第7話雨天の日に始まるハプニング

 ――お前は誰だ、アデライド。


 一人きりの執務室内で執務机に両肘を突き両手を重ねアンニュイな眼差しで無意識に呟いた自分の声に、ヴィクトルはハッとして我に返った。

 そして皮肉にもこの言葉で自分の思考を確信する。


 面と向かえば率直に物を言うのはそのままなのに、今や別人のように明るく輝く笑みを浮かべるアデライド・ロジェ。


 瞳も生気に溢れ宝石のようにキラキラとして、今までの彼女とは一線を画し何事にも積極的だ。

 一人称も「わたくし」から「わたし」となり、言葉遣いも以前よりもそして貴族令嬢としても些か砕けたのは否定しない。


 アデライド・ロジェは最早以前のアデライド・ロジェではない。


 前の彼女を月とすれば、今の彼女は太陽だ。

 同じ姿形なのに、それくらいには印象に差がある。彼女の身に何かが起きているのは確実だ。だがその何かが定義できない。


 明日には女子修道院へと到着するだろう。


 ここ二日間と同じく、公務があるので一日ずっと彼女に張り付いてはいられないのが口惜しい。またどこかでエドゥアールと入れ替わるつもりだが、その時に問うべきだろうか。

 或いは、短期間だろう滞在からの帰還を待つべきだろうか。

 そもそも何と問うべきだろうか。

 お前は誰だなどと、よりにもよって深い関係にまでなった相手に面と向かって問う台詞ではない。逆に正気を疑われかねない。……嫌われかねない。


『大事な陛下の安寧を願える場所で一度そうしたいって思ったのよ!』


 昼間の彼女の言葉がふと耳奥に甦る。

 あの時は正直頭が真っ白になった。予想していなかった答えだったからだ。そこまで心から自分を案じてくれる稀有な存在が目の前に居るのだと彼は初めて知覚して激しく胸を打たれたのだ。

 彼に舞い上がっていたという自覚はなかったが、彼は珍しくも自分がまた動揺を来していたとはわかった。


 抱き締めたら「死んじゃうでしょ」と思いがけず強い非難の目を向けられた最初の時のように。


 冷たいと言われる己の心臓にヒビが入り、そこから抗えない温かい何かが流れ込んできたようだった。


 最近のアデライドから幾度となく齎される感情には戸惑わされてばかりだった。彼女から向けられた眼差しが忘れられない。離れてもふとした瞬間に思い出す。近くにいればいるだけ感情が揺さぶられる。

 うっかり兜の存在を失念し、考える前に体が動いて衝動的にキスしそうになったのは正直悪かったと思っている。鼻血を出されなくて本当に良かった。


 光を振り撒くような彼女の笑みが脳裏に鮮明に浮かんだ。


 その笑みにかつての控えめな笑みが重なったものの、それは眩しい光に淘汰されるかのように薄れていく。


 我知らず眉間を寄せたヴィクトルは、何かを堪えるようにして重ねた自らの両手にぎゅっと力を込めた。





 女子修道院までの最終日を前に、夜は本降りになった。

 ザーザーと割と激しい雨音が窓の外から聞こえてくる。雨滴が強めに屋根から雨どいから地面からを叩いているせいだ。

 消灯されて薄暗いホテルの部屋、ぬくぬくとしたベッドの中で私はぼんやりと壁との境目にだけモールディングの施された天井を眺めていた。


「……ミステリーとかホラーだと、よくこんな大雨の夜に殺人が起きるのよね」


 小さく独り言を口にすれば、隣のベッドから「お嬢様ぁ、眠れないのですかぁ?」と怪しい呂律で眠そうな声が聞こえてきた。ジャンヌも辛うじてまだ起きていたらしい。


「どこか具合でもぉ……?」

「ああごめん。そうじゃないから安心して。疲れてるだろうしもう休んで大丈夫だから。私だって寝るし。お休みジャンヌ」

「はいぃ、お休みなさいぃ……」


 何となく少し様子見に耳を欹てていれば、健やかな寝息が聞こえ始めた。

 心なしホッとして息を吐く。さてとー、私も寝ようっと。

 シンプルに無地の天井を正面に見上げるとゆっくりと瞼を下ろした。


「――ノア、ノア、起きなさーい」


 ん……?


