タウ・デプス 濃悪の令嬢

伏潮朱遺

第1章 悪とは他人を意図的に傷つけることである



     0


 月曜の朝っぱらから連絡を寄越す馬鹿はこの世でたった一人しかいない。

「やっほー! 片山さーん、元気~?」

 ケータイを耳に当てながら席を立つ。

 部下の桐崎キリサキ(真ん前に座っている)に鋭い視線で非難されたが、煙草を吸う動作をしてこれがサボりでないことを言い訳する。

 といっても、急にかかって来る電話で席を外す、という動作がお決まりなので、碌でもないところからの密告なのだと察知されている可能性大だが。

 署の屋上の陰。

 このクソ暑い中、屋上に出るなんて無謀者アホはいないので聞かれる心配はまずない。

「で?今度はなんだ。こないだまでハワイってお前」

「え~、俺行き先言ってましたっけー? おっかしいなぁ。トロピカルな南の島としか」

「んなことはどうでもいい。本題だ。手短に頼まあ」

 なにせクソ暑い。

 一秒でも早く冷房の利いた部屋に戻りたい。

「あー、あの仕事熱心で可愛い、ええっと?双葉ふたばちゃんですっけ? なんか勘繰られてんすかー?」

「切っていいかぁ」

「はいはーい。えっとっすね、なんすかねー。なんつーか」

「なんだ、歯切れ悪ィな」

 その躊躇いでなんとなく察した。

 この馬鹿は、

 俺の過去をせっせこ掘り起こそうとしている。

「そっちに、呪いを祓う一族がいるとかいないとかって」

「全部死んだな。24年前に、それこそ全滅だ。それがなんだって?」

 もう過去のことだ。

 あいつは、

 二度と戻って来ない。

「生き残り、ホントはいるんじゃないすかぁ?」

 岡田の奴がケラケラと嗤った声が夏空の耳に障った。






 ****


 俺が、ミフギさんを殺した。

 俺が、シマを殺した。

 死ぬほど後悔したところで、死んだ人間は戻ってはこない。

 厳密には、二人とも死んだわけではない。

 呪いの見えない人間には見えないので死んだことと何も変わらない。

 俺が二人を殺した。

 ミツ姉と結婚したせいか。結婚式に呼んだせいか。結婚式が2週間先送りになったのを待って、二人で逃亡する日程を先送りにしたせいか。

 全部だ。

 全部のせいで、俺のせいでシマは死を、呪いになることを選んでしまった。

 呪いになったシマと会うのが怖くて、何も見えていないことにした。姿も見えているし声も聞こえるのだが、見えていないし聞こえていないことにした。

 シマの身体を乗っ取ったタテマは、大学卒業後にどこぞの女と結婚して長男と次男を産ませた。その女とはもう離婚したらしい。その女をミフギさんが乗っ取っていたとかいないとか、風の噂で聞こえてきたけどどうでもよかった。

 もう呪いと関わりたくない。

 全部忘れるために仕事に打ち込んだ。おかげで祖父の代より会社が大きくなった。本社ビルも新しくしたし、支部も従業員も更に増やした。

 ミツ姉が子どもが欲しいと言ったので、言うとおりにした。二人目が欲しいと言われたので、その通りにした。二人とも女子だった。

 自分の血を思い出してしまった。

 俺には、納家の血が流れている。

 もし娘のどちらかに、または両方に、巫女の血が受け継がれていたとしたら。

 終わっていない。

 なにも、

 終わってはいない。

 ミツ姉は、俺の憔悴ぶりを見かねて婚姻関係を解消した。元の名字に戻った。

 それを条件に、俺の傍にいることを許してくれと言ってきた。

 俺はそれでいいと答えた。

「いつまでもお姉さんて呼ばれるのもアレだから」

 ミツ姉は、みつさんになった。

 最初は呼び慣れなくてくすぐったかったけど、そう呼ばないとこっちを向いてくれなかったから努力した。

 あの日ミフギさんの病室にいた自称後継者が、俺の元に女児を連れてきた。

 彼女は現在、うちの会社で呪いを――黒を祓う仕事に従事している。

 名を、






     タウ・デプス

      濃悪(ノワール)の令嬢






 第1章 悪とは他人を意図的に傷つけることである




     1


 時寧ときねに指示された場所に向かおうと思ったが、生憎と足がない。

 行きはタクシーでいいとして、帰りにずぶ濡れの客を何も言わずに乗せてくれる車があるだろうか。着替えを持っていくもの面倒くさいし、濡れた髪はドライヤがなければどうにもならない。いや、ビニールシートを持参すれば。

 ピンポン。呼び鈴だ。

 誰だろう。

 ここは時寧の事務所だから、時寧の客の可能性しかない。

 居留守を使おうか。

 ピンポンピンポンピンポン。

 呼び鈴を押しすぎなのもうるさいが、ドアを叩きながら出てこいだの居るのわかってるだの怒鳴っている。

 男?

