第2話

 自分がまた動かした記憶はない。なのに、こうして明らかに動いている。それも地震とかで少し位置がずれた、なんて程度じゃない。ある程度重量があってしっかり立っている物が、自分でくるっと周るなんてありえないから、どう考えても、俺が自分でそれを動かして、そのことを忘れたのだ。


 無意味な動作を繰り返すようなことはあっても、自分が知らないあいだに何かをやってしまう、という類の症状は初めてだったので、困惑した。寝る前に見たときは確実に後ろを向いていたから、おそらく夜中か明け方にこうなったのだ。眠りながら起き上がってこうしたのなら、夢遊病かもしれない。もしそうなら、ここしばらく行っていないが、また神経科の先生に相談したほうがいいだろう。


 だが、たんにやったことをうっかり忘れるくらいは誰でもするから、何度かやって確かめる必要がある。俺は出かける前に、また人形を後ろに向けておいた。その状態は、うちに帰って夜寝る前まで変わらなかった。


 だが翌朝、また俺はタンスを見て失望することになった。奴の向きは再び真逆になり、俺を見て薄ら笑いを浮かべて立っている。前述のように、こいつのことは嫌いになっていたから、顔を見たくなくて後ろを向かせたのに、こうも逆らわれると腹すら立ってくる。もちろん、こいつにではなく、また発作がぶり返した自分に、である。

 こんなんで新しい仕事が勤まるんだろうか。もう面接は済ませ、初勤務まで日を数えるばかりなのだ。

 こうしちゃいられない。




 俺は先生に電話して予約すると、午後に病院へ向かった。うちのアパートから一駅である。神経科の鎌田先生は、以前お世話になったときと変わらず、診察室に入った俺を見ると、目をほそめてにこやかに笑った。小柄でちょっと禿げかかった頭の、ふくよかな頬をした恵比寿っぽい顔の先生で、表情も話し方も優しく、会えばいつもこっちの切羽詰った気持ちを和らげてくれる。


 白衣の先生は、向かいのソファに座る俺の話を聞くと、小さい目をちょいしばたたかせて言った。

「平岩さん、今のお話ですと、やはり夢遊病の可能性が高いですね。今までにそういった症状が全くなかったとしても、新たに発生することはあります。なにか、きっかけのようなものは、ありますか?」

 俺が、たぶん人形の存在に気づいてからだと言うと、彼はうなずいた。


「おそらく、お母さんに対する相反する気持ちの表れが、そういった、いっけん矛盾する行動を呼び起こしたのでしょう。嫌い、拒否する気持ちと、反対に求める気持ちですね。意識の上では嫌っているから人形に後ろを向かせるのですが、無意識では愛情を求めているので、眠っているうちに体が起きて、向きをこっちに戻してしまう。人形はお母さんの形見のようなものですから、心の深層で、その二つを同一視したのです。


 今はこれだけで済んでいますが、このまま放っておくのは先々良くありません。やはり、早く売るなりして人形を手放すのがいいでしょう」

 そのあと先生に「自分で出来ますか」と聞かれ、出来ますと答えたものの、不安はあった。先生は、「うちにあるのが不安でしたら、なんなら今日中にでも病院に持ってきてくれれば、私が預かりましょう」とまで言ってくれたが、さすがにそこまで甘えられなかった。



 帰ると、人形をケースごと押入れにしまった。両手で持っていくとき、熱くなっている気がしてぎょっとしたが、体温などあるはずもない。こいつが怒ってカッカしていると、俺がどこかで思っているから、そうなるんだろう。そうだ、母親もすぐキレる奴だった。みんなあいつが悪い。

 とっとかないで、いっそこのままゴミ捨て場に直行でいいんじゃないかと思ったが、すぐ考え直した。どうせどこに捨てても、俺が自分で知らないうちに取ってきて、またあのタンスの上にしれっと飾るだけだ。今しまった押入れも、どうせ今夜眠っているうちに俺が起き上がって、あけるに決まってる。そして、元の木阿弥だ。まぁこの場合は京人形で、見た目いいところのお嬢だから、木阿弥よりは各が上かもしれんが……。


 目が何かにらんでいるようで嫌なので、しまって襖を閉めるまでずっと背中だけを見ていた。だが、そこからすら、なにか暗い恨みのようなオーラを感じてしまい、いたたまれなかった。

(なんで死んでくれないんだ)

(もう、とっくに終わったはずだろう……)

 もういないはずなのに、こうして物に変わってしつこく俺の前に存在し続ける、その執念深さに、俺は奴がいかに自分の中に腫瘍のように残り続けているかを知った。




 翌朝、嫌な夢にうなされて目が覚めた。外は嵐だった。台風が通過することをすっかり忘れていた。風がうなり、戸板をバンバン打ちつけるやかましい音で、俺は寝覚めの悪さもあって一気に不快になった。

 見たくもないが、タンスを見あげた。もちろん、奴はいた。アパートを取り囲んでヒューヒューうなる風が、周りから俺をあざけっているようだ。


 俺は突如、頭にカッと血が昇った。たちまち両手でガラスケースをつかんで大きく振り上げ、そのまま畳に思いっ切り叩きつけた。


 ガキャン!