「ノア、お友達が来てるわよー」


 ああ、この声はママか。

 じゃあ私今自宅にいるの? いつのまに戻ったんだっけ?

 あ、もしかして今までのお嬢様妊婦だったあれこれは全部夢ってオチ?


「はいはーい、今行くってー」


 不思議とフワフワした心地のまま寝慣れたベッドから起きた。

 にしても今何時? 誰とも遊ぶ約束なんてしてなかったけど。

 本棚の電子時計に目をやる。


「日曜の朝九時? あれ? 昼寝の後じゃない? え、じゃあ何、昼寝したのも実は夢だったり? きっとそうよ。日曜朝なら、こんな時間に誰よ、私のゴールデン惰眠タイムを返せー!」


 ってか友達ってマジに誰? ミホかサラか、それとも腐れ縁のユウイチロウ辺り?

 だらしなくウエストを掻きながらTシャツにジャージの部屋着のままふらふらとした足取りで部屋を出て、玄関に向かった。

 そこにはちょっと懐かしく思ってしまったママが呆れた顔で待っていて、玄関先のママの後ろに重なるようにして私を訪ねてきた友人の誰かが佇んでいる。玄関には一段段差があるからちょうど上手い具合にママの陰に姿が隠れていた。


「ごめん今まで爆睡してた~」


 まだ眠い目を擦って体をずらしママの向こうの相手を見やる。

 一瞬にして全ての眠気が吹き飛んだ。


「な……んで……? あなたが……?」


 最早ママの存在なんて忘れ去り、視界からも霧になってすっかり消えている。その不自然さに気付きもしない私はひたすら驚愕の目でそこに立つ見知った相手を見つめる。見つめ続ける。


「ど、どうしてこの世界にいるのよ、――ヴィクトル・ダルシアク!」


 何をどう考えてもおかしいでしょ。だって私の目の前にはまさに銀髪に赤眼の怖い美青年皇帝様がいる。

 異世界の住人たる彼が。

 何の冗談よ? しかも私の家を訪ねて来るなんておかしいでしょ。仮にこの男が世界の境界を超えたとしても、もう見た目がアデライドじゃない私が関係者だって気付くわけがない。


「アデライド、いや、ノアと呼ぼうか」


 ヴィクトルの険呑な低い声に絶句する。

 この言い様だとしっかりとバレている。

 どうして? まさか天使の仕業? あいつが実は可愛いアデライドの中身はただのおっさん……じゃなくて女子大生だってバラしたの?


 一人混乱していると、暗い目をしたヴィクトルが一歩足を踏み出した。


 溢れんばかりの黒い殺気に圧され私はその分下がる。いや、続けてもっと何歩も下がった。

 ヴィクトルは土足で玄関を上がってくる。

 そういえば彼の出で立ちは向こうでと同じ煌びやかな皇帝服だ。日本じゃコスプレに該当するし、そのまま道を歩いてたら大注目だろう。むしろ彼の麗しい容姿と相まって道行く女性たちの視線をごっそり奪うんじゃないの……ってううんそんな事は今はどうでもいい。


 彼が剣帯に挿してある腰の剣をスラリと抜いてその鋭い切っ先を真っ直ぐこっちに定める。


「な、何するつもり……?」

「貴様、よくも騙したな」

「……ッ、それはっ、悪かったわよ。てて天使に押し付けられたからで、しっ仕方がなかったんだし! 私の本意じゃない!」

「ならどうしてもっと早く正直に告白しなかった? 貴様は私を面白おかしく眺めていたのではないのか? 裏切りも同然だ。皇帝を欺くなど死罪に値する」

「ひっ」


 咽元に突き付けられた切っ先が僅かに皮膚に食い込んだ。


「ほっ本当に私の意思じゃないの! 違うの! あなたを裏切るなんて元より思ってない!」

「――妊娠を隠して逃げたくせに?」


 ザッと血の気が引いた。

 それも知ってるんだ。


「れっ冷静に話し合いましょ、あの時は私たちの子供が大事だって思ったの!」

「私たち、だと? 貴様は本物のアデライドではないというのに?」

「それはッ……」


 そうだわ、そうよ、本物のアデライドは?


 お腹の子はどうなったわけ?


