第31話 あーあーあー!
「ふぉぉおぉ……!!」
部屋に案内されると同時、アーデルハイトは素早い動きで畳の上を駆け抜け、あっという間に外へと続く扉を開いていた。そうして部屋外のベランダ部分に作られた露天風呂を見た、その第一声が先のものである。アーデルハイトのあまりにも軽快なその身のこなしには、ここまで案内してくれた仲居も目を丸くしていた。
そんな仲居から諸々の説明を受けるのはいつものごとくクリスの役目だ。
彼女達が予約していた旅館は、全ての部屋に露天風呂が備え付けられている。部屋数は少なめで、総客室数は10部屋しかない。しかしその分一部屋毎の質は高く、少数精鋭とでもいうべきだろうか。アメニティも充実しており、各種洗面用具からドライヤーに浴衣、果てはバスローブまで完備されていた。
「あ゛ぁ~……こんなにゆっくりするのは久しぶりッスね……」
東海林のものが感染ったというわけでもあるまいに、
ページ数が少ないとはいえ、本を一から自作するのは想像以上に大変な事だ。仕事の合間を縫って少しずつ作業を進め、そうして専ら薄い本を作成して販売、或いは同好の士と自作の本を交換する。楽しくもあるが、それなりに忙しくしていたのだ。
これは勿論ただの趣味であり、彼女が好きでやっていることなのだから、それも仕方がないといえば仕方がないのだが、しかしこうしてのんびり旅行に来る時間など無かったのも事実だ。数年ぶりの小さな旅行に、
ちなみに彼女は普通のOLとして某企業で働いていたが、先日退職届を出している。もちろん配信業に専念するためではあるが、先の見えない計画に全ツッパするあたり、彼女の肝の据わり方も相当なものだ。なお現在は年休消化の真っ最中である。
そんな
「もう、オッサンみたいな声を出さないで下さいよ」
「お、話は終わったんスか?凛───クリスもお茶飲むッスか?」
「どうも。ところで、協会で話している時も気になったのですが、私を凛と呼ぶのは止めるのですか?」
そう、つい先程協会で話をしていたときにも気にはなっていたのだ。あの時も
「んー……まぁそうッスね。お嬢もクリス呼びだし、統一したほうがいいかなーって。本名はクリスなんスよね?だったら、そっちに合わせたほうが分かりやすいッスから」
「本名というか、愛称ですけどね」
「お嬢も何度か配信でクリス呼びしてるし、お嬢の従者ってことも浸透しつつあるッスからね。異世界からやってきた『アーデルハイト』の従者が『来栖凛』っていうのは、ちょっと違和感あるッス」
「そうかもしれませんね」
「おや?もしかしてもう凛と呼ばれることがないから、寂しいんスか?」
「まさか。私にとって『来栖凛』はただの偽名です。思い入れも何もありませんよ」
そう言ってゆっくりと湯呑に口を付けるクリス。
思い入れは何も無いと言う彼女だが、その表情は少し、ほんの少しだけ名残惜しそうだった。
クリスがこちらの世界に来てからこれまで、時間にすれば一年程というそれほど長くもない時間を共にしてきた『来栖凛』は、今ここで役目を終えた。
通訳の仕事では来栖凛と名乗っていたが、これは不定期に入る依頼をクリスが承諾する形での仕事であり、どちらかといえば派遣社員に近いだろうか。
勿論、この先で偽名を使う事があれば再び『来栖凛』を名乗ることにはなるだろうが、それでも積極的に名乗るような事はなくなる。
幼少の頃よりエスターライヒ公爵家に仕え、アーデルハイトと共に二十年近くを駆け抜けてきた、誇りある自分の名前だ。使えるべき主が再び戻ってきた以上、クリスティーナ・リンデマンに戻ることには何の躊躇もない。
ただ、この一年間を支えてくれた『
そんなクリスの心中を察してか、それとも気づいていないのか。
「ところで夕食はいつ頃になるんスかね?お腹すいたんスけど」
「ああ、一時間後にしてもらいましたよ。えっと……大体20時頃ですね」
「んげ、結構あるッスね」
「まず間違いなく、お嬢様がお風呂に突撃するでしょうから。というかホラ、既に」
そう言ってクリスが指差す方へと、
鍛えているからだろうか、スラリと引き締まった脚線美。であるというのに大きな尻や太腿など、あるべきところにはしっかりと柔らかさを残しているのが見ただけで理解る。剣士として数多の戦場を駆け抜けながらも、しかしその玉肌には傷の一つも見受けられない。