 借金取り?

 時寧のことだ。そうゆう男に付き纏われているのは想像に易い。

 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。

 さすがにうるさい。

 時寧がいないことを伝えて、お引き取り願おう。それがいい。

 のぞき窓から見えたのは、ド派手なアロハシャツ。

 アロハシャツ?

「すまないが」インターフォン越しに話す。「久慈原クジハラに用事でしたら、いまは留守で」

「誰それー? 俺が用があんのは」

 男は、わたしの本名を言った。

 ドアを絶対に開けたくなくなる。

「あれぇ? 人違いだった? 住所は確かにここだったんだけど。困った困った。んじゃ、もう一つの候補に行こっかねぇ? お邪魔しまし」

 た、を言う前に急いでドアを開けた。

 丸メガネのサングラス。極彩色のアロハシャツ。全身真っ黒に日焼けした、身長170センチはある30代後半くらいの男。

 怪しいと胡散臭いがごちゃ混ぜになりながら服を着て立っている。

「やっぱいんじゃーん! はっじめましてー!」

「本名を軽々しく呼ぶな。いまは水封儀みふぎと名乗っている」またわたしの本名をフルネーム呼び捨てしそうだったので遮った。

「みふぎちゃん? かわいい名前だねー」

 ちゃん?

 背筋がちょっと冷えた。

「馴れ馴れしいな。用件を言ってさっさと帰れ」

「ん? 用件? いままさに叶っちゃってるんだけどぉ?」男は、わたしの顔を至近距離でのぞき込む。「みふぎちゃんに会いたかったの、俺」

 遮光レンズから薄っすら眼が見えた。

 思わず仰け反る。

「ありゃりゃ、警戒されちゃってるー俺。見ての通り、何の変哲もない南の島帰りのパリピだってのに!」

「名を名乗れと言っている」

 岡田オカダ真三しんぞう

「真実が三つて書いて、しんぞう」男はケラケラと軽い笑いを浮かべる。

「じゃあ、マミでいいな」

 事務所の駐車場に見慣れないクーペが駐まっていた。

 これが男の車だろう。

 そうだ。

 いいことを考えた。

「マミ、いいところに来た。ちょっと送り迎えをしてほしいところがある」

 わたしに会いたいというのだからきっと、納家の何かしらを探っている悪の組織か何かの先兵だろう。

 こちらが利用してやろう。

 マミは、とてつもなく嫌そうな顔でこう言った。

「なんでマミ?」

「ちゃん付けをやめるなら岡田さんにしてもいい」

「それはそれで他人行儀すぎない? うーん、うーんとね、うーんうーん」

 反撃がなかなか効いたらしい。



 






     2


 怪しさと胡散臭さの累乗の男の車は、吐き気を催すくらい煙草臭かった。

 本人からそこまで臭いがしなかったのはなぜだ。この臭いはちょっとやそっと風呂に入ったり着替えたくらいでは取れない。普段使っているのは別の煙草臭くない車両Aで、これはわたしへの嫌がらせのために用意した臨時車両Bなのか。

「窓閉めてよー、暑いじゃんかー」運転席のマミがぶーぶーと文句を垂れる。

「臭くて息ができん。次回から違う車を用意してくれ」

「だからなんで俺をタクシー代わりにしてんのぉ?」

 全開にした窓から身を乗り出したいくらいだった。危ないからやめてくれとマミに泣き付かれた。

 7月。

 世間は夏休みが始まった辺りだろうか。

 じりじりと照りつけた太陽の熱はまだ引かない。

 夕刻。

 時寧の指定した場所は、市内のそこそこ新しいマンション。築十年も経過していないだろうに、もうになっているのか。気の毒極まりなくて同情する。

「ミフギちゃん、ここ、何?」マミが近くのパーキングに車を止めて追いかけてきた。「俺も付いてっていい?」

「ドアの中まで入るな」

「えー」

「企業秘密だ」

 室内に入って中から鍵をかける。さすがにさっきのようにドンドンとドアを叩いたりはしないようだ。近所迷惑という概念は備わっているらしい。じゃあなんでさっきは自重しなかったのだ?

 そこまでしてわたしに用があったのか?