 私が私として元の世界に戻って来たんなら、彼女の体は? 魂は見つかったの?

 ヴィクトルから壁際まで追い詰められてドクドクドクと苦しいくらいに心臓が胸を叩く。口の中が渇いて何度か苦労して唾を飲み込んだ。


「ね、ねえ、お腹の子は……?」


 銀色の残像と共にヴィクトルの細められた赤い目が底光りした。


「貴様のせいで――――」


 その後は聞けなかった。


 銀の残像は私の頭と胴を一刀両断する彼の剣の軌道だったから。


 いやあああっ嘘よねっ? ここは日本で銃刀法違反でママだっているはずで……。

 視界の端に、噴き出す鮮血が見えた。





「――――ッ――ッ、――ッハ、ッハ、ッハ、ハアッ、ハアッ、ハアッ……ッ」


 涙と共にバチッと瞬間的に開けた両の目が、見慣れないシンプルな天井を捉えた。

 一瞬ここがどこかわからなかった。

 荒い呼吸はまだ止まらない。


 無意識に首を押さえた私は、頭と胴が繋がっているのを認識して少し落ち着きを取り戻す。


 周囲をゆっくりと探れば昨晩ジャンヌと泊まった宿の部屋だと思い出した。

 寝汗で額に前髪が張り付いて、寝間着もぐっしょりと湿っていて気持ち悪い。一秒でも早く着替えたい。そう思ってベッドから身を起こすと部屋の隅に置かれている着替えの入った革製のトランク鞄の傍にへたり込む。すっかり精神的に参っていた。

 疲れた目で窓の外に目を向けると、まだ薄暗い空は雨のせいだけじゃなく朝までには少し早い時分なんだろう。音からすると雨足はすっかり弱まっていてしとしと雨になっている。

 ジャンヌは気を張っていた疲労からか熟睡していて起きそうにない。起こしたくない。悲鳴を上げたりしなくて良かった……。

 四角い鞄から静かにいそいそと着替えを引っ張り出して汗に塗れた服を取り替えたけど、もう眠れそうになかった。どうせ朝まではもう少しだけだからこのまま起きていよう。


「はあ……何て夢……」


 自分が殺される夢なんて初めて見た。私の潜在的な恐怖が見せたのかもしれない。

 だってだってヴィクトル・ダルシアクってめちゃ怖い!


 この先、あの恐怖の大王にだけはこっちの秘密を絶対に知られないように気を引き締めてかからないと…………ううん、違うのかも。


 そうじゃなくて、正直に話さなかったから、夢の中のあの人は怒って……傷付いていたんだろうか。


 しかも、子供はって問い掛けたら彼は……。


 ――貴様のせいで。


 私は両手を腹に添えた。


「絶対絶対無事に産んであげるからね」


 朝にも満たない部屋の中、小さな小さな私の宣誓は誰に聞かれるともなかったけど、まあ聞かれても困るけど、母は強しって言うように確かに私の心には昨日までよりずっと強い覚悟ができていた。


 はいっ、そんなわけで心機一転の行程最終日。


 どんよりした雲の下、小雨に降られておりますねー。


「お嬢様、少しお眠りになっても大丈夫ですよ。これを枕にどうぞ」


 はっきりしない天気も手伝ってかさっきから欠伸あくびが止まらない私は、馬車の中で心配そうなジャンヌから彼女の座席のクッションを差し出されていた。

 ナイトメアのせいで余りよく眠れていなかったのは事実だけど、そこまでしてもらう程じゃない。

 馬車は帝都郊外を走ってしばらく経つけど、ガタ付きは帝都の街中と然程変わりない。ほとんど揺れないの。この国は土木作業や石工の腕が良いのか馬車道は平らで滑らかで快適なのよね。

 この帝都郊外は勿論皇帝様の管轄地。その地域の資金が不足していると道路整備は勿論、様々な公共サービスの質が低下するのが一般的で、そう言う面がその地の財政の判断材料の一つにもなる。

 良かった。道路維持に潤沢な資金投入ができる程に帝国の懐事情は温かいんだわ。

 人々から恐れられている殺人皇帝だけど、使うべき所にはしっかり資金を使ってくれているようで少し見直した。


 こんな風に皇帝も貴族も領地内には責任と権利がある。


 だけど例外があって、代々の教皇に継がれている教会建物や敷地、薬草畑なんかは治外法権で貴族だろうと皇帝だろうと勝手に攻め入ったり打ち壊したり、または中の人間を拘束する事はできない。