ぷるりとした二の腕は、一体どこにアレだけの筋力が眠っているのかと問い詰めたくなるほどに細く靭やかで。身じろぎする度に揺れる巨大な双丘、否、双山は言うに及ばず、その圧倒的な質量は、髪が邪魔をしなければ例え背後からでも、その存在が分かるほどだ。
「デッッッッッッッッッ!!」
「お嬢様は昔から入浴好きでしたからね。しかしあちらの世界には室内に小さな浴槽があるのみで、露天風呂などといったものはありませんでした。屋外かつあれほど広々とした浴槽です。お嬢様が飛びつかないはずもありません」
「エッッッッッッッッッ!!」
「……語彙力が下がりすぎでは?」
「いやいやいや、分かってたつもりだったッスけど、実際に見ると破壊力ヤバいッスよアレ!美人は3日で飽きるなんて言うッスけど、アレはずっと見てられるッス。あ……あーあーあー!揺れてる揺れてる!」
「概ね同意見です。夕食までは、アレで目の保養が出来ますよ」
「ビール!!……いや、日本酒ッスかね?お嬢見ながらちびちびやりたいッス」
クリスと
浴槽に入る前にまず身体と髪を洗うこと。
こちらの世界にやって来た初日、クリスから口を酸っぱくしてそう言われていたのだ。いつの間に用意したのか、小脇に抱えた風呂桶の中からタオルを取り出し、ボディソープを使ってしっかりと泡立ててゆく。全く関係はないが、アーデルハイトは左腕から身体を洗うタイプらしい。
「あ、ちゃんと身体から洗ってる。エロ────偉いッスねぇ」
「初日にしっかりと仕込みましたからね」
「犬の躾じゃないんスから……」
二人のアーデルハイト観察はこの後もしばらく続く。
彼女が湯船の中で恍惚とした表情を浮かべているところも含め、入浴シーンの一部始終を肴に酒ならぬお茶を愉しんでいた。この怪しげな鑑賞会は結局、夕食が運ばれてくるまでの間、小一時間ほども続いたという。
* * *
「とっても美味しかったですわ……こちらの世界の食べ物は恐ろしいですわね」
「私もこちらに来たばかりの頃は、口に入れるもの全てに驚いてましたよ」
「ここの料理が美味しかったのには同意ッスけど、逆に異世界がどれだけ食文化進んでないのか気になってきたッス」
三人が旅館の料理に舌鼓を打ち、仲居が食器を下げ、その後お茶を飲みながら食休みをしていた時。雑談もそこそこに、クリスへと断りを入れてから、
「じゃあクリス、ウチが先に行ってもいいッスか?」
「それは構いませんが、その前に少しお話があります。このままではお嬢様が寝てしまうので、先に済ませてしまいましょう」
「なっ!寝ませんわよ!!子供じゃあるまいし!」
「む……それはさっきの、怪しい企みについての話ッスか?」
「まぁ、そうですね」
クリスの用件とは、先程協会で一度問い詰めたものの、はぐらかされてしまった話の続きらしい。クリスの言葉に反論するアーデルハイトを無視し、
「あー……なんか今になって、聞かないほうが良い気がしてきたッス」
「別に怖い話ではありませんよ。協会で話さなかったのは、単に誰にも聞かれたくなかっただけですから」
「その導入が既に怖いんスよ」
語るクリスの声色は平静だが、しかし内容は少し不穏な気配。クリス本人にそのようなつもりは毛頭無かったが、少なくとも
「お嬢様」
「ええ」
「ミギーは配信を見ていたでしょうから知っていると思いますけど、今回わたくし達は
「『
「そう、それですわ。おじ様も言っていた『
「え……異世界にも『
「ええ。あちらの世界では『魔石』と呼ばれていましてよ」
「『魔石』ッスか……なんかよく聞くというか、ある意味こっちの世界でも聞き慣れた単語ではあるッスね。主に創作の中で、ッスけど」
「あら、そうですの?では話は早いですわね─────単刀直入に言いますわ」
一体何を言われるのかまるで想像も出来ないが、しかし
俄に緊張を見せる
そうして一つ呼吸を入れ、アーデルハイトが至極真面目な顔で
「ミギー。貴女に魔法をお教えいたしますわ」
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