声が耳障りだ。それがメスへの求愛なのだと考えると、余計に。


***


「須川さんって、本読む?」

 純文学系の棚のタイトルを流し見しながら、彼が質問する。

「あんまり読まないかな。あ、でも恋愛小説は読む」

 高校生女子の中で一番ポピュラーであろう恋愛小説の名前を挙げる。とりあえずこれだけ、と思って退屈しながらがんばって読んだ本だ。

「それ知ってる。人気のやつだよね。読んだことないけど」

 予想通りの返答の後、不自然な間が空いた。ぼうっと歩く彼を、追うだけの時間。

 今の間は何だろう。少し鎌をかけてみよう。

「オオスケくんは、恋愛小説とかあんまり読まないの?」

「うん。自分より他人を好きになる気持ちが、分からないから」

 彼のキャラ通りの返答に、内心舌打ちをした。もっと何か引き出せないか。

「じゃあ、どうして私と付き合おうと思ったの?」

「彼女がいたほうが自分の価値が上がるじゃん」

 彼は前を向いたまま、当たり前のように放つ。

「オオスケくんらしいね」

 実際に、彼のキャラと齟齬のない返答だった。壁は堅い。別の方面から切り崩せないだろうか。

「オオスケくんは、どんな本を読むの?」

「うーん、太宰治とか」

 少し気になったのか、彼が立ち止まる。

「えー、めっちゃ頭よさそう」

「まあ事実だけどね」

 彼は引き返して、本棚から「人間失格」を取り出した。彼が唇を小さく舐めたので、私はしめたと思った。今までになかった表情からは、新しい情報が引き出される。

「あたし人間失格とか読んだことないんだよね」

 私の言葉を無視してページをめくる彼の真剣な表情も、また新たな一面だった。

「お気に入りの一節とか、ある?」

 何気なく質問すると、いきなり彼は朗々と文章を読み上げ始めた。静かな図書館に、低く穏やかな声が響く。


「『つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために』*……」


 腹の奥底の肉が筋を違えて、きりりと痛む感覚。吸う息一つに意味が宿ってしまう、刹那が永遠に引き延ばされた時間の流れに、いつの間にか身を任せていた。手と足からさあっと血が引いて、眉間のあたりに集まった。思い切り泣きたい気持ちと、顔の形を歪ませまいとする力が拮抗して、表情は微細に震えた。

 これを「共感」というのだと、認めたくなかった。共感というのはもっと軽い、大衆的なものだと思っていた。ピンポイントで名指するように自分の感情を表現した文章に、かたくなな心の壁がぐちゃぐちゃに押し流された。


「恋、って、何なんだろう」

 彼はひとりつぶやいて、本を閉じる。

「相手のことを大切に思う事なら、愛。同性がオシャレだと思うのは憧れ。異性の容姿に惹かれるのは、何なんだろう」

 彼が本性の一端を確実に現わしている時に、私はまだ「共感」余韻に浸っていた。

「俺さ、恋愛、したことないんだ」

 本を棚に戻しながら、彼は続けた。

「恋することは、当たり前。それができない自分は、おかしいんだと思った」

 彼は私の気持ちをそっとなぞる言葉を紡ぐ。

「おかしい自分を隠すために、ナルシストのキャラを演じた。本当は自分なんて大嫌いだったのに」

 そういって彼は、私の瞳の奥を覗き込む。

「俺は、須川さんの目を見て、何かあると思ったよ。俺と同じような欠陥が」

 優しい笑顔が、私を促した。高い崖から飛び降りるような一歩を、彼は要求してきた。

「言ってよ」

 彼は、ナルシストではない。恋愛ができないことを誤魔化すために演じていただけ。そして私は。

「あのね、ナルシストは、あたしなんだ」

 言葉が意志に反して滑り出てくる。

「自分に恋してるの。変でしょ」

 緊張で語尾が震えた。彼は、首を左右にふる。変じゃない、と伝えるように。

 その優しさに身を任せ、永い自分語りを始めた。


 小6の時だったかな。バレンタインにね、仲のいい男子にチョコをあげたら、付き合うことになった。

 デートの時に、手をつないだ瞬間、思ったの。気持ち悪いって。カフェで飲んだお揃いの抹茶ラテも、甘くて吐きそうだった。お金を払うとき泣きそうになって、帰り路にその男子を振った。

 帰ってきて、洗面台の鏡に映った自分を見たとき、ものすごく愛おしかったの。見た目がかわいいとかじゃなくて、抱きしめてあげたいって。それからずっと、私の恋人は私自身。

 自分に恋してから、馬鹿みたいに明るいキャラをやるようになった。本当の自分の一端でも誰かに握らせないために。

 自分が好きなんてバレたらナルシストだっていじめられるかもしれないからさ。髪染めてんのも、甲高い声でわめくのも、全部演技だよ。


 腹黒いピエロだね、あたしたち。


 彼ははっと息を呑んで、本棚の「人間失格」に目をやった。

「実は俺も、誰かに打ち明けたかったんだ、ピエロの衣装の中身を」


 外は眩しいほど明るかった。木陰から降る蝉の大合唱に呑まれながら、私たちは一つの日傘の下に肩を寄せ合って歩いた。


***


引用元:*新潮文庫『人間失格』太宰治著

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