 昔から定着した地位と言うか立場と言うか、教会は帝国からは独立した組織になってるみたい。


 教会は帝国を天の聖なる力で守護していると言われていて、皇帝一族は教会の祈りのおかげで天に加護され国を治められていると信じられている。総じて信心深い帝国民からは貴賤を問わず絶大な支持があり、それ故に歴代の皇帝たちも統治に邪魔でも下手に手を出せずにいたようね。


 私の向かう女子修道院も教会管轄下のものだからこそ、匿ってもらうには絶好の場所なのよね。


 馬車は森を抜けた辺りで、車窓外の景色にはちらほらと建物が増え始めている。そろそろ目的地のある隣街に入るんだろう。もしかすると既に入っているのかも。

 小雨だからか、雨避けに帽子やローブを被った農民たちが元気そうに家の前の畑を手入れしている。日本の農村部にも通じる長閑さに和んだ。


「ねえジャンヌ、このまま真っ直ぐ修道院に入る予定だったけど、その前に途中のどこかで一旦休憩にしない? 良さそうな場所エドたち知らないかなー」

「わかりました。それでは隊長さんと相談してみます」


 ジャンヌが馬車の前方に付いている小さな連絡用窓から御者へと停車を促した。御者が手綱を引いてゆっくりと停車させると傘と地図を手に馬車から下りた彼女はエドたち護衛騎士と休憩場所の算段を付け始めた。因みに今のエドは陽気な方ね。


「お嬢様、修道院近くの公園なんてどうでしょう? 隊長さんたちの話だと街中なので周囲には飲食店もあるようですよ」


 欠伸をかみ殺して待っていると、戻ってきたジャンヌからそうお伺いを立てられた。


「公園かあ。そこって芝生もあるかしら?」

「あると思います」

「じゃあ何か買ってピクニックしない?」

「ええと雨ですけれど……?」

「あ、そうだった。うーんじゃあ傘差して少し散歩したいかも」


 手に持って食べられるのを買って食べ歩きなんてしたら駄目かな?

 いや、ここはやったもん勝ちって事でそうしよう。咎める相手なんてジャンヌくらいだろうし彼女は私に甘いから大目に見てくれるはず。

 だってきっと女子修道院って基本的に時間ごと規則正しく生活しましょうって感じよね。賄賂を渡して悪徳シスターを頼るかはともかく、入ったら帰る日まであんまり自由に動けないだろうからエンジョイしておきたいわ。

 自由がないってのは、ヴィクトルが長期滞在って知ったら連れ戻そうとするかもしれないし、お腹が出てきたら余計な人間にその姿を見られるのはまずいから、国の法で皇帝でさえ境界を侵せない女子修道院の敷地からは一歩たりとも外に出ないつもりだからよ。むしろ自分の部屋からも極力出ないようにするかもね。


「それでよろしいのでしたらそうしましょう。隊長さんたちにそのように伝えて参りますね」

「うん、よろしくね」


 そうして再び動き出した馬車は女子修道院目前の公園横で停まったのだった。





「陛下、急ぎお耳に入れておきたい事がございます」


 所変わって皇帝の執務室。

 ヴィクトル・ダルシアクは配下からの報告に眉をひそめた。


「ロジェ家の屋敷医が荷物を纏めて姿を消した……?」


 一体全体何のために。そしてどこに向かったのか。

 慌てていたというが、あのムンムとか言う老医者が無理をしてロジェ家の屋敷を出て行く必要はないはずで、何か危急の要件があるのだろうかと、彼は鋭利な流し目で思案する。


「どこに向かったのかはわかっているのか?」

「はい、それがどうも……」


 アデライドが向かったのと同じ方向に向かったと、その配下ははっきりとそう告げた。





 私の我が儘で公園横に停車したのは三時のおやつ時のちょい手前。ああ、今日が晴れじゃなかったのが恨めしい。


「は~。シート敷いてサンドイッチでも食べてのんびり寝転んで青空を眺めたかった」


 馬車を降りた私はジャンヌが差し出してくれている傘の下、青々とした芝がしっとりとしている様を実に残念な目で眺めた。


「お嬢様、どうしてもピクニックをしたくなられた時は是非このジャンヌをお呼び下さいね。いつでもどこにいても駆け付けますので。その際は便宜を図ってくれるシスターに少し多めに渡しておいて下さい。ふふふきっと張り切ってお嬢様が無事にこっそり抜け出して戻るための手筈を整えてくれるでしょう」