 悪の組織は追々探るとして。

 この感覚にも随分慣れた。慣れたくなかったがわたしの仕事はこれに慣れざるを得ない。

 が、室内に充満している。

 手っ取り早く済ませよう。

 持ってきた白襦袢に着替えて、かめにペットボトルの水を注ぐ。

 トランス用の呪文を唱えながら、頭にぬるい水を被る。

 は、

 祓われる。

 時刻はものの数分ほど。

「え、もういいの?」マミがドアの真ん前にしゃがみこんでいた。さすがに喫煙は自重したらしい。「てゆうか、びっしょびしょだけど、何があったの? え、そのカッコも。ひやぁ、スケスケじゃん。隠して隠して」

「わたしの仕事を知らんのか?」

 おかしい。悪の組織が私の素性を知らないはずが。

「ちょっとタオル」

「いい。どうせ煙草臭い。要らん」白襦袢の前を閉じてサンダルを履き直す。「わたしを見兼ねるなら、さっさと事務所に送れ」

 帰りも窓を全開にしてなんとか凌いだ。

 眠い。

 仕事終わりはいつもそうだ。

「悪い、寝る」

 マミが困ったような焦ったような声を上げたような気がしたが、無視して眼を瞑った。

 両親の夢を見た。

 もう何年も前に、黒に呑まれて死んだ。

 眼が覚めたら、眼の前に大きなタオルを広げたマミがいた。

「なにをやってる?」

「何って、びしょ濡れのまま寝ちゃったの忘れちゃった? 家からタオル持ってきたんだって。買おうかとも思ったんだけど、この炎天下の中車内放置はヤバイっしょ? ほら、早く拭いて拭いて」

 家から?

「マミの家?」

「ん、なんで?」

 ここは、時寧の事務所の駐車場だった。

「お前、勝手に入ったのか?」ポーチの中の鍵がない。「泥棒か盗人かどっちだ?」

「どっちでもないんだよね、これが。ほら、シャワー浴びて、着替えて、それからベッドで寝る。眠いんなら全自動で俺がお世話しちゃうけど?いい?」

「余計なお世話だ」疲れ切った足を引きずってバスルームへ。

 さすがに見知らぬ男に風呂や着替えの世話をされたくない。

 適当にTシャツをかぶって、ベッドに倒れ込んだ。

 寝よう。










     3


 眼が覚めた。

 外が真っ暗になっている。

 マミは、まだそこにいた。

「おっはよー! みふぎちゃん。ご飯買ってこよか?」

「何が目的かそろそろ話したほうがいい」わたしは電話を手にしながら言った。「警察の知り合いもいる」

「もしかして、片山かたやまさんだったりする?」

 なんで、

 知ってる?

「俺、片山さんの知り合いよ? あの人超顔怖いっしょー?」マミがケラケラと笑う。「あの傷も、昔暴力団とやり合ったとかなんとか。ガチすぎんよねー」

「どうゆう知り合いだ? 昔、逮捕的な意味で世話になったとかだろ?」

「俺全然信用ないねー。ご飯買ってくるから機嫌直して?」

 駅前のオムライスで手を打つことにした。

 マミも一緒に食べるらしい。

 ダイニングテーブルに向かい合って座る。

「美味しいねー。みふぎちゃんお墨付きなだけあるわ」

「食べたらとっとと帰れ。わたしに会いたいだけならもう用は済んだだろ?」

ノウ家の事件て知ってる?」急にマミの顔つきと声音が変わった。「24年前の」

「知ってたらなんだ」

「俺さ、人智を超えた現象とか、凡そ人には敵わない怪異とか、そうゆうのを調べてるんだよね。24年前に納家の男とその姪が忽然と姿を消した。残ったのは、もう一人の姪と生まれたばかりの赤ん坊。同日ほぼ同時刻に市内の別の場所で男が死んだりとかもあった。そっちは直接は関係ないけど、間接的に関わっていると推測した人ももう諦めちゃって、誰もあの日の真相に辿りついてない。いや、いるのかな? 眼と口を塞いでいる人が。みふぎちゃんが知らなくても」