 鈍い悲鳴をあげて粉々になったケースから飛び出し、伏せった人形を、俺は上から力いっぱい踏みにじった。人形は首がねじれ、白い顔が生きているようにぐねりとこっちを見あげた。寄っているはずの目が、まっすぐに俺を見据えているように見えて、ぎょっとした。

 ますますムカつき、何度も何度も踏みつけて、ぐちゃぐちゃに潰した。そう硬くもなかったので簡単に壊れ、首と手足がちぎれて、五体がバラバラになった。



 気づくと、風音がやんだ沈黙の中、残骸と化した人形の黒っぽい塊がタンスの前に落ちていた。俺は息を切らせて布団のうえに立ったまま、それを見つめた。足元に細く赤い筋がある。ガラスで足を切ったことにようやく気づいた。

 ゴミ袋を持ってきて中に残骸を入れると、外のゴミ置き場に置いた。燃えるゴミは明日だが、ここは大家が高齢で適当だから、早く出しても大丈夫だ。



 戻って怪我の手当てを終えると、気が一気に楽になった。いつの間にか雨風はやみ、窓の外は絵の具でさっと塗ったような、穏やかなグレーだった。

 これで、とりあえずはいい。もう完全に壊してしまったし、いくら俺でも、あれを取ってきて、またタンスに乗せようとは――

「あっ」と固まった。


 まずい、やりかねない。いくらぐちゃぐちゃにしても、それをまた眠っているうちに持ってきたら、同じことだ。しかも顔は残っている。またあの顔を拝むことになるんじゃ、あれだけ丹念に壊した意味がまるでない。



 動揺で頭が完全にいかれた俺は、何を血迷ったか、ライターをポケットに入れて、再び外に出た。雨はまだ降っていない。ゴミ置き場には屋根と囲いがあり、台風でもゴミがそう飛んでいかないが、俺はさっきそこに置いたばかりの袋を持ち、近くの川原へ行った。

 アパートの向かいの砂利道の先に広い河があり、その左に数メートルほど行くと、橋が架かっている。台風だから外はどこも人がいないが、そう大きくない橋の上にも車がなく、その下にもむろん誰もいない。さっきまで荒れ狂っていたろう川面は、風でさざなみを打つ程度だ。


 橋げたの下の人目につかない場所に入ると、俺は袋から人形の残骸を出して路面に置き、ライターで火をつけた。周りでまた風雨が強まってきたが、ここは屋根もあるし、これを消すには至らない。

 人形の薄笑いは赤い炎にじりじりと飲まれてゆき、黒く焦げて消えていく。全てが灰になると、奴は吹き付ける風にぱあっと舞い、橋脚の壁のほうへ消えていった。ゴミ袋も思い切り放ると、俺はくるりと向きを変えて川原から出て行った。

 アパートに着くまで豪雨でぐしょぬれになったが、それはあまりに清々しいものだった。

(やった! これで完全に奴から解放された!)

 これでもう、あの女の痕跡は、うちに何一つないのだ!


 打ち付ける雨と風によろけながら、心は希望に満ちて高揚し、体は今にも踊りださんばかりにうきうきしていた。風呂の水を頭からまとめて食らったように、上から下まで水びっちゃになって部屋のドアをあけるとき、俺は声をあげて笑っていた。風呂が沸くのに時間がかかったが、その日は風邪も引かなかった。







「……平岩さん。

 平岩さん、ですね……?」


 電話の向こうで先生の声がする。いつもの優しく、ゆっくりした話し方だ。それでも俺はスマホを握ったまま押し黙っていた。

 なぜ俺と分かったかは、だいたい分かる。目下、一番せっぱつまった患者といえば、たぶん俺だからだ。むろん事実はそうではなく、かけた自分の番号と名前が向こうの画面に出るから分かっただけだ、とあとで気づいた。


「……平岩さん」

「……はい」


 やっと声が出て、俺は今すぐにでも診てもらいたいとすがるように頼んだ。病院で彼に会うや、俺は今までの経緯を一気にまくしたてた。最後に診察を受けた翌朝、ついかっとなり人形を壊して川原で焼いて灰にしたこと。その日いちにち、「これで万事、大丈夫だ」とすっかり安心して暮らし、翌朝起きてタンスの上を見るや、それがあることに気づいて、半狂乱になったこと。そして再び人形を畳に叩きつけ、ハンマーで顔も体も徹底的に粉砕し、出来た屑の山を持って橋へ行くと、上から川に全ての破片を投げ込んだこと。


 奴の破片は沈んでは浮かび、どこか遠くの地の果てへでも流れていくのを、確かに見送った。あれで、うちになど絶対に帰ってくるはずがない。

 だが確信はできなかった。心配で眠れないはずなのに、時計が夜中の二時を回るのを見たのを最後に意識がなくなり、朝起きて見回すと――


 あまりのことに、俺は立ったまま引きつった悲鳴をあげた。

 タンスの上、ガラスケースの中の人形が、俺を薄笑いで見つめていた。

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