「…………ああ、うん」


 自身の馬の手綱を引くエドたちがそこそこ近くにいたからか、声を小さくして耳元に顔を寄せてきた侍女が大真面目な面持ちで不良令嬢へのいざないをくれる。悪徳シスターの存在を忌避する様子もなく、むしろ利用できるものは利用するってスタンスだ。

 私が知らないだけでジャンヌは案外狡猾……こほん、世渡りに長けているのかもしれない。頭が回って仕える主人への思いやりもあるだなんて、私きっと生涯彼女を侍女として傍に置くわ。無論彼女に相応しい男が現れたら全力でサポートだってする。結婚後も通いで良いから侍女のままでいてもらって、産休だって取ってもらって構わない。

 お腹の子とジャンヌの子が幼馴染になって無邪気に屋敷の庭を駆け回る幸福な光景が目に浮かんだ。

 それを見守る私とジャンヌと、何故かもう一人横に銀髪赤眼の怖いお兄さん。絶対的に良くないーっ。嗚呼私の想像力……ッ!


「ええと、お嬢様? 私の顔に何か付いています?」

「え? ううん何も。それにしても散歩するって言ったけど想像以上に広いのねここ」

「そうですね。策も塀もゲートもなく階級で入場を制限されている様子もありません。見た感じ帝都にあるパーク並みにきれいに整備の手が行き届いているようですね」


 帝都にも幾つか大規模な公園があるけど、その中でもシンプルにパークと呼ばれる公園は上流階級限定の公園だ。昔から皇帝一族だって時に利用してきた由緒正しき公園だから専属の庭師がいて手入れはしっかりなされている。アデライドの記憶にもあるし実際ジャンヌと一度行ったから素敵な公園だわって頷ける。現皇帝になってからはそれまで以上に手入れも入念だろう。庭師たちだって手抜かりがあったとして枝の剪定より先に自分の首をちょん切られたくはないはずだもの。

 まああのヴィクトルが癒し目的でパークをゆったり散策するような性格かって訊かれると返答に困るけど。あの長い足で優雅に微笑んで散歩なんぞしてた日にゃ、絶対に彼にも別人の魂が入ってるって断言するわ。


「帝都がそうじゃないってわけじゃないけど、この街が庶民の憩いを大切にしている証拠かもね。さすがはワケありだって受け入れてくれる寛容な女子修道院の街だわ」


 ジャンヌは苦笑した。たぶん寛容とは言えないだろう院内でのお堅い生活を思ったのかもしれない。


「ところで、雨ってのもあるんだろうけど、あんまり人いないわよね」


 この公園だけじゃなく、馬車から見ていても通りの人影は疎らだった。初めて来た土地だしこれが元々なのか天気のせいなのかはわからない。


 公園の広い芝の向こうには女子修道院の影が見える。


 ひゃっほう~、気が早いけどこれで祈られるヴィクトルじゃなく私の安寧が保証されたも同然よ~!


「そうだ、近くの店で何か食べ物買わない? ちょっと小腹が空いたのよね。できれば手に持って食べれるやつ」


 ジャンヌを初めエドたちもそこそこ空腹だったのか異論は出なかった。


「それではお嬢様、すぐに何か買って参りますので少々お待ち下さいね。お嬢様を宜しくお願いします」


 雨だし店はたまたま通りの向こう側だったからか、ジャンヌが私の傘を相変わらずの銀甲冑騎士に預けた。エドは陽気に承諾を返す。まああまり大きな店でもなさげだし、全員でぞろぞろ行くのも嫌がられると思ったのかもしれない。

 因みに道中も今も馬に乗る騎士たちは傘じゃなく三人共雨に濡れないよう、濡れても最小限になるように雨避けのフードローブを羽織っている。さすがに馬上だと危ないからよね。自転車の傘差し運転が駄目なのと一緒。因みにエドは銀甲冑の上にだから特注サイズのローブ。御者もローブ。


「待って下さいジャンヌ嬢。僕も一緒に行きますよ」


 三人の騎士の中でも物腰柔らかで親切な性格のフィリップが荷物持ちに立候補してジャンヌの後ろを追いかけた。あらあらあら~? ロマンスの予感~?