「知らん。二代前の話だろ? わたしは生まれてないし、生き残りだとかも」

「生き残り? 俺、生き残りの話なんかしたっけぇ?」

「何が言いたい? わかっていることがあるなら早いうちに白状しておけ」

「みふぎちゃんのおばあさんのおじさんと、おばあさんのお姉さん、どこに消えちゃったんだろうね」マミはそれだけ言い残して帰った。

 また、

 眠れない夜だ。

 眼を瞑ると悪夢を見る。

 おそらく確実に24年前の事件とやら。

 わたしは生まれていないのに。

 の映像が繰り返し繰り返し。

 見たことも聞いたこともないのに、おぼろげに知っているのはこの悪夢のせい。

 知りたくもないのに。

 先々代は呪いになった。

 呪いに呑み込まれた。

 わたしもきっとそうなる。それを親切に報せてくれているのだ。

 知っている。そんなことくらいわかっている。

 それでもやめるわけにいかない。

 やめた途端に、これまで祓ってきた呪いに呑み込まれる。

 母と父がそうだった。

 わたしには、母の平屋が残った。

 あの家に、母が呪いを溜めていた。集めていた。

 あの家は確かにわたしの家だが、代々の呪いを集めた蔵でもある。

 まともな人間が出入りしたら汚染される。

 まともな人間が汚染されている。

 呪いとはそういうものだ。

 マミも同じことになりかねない。

 関わらなければ、天寿を全うできる。それだけの話。

 でもそう言ったところで逆効果な気がする。ああゆう男はそうゆう類。

 真実に近づけば、わたしの不眠は解消されるのだろうか。

 ぐちゃぐちゃ考えていたら朝になっていた。

 いつもの通り。何も特別なことじゃない。

 朝っぱらからマミが台所でなにやら工作していることを除けば。

「おっはよー!みふぎちゃーん。朝ご飯用意できてるよ」

 6時。

「お前、何時に来てた?」

「ん? 5時だけど?」

「朝型なのか?」

 散らかったダイニングテーブルを綺麗に片づけて、取ってつけたようなエプロン姿のマミが作ったらしい料理が並んでいた。

 目玉焼き、ベーコン、トースト、サラダ、ホットミルク。

「遠慮しないでー。ほら、食べちゃって食べちゃって」マミがいそいそとわたしを椅子に座らせる。

「お前の分は?」

 一人分しかない。

「気にしない気にしない。俺はみふぎちゃんが食べるのを見るのが朝ご飯」

「気持ち悪いな」

 ところでこの食材は。

「わざわざ買ってきた俺の苦労をわかって? わかってくれるんなら、ほら、冷めないうちに」

「いただきます」

「お、挨拶ちゃんとするタイプかー。偉いえらい」

 ガキだと思われているようでちょっと不快だが、久しぶりの温かいご飯は美味しかった。でも早朝すぎて全部は食べられなかった。残りはマミがパクパクと平らげた。

「胃、小っちゃくない? ちゃんと食べてる?」

「食べてるだろ? 昨日だって」

「え、まさか、一日一食? んで、オムライスだけむしゃむしゃしてる系? 駄目だよ。おんなじもんばっかり食べてちゃ。栄養が偏っちゃう。育ち盛りなのに」

「前から思ってたんだが」

「ん?」

「お前はわたしのお母さんのつもりか?」

「失礼だな」マミの顔が面白いくらいに歪んだ。「お父さんだ!」

 そうゆうことじゃないんだが。

 訂正が面倒なので放置した。

 時寧から仕事の情報が届いていた。今日は、海沿いのホテル。20年以上前に廃業して、別の会社が建て替えたものの、土地に憑いていたのか、祓い切れていなかったのか、まだらしい。

 原因が呪いなら私の出番だが、霊的なものなら厳密にはわたしの専門外となる。

 それを見極めてこいということだろう。

 マミの車は昨日のとは違った。明らかに中古のおんぼろ軽自動車。

「みふぎちゃんがいろいろゆうからさ、方々手を尽くしてなんとかね。さすがに二台持ちはきっついわ」

「買ったのか?」

「伝手があってね。短期間だけ借りたよ。さ、行こう行こう!レッツゴー!」

 短期間だけ。

 ちょっとちくりとしたのはなぜだろう。

「気分が高まってるところ悪いが、行くのは夕方だ。霊はその時間から活動を始める」

「へえ、黄昏時ってやつ? んじゃあそれまで」

 一緒に買い物に行くことになった。

 なぜ?

「みふぎちゃん、お出かけ用の服持ってないでしょ? 俺それがすんごい気になっててさ。昨日も適当なスウェット上下とTシャツだったし、可愛い格好したらちゃんと可愛いんだからさ」

「要らん。寝る」

 ラジオを付けてベッドに寝転がる。

 7時。

 いつもの定時ニュースを聞く。

 今日も市内は平和だ。人が呪いのせいで消えていないことを確認する。

「えー、つまんなーい。行こうよ行こうよ」

「うるさい。ラジオが聞こえん」

 そのあともベッド脇でごちゃごちゃぐちゃぐちゃぺちゃぺちゃと。口の減らない。わたしが根負けで肯くのをひたすら待っている。

 この手の手合いが、わたしはすごく