鏡の中の珈琲

鹿角まつ(かづの まつ)

鏡の中の珈琲

  レンガづくりの小さな喫茶店にたどり着くと、店のドアを開けた。

 せめていつもの喫茶店で、1杯だけコーヒーを飲んで帰ろうと思って。


 学校からの帰り道、頭上の空は透き通った水色。

 俺の気分は重い鉛色。

 いかにも美大生です、といったふうに小脇に抱えているスケッチブックにはまだ何も描いていない。

(卒業制作のテーマが、何も浮かばないなんて…)

この気分のまま、自分の狭苦しいアパートの部屋に帰ると思うと、

憂うつで頭を抱えたくなった。

 猫背の情けない姿勢になっているのはわかっていたけれど、

川にそって延びる道を、とぼとぼと歩いていた。


学校から近いこの喫茶店は、いつ来ても少し頭頂部の禿げたマスターが独り、常に手を動かしている。

重いドアを押し開けると、上の方についているベルが懐かしい鈴音をたてた。


「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」

 マスターの声にも、俺はすぐに反応できなかった。

 あわてて、座りたい席の確保にかかる。

 小ぢんまりした店内は、珍しく客がいない。

 頭が、何かに抑えられているかのように重い。


 一番奥の、ソファ席に場所を陣取った。

 ゆるくジャズが流れている。

 少し照明を落としているぶん、壁の赤レンガが、

いっそう温かい赤銅色に見えた。

「メニューこちらになります」

 目線を落とした先、テーブルの隅にさっとメニューが差し出される。

 見るまでもなく答えた。

「あ、ブレンドのホットで…」

 マスターの顔というより、差し出されたメニューに目を落としたまま言った。

 実はこれしか頼んだことがない。

 理由は、これが一番安いから。

 かしこまりました、という声とほぼ同時に、

 メニューがスマートに下げられる。

 マスターの戻っていく足音を聞きつつ、気づいたらお冷やがテーブルにっていた。

 ジャズに混じって漠然と流れる、店内の様々な音。

 食器のぶつかる音、水を出す音、湯が沸く音、

カシャカシャっていうのはきっと、泡立て器の音だろうな。


 手持ちぶさたになって、わざとらしくスケッチブックを開いてみる。

 他人に見られたくはないので、

 自分の顔をすっぽり隠すように表紙を立てた。

 隣に客は、いないのだけれども。

 鉛筆の試し描きとして、様々な線が描きなぐられただけのページだった。


 腹に力が入らなくて、とうとうテーブルにあごをのせた。

 コーヒーまだかな…

 ふとカウンターの向こうを見ると、マスターがいなかった。

 トイレだろうか?


 それにしても、これからどうすれば…。

 相変わらず厨房から、絶え間なく音がする。

 それをBGMにしても、考えははかどらなかった。

 どんなモチーフも、アイデアも、いまいち。

 自分は何を描きたいんだろうか。

 なんで絵を描いていたんだろうか。

 何をモチベーションにここまで頑張ってきたんだろう。

 そろそろ自分と向き合う時が来たんだろうか…

 ……


 なんだ、この違和感は?


 マスターの彼がいないのに、厨房からの音が聞こえるからだ。


 いないのに、誰が音を立てている?

 ほら、カチャカチャ、コポコポ。

 あ、ザーッて、誰が水栓ひねった?


 それとも、奥のほうにでもいるのか?

 いや、待てよ。

 俺、ここに来てから、一回でもマスターの顔、見たっけ…?


 あれ?記憶にないかも。

 なんかずっと自分のことしか考えてなかったし、見てなくないか?


 なんか、胸がザワザワする…。


 でも、店に入った時は、いたよな?

 いらっしゃいませって、言われたものな。

 メニューもらった時だって、メニューこちらになりますって、

 そう言われたからこそブレンドを頼めたわけで。

 メニューが下げられた時だって、マスターの顔とか、後ろ姿とかを…

 

 見て、ない!


 背中に、鳥肌が立った。

 足元あしもとから恐怖が這いあがってくる。

 逃げようか。

 全身凍りついて、立つこともできない。

 動悸と一緒に冷たい汗が出てきた。

 大声で叫びそうになって、目をふさいだ。


 あれ?

 体から緊張が抜けていく。


 目を閉じると、何もかもがいつも通りだ。


 いつもの心地よいBGMと、厨房の物音。


 何かを開ける音、金属がぶつかり合う甲高い音、湯気が上がる音、

 蛇口から水を出す音、それを止める音…


 コーヒーのいい香りがしてきた。


 ホッとする…


「お待たせしました」


 はっとして目を開いた次の瞬間、

 目の前に湯気の立ったコーヒーが現れた。

 金縁がついた白いソーサーとコーヒーカップ、

 そこに入っている琥珀色の、湯気が立ったコーヒー。

 テーブルに置かれる際に、カップと添えられたスプーンが、

 ソーサーの上で触れ合ってチン、と音を立てる。

 顔を上げるとそこには…

 当然、いつもの少し頭の禿げたマスターの顔が、こちらを見下ろしている。


 ああ、いつもの風景だ…。

 彼の腕が伸びてきて、伝票をさり気なくテーブルの隅に置いた。


 コーヒーをひと口すする。

 あつい。いい香り…うまい。


 うん。きっと、さっきは夢でも見ていたんだろう。

 少し、うとうとしていたかもしれない。…いや、していたんだ。

 そうに決まってる。

 額が汗でびっしょりだけど、これも変な夢のせいだろう。


 ん?

 今、マスターが一瞬こちらを見たような気がした…。


                    

                         おわり




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鏡の中の珈琲 鹿角まつ(かづの まつ) @kakutouhu

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