 私の傘と手綱を両手にする横のエドへと、私は何気なく視線を向ける。

 エドは何故か通りの左右へとどこか思わしげな動作で首を巡らせていた。


「何か探してる店でもあるの?」

「ああいえ、静かだなと」

「厳かな修道院の街だからじゃない?」

「ははは厳かなのはあの高い塀の中だけだと思いますよ」


 高い塀の中とは言うまでもなく女子修道院だ。訊けばぐるりと高塀で敷地を囲んであるんだって。

 敷地内にはシスターたちや滞在者用の寄宿舎の他、礼拝堂や食堂、墓地や聖堂、菜園や薬草園なんかの栽培区画もあるらしい。


「ところで、某一つ気になるんですが、何故か先程からやたら睨まれるんですよ」

「睨まれる? 誰に?」

「見知らぬ通行人にです」


 エドが声を小さくしたのはまだその通行人が通りを歩いているからかもしれない。彼の視線を追うと、大きな荷物と傘を手にした通行人の男性がちょうどこっちを睨むようにちらりと振り返ったところだった。あ、人相悪い……なーんて言ったら駄目か。生き様は顔に出るとも言うけど、見た目によらず心は清い人かもしれないんだしね。

 でも私たちは何もしてないわよね。うーん、一応ここは修道院の街だし帝国騎士を快く思わない教会寄りの人間が多いのかしら。振り返ってまでこっちを睨む意図はそれくらいしか思い付かない。

 他にも意識して観察していると、露骨に顔をしかめる人やこっちを胡散臭そうに横目に眺めながら通り過ぎていく人がいた。まあ銀甲冑は目立つしねー。


「……案外脛に傷を持つ人が多いのかも。過去に騎士に捕まったとか揉めたとかして。ほらここは悔い改める場所たる修道院があるから、そのために来てて、でもエドを見て染み付いた習慣で警戒しちゃったのよきっと」

「ははっ、なるほど」


 エドは本気で得心したのかはわからないけどそんな感じでしばらく人間観察を続けていると、買い出しにでも来ていたのかやけに荷物が多い人ばかりだった。

 街を挙げてのイベントがあるのかもなんて考えていたらジャンヌたちが戻ってきた。


「申し訳ございません、全て売り切れでした……」


 手ぶらだったからそうだろうとは思った。まあね、もう午後も半分過ぎたようなものだもの、お店によってはほとんどのその日の品が売れていても不思議じゃない。飲食物を売るお店なんて特に。夕方には棚がガラガラなんてお店は帝都でも珍しくなかった。

 私のリクエストに応えられず悄然としていたジャンヌは、急に決然として顔を上げた。


「別のお店に行って参ります!」

「えっそこまでしなくていいわよ!」

「いいえ、多少の距離は厭いません。どうか馬車でお待ち下さい!」

「あっ、ちょっとジャンヌ!」


 使命感に燃えるジャンヌは制止も聞かず踵を返す。考えてみればつわりの心配もなくはなかったしそこまでおやつにはこだわってなかった。彼女を止めに足を踏み出そうとした矢先。


「ジャンヌ嬢、あの店の店員が言ってましたけど、この近所じゃ他の店舗もどうやら似たような売り切れ具合だそうですよ」


 フィリップだ。ジャンヌは残念そうな面持ちで肩越しに振り返る。


「そうですか。店員さんと何か話していたとは思いましたけど、わざわざ状況を調べて下さっていたのですね。ありがとうございます」

「どうも最近は来店客が増えて食料がよく売れるようで、地元の人間でも時間が遅いと欲しい品が買えないようなんです」

「それでなかったのですね」

「そのようです」


 彼の話に私とエドは顔を見合わせる。信じてないとかじゃなく、何だかこの街の現状に不安を覚えたからだ。

 食料品の需要と供給が釣り合っていないのは短期的には影響は少なくても長期的になれば問題になってくる。

 ぶっちゃけ、私の滞在に悪影響が出たらすごく嫌だわ。


「ジャンヌ、おやつはなくたって構わないから散歩しましょ散歩。メインはそっちだし」

「は、はいっ、お嬢様!」


 私は、何としてでも探し出すって顔をしそうな私の侍女に予め釘を刺した。フィリップも心無しホッとしたようね。彼はジャンヌって人間を早くも理解しているんだわ。


「……この街は何かおかしい気がしますね」


 懸念の波紋を起こすようにポツリと言ったエドには同意見だわ。


「なーんて言ってもたまたま、一時的に滞在している旅行者が多いだけかもしれません。今度は某が御者と行って少し調べてみますんで、とりあえず馬車の中で待っていてもらえます?」


 返答も待たずにエドは傘をジャンヌに戻すと部下二人を残し、御者を連れて周辺の商店を探りに行ってしまった。まあ全員で取りかかる事もないだろうし護衛に腕利き二人を残すって人選は妥当かもしれない。

 聞き込みなら御者にだってできるし、逆に御者じゃ護衛は務まらないもの。


 街の現状を調べる必要はないようである。


 もしもエドの懸念したように何か異常が起きているなら女子修道院にも関わってくるに違いなく、知らないまま入るのは得策じゃない。ひもじい修道院生活なんて御免だわ。

 果たしてどうなるにしろ、私はしっとり濡れた緑の広い芝を眺めた。


「ねえ、公園を散歩しててもいいかしら。通りから見えない遠くまでは行かないようにするし、ジャンヌは馬車で待ってていいから、ね?」

「そんなわけには参りません。行けるところまでお嬢様とご一緒致します!」


 乗車をやんわりと断った私にジャンヌが強情な顔を向けてくる。修道院入りしちゃえばしばらく彼女とも会えなくなる。荷物搬入の手伝いをしてくれるって言っても馬車一台に積んできただけしかないから今日中に片付く。

 一泊はするにしても、しばしの別れまでせめて一緒に過ごしたいって思ってくれてるんだろう。フィリップは私を見てどことなーく羨ましそうにした。


「じゃあ一緒に歩こっか。傘は自分で差すわ。あなたも自分の傘持ってね」

「わかりました」


 歩き出した私のやや後ろをジャンヌが嬉しそうに付いてくる。護衛たちは散歩の邪魔にならないようにって気を遣ったのか、私たちからは離れて周囲に目を配りつつ付いて来ている。彼らの馬は馬車の近くに繋いできたみたい。

 雨で湿った空気は独特で、公園だからより植物や土のにおいが濃い。

 公園内は芝一択ってわけじゃなく、遊歩道や花壇もあるし低木や高木も植えられている。

 遊歩道脇の茂みも一見自生したもののようでいて、実際は選んで植えられたものだろう。適度に刈り込まれていて背丈も私の胸くらいまでだし、今は可愛らしい白い小花を咲かせている。

 茂みの前の地面には所々に小さな立札があって名称が彫られていた。


 その聞き慣れない植物名を何の気なしに眺めていると、立札の背後の茂みに違和感を覚えた。


 目を凝らせば尚更に何かが茂みの向こうにあるような気がする。私はほんの単なる好奇心でひょいっと向こうを覗き込んだ。


「な……!?」


 何とそこには泥に汚れた五歳六歳くらいの小さな男の子が倒れていた。


 思わず物怖じしたように立ち竦んじゃったわよ。だってこんな目に付きにくい場所に倒れてるなんて、サスペンスの臭いしかしないでしょ。


「あああ雨の日にこここんなとこで昼寝なんてしないだろうしっ」

「お嬢様、どうかされまし――」


 ジャンヌも驚いて固まった。


「どどどうしよジャンヌ、私ってば第一発見者!?」


 葬儀場で以外、死体なんて初めて見る私の心臓がきゅうっと縮み上がる。息継ぎも忘れて突っ立って、ようやく微かな変化に気付いた。


 倒れている子供の胸が微かに上下している。


「あ……良かった生きてる!」


 でも顔色は蒼白。


「って、良かったなんて安堵してる場合じゃないわね、助けないと!」


 少し離れた茂みの切れ間から回り込むなんて悠長をせず、近い場所で枝葉の薄そうな部分を無理やり押し分けて踏み付けて通り抜けた私は、倒れる子供へと手を伸ばした。


 刹那、何者かに手首を掴まれた。


「ひいっ銀色……ってエドか。びっくりしたあ。ホントお宅ってばたまに神出鬼没よね! 聞き込みはもういいの?」


 テレポートは便利だけど、全く時々心臓に悪いったらない。

 私は掴まれている腕を引いて再び子供へと手を伸ばす。

 すると今度は一センチくらい先のまさに眼前にエドの魔法文字が浮かんだ。いや近過ぎてピントが合わないから!


 文句を堪えて呼んだ文字列には目を疑う文言があった。


 ――その子供に触れるな。


「何言ってるの。助けないと駄目でしょ、雨で全身ずぶ濡れだしこれ以上放置してたら大変な事になるって。早くどこか病院に運ばないと」


 ――必要ない。


「……はい?」


 耳を疑った。ここは帝都じゃないし帝都の騎士としての担当区外だから? だからこんな台詞が出てくるの?

 とは言え現在は私の護衛任務に従事していてそれ以外の物事に関与する筋合いのない彼を私が責める道理も無い。


 エドが動かないならそれはそれで仕方がない。


 でも、だとしても、私は捨て置けない。


 再度動こうとすれば甲冑の腕を横に広げて通せんぼされた。


 ――必要ないと言ったはずだ。


「絶対必要ある! 医者に連れてくなら一秒だって早い方が良いし!」


 苛立ちまぎれに無機質な銀兜を睨み返して無理やり腕を押し退けて子供へと近付いた。


 ――やめろ。汚れる。


 ……何ですって?

 脳内でブチッと何かが切れた。


「汚れないわよっ! 一ミリたりともねっ! ……あなたを見損なったわ!」


 確かにこの子は泥に汚れていてお世辞にも綺麗とは言えない。でも騎士ともあろう者が具合の悪い小さな子供を汚れているから見下げるなんて最低よ。帝都の貧民の少年の面倒を見てたのもホントは仕事だからって仕方なく嫌々やってたの?

 もう彼の方を見ずに憤慨も露わに傘を放り投げるようにして手を伸ばした。


 けど指の先が子供に触れようかって所で子供が動いた。


「なん……?」


 いや、動かされたって言った方が正しい。


 見れば、エドがその子を腕に抱えていた。


「エド……あなた……」


 ――泥塗れになるのはこちらの仕事だ。


 戸惑う私へエドはそんな魔法文字を綴りつつ、同時に私が手放した傘を魔法で浮かせると手の中にストンと戻してくれた。凄い、エドは同時に二つの魔法を使える才能の持ち主なのね。


 ――子供はこちらに任せて、そっちは手のケアをしろ。


「ケア? ――ああ、枝で引っ掻いてたんだ。全然気付かなかった……」


 自分の手の甲に小さく滲む赤に、ようやく痛みを感じた。


「それに、何だ……必要ないってそういう意味……」


 言葉が足りないのよ。


 勘違いして罵倒までしちゃったじゃない……。


「ええとあの、誤解して酷い事言ってごめんね。ホントごめんなさい。私って結構短気な性格で……」


 ――気にしていない。


「そっ……」


 そんなわけない。誤解だろうと何だろうと理不尽な非難や棘のある言葉は、たとえ一言だったとしても人を傷付けるはずだから。これはエドの思いやりだ。

 感動して、自然と不格好な笑みが零れる。


「……ありがと。エドって面白いし優しい男よね。結構モテるでしょ。何しろ――イケメンだし」


 ――……エドゥアール・ギュイ。


「ん? 自分の名前がどうかしたの?」


 しかも何だかちょっと魔法文字が怒気に震えるように乱れてたけど、気のせい?


「エドの銀の甲冑って本当に最高の甲冑だって思う。世界の甲冑の中の甲冑って言ってもいいくらいにかっちょいいわよね、うんうん」


 今の、弱った子供を躊躇なく抱き上げた様は正義のヒーローみたいで正直すごくカッコ良かった。まあタイプじゃないけど。


 ただ、こっちの予想に反してエドはしばし無言になった。てっきり喜ぶかと思ったんだけど、顔の見えない兜越しでさえ困惑の気配が濃厚だったのは何でかしら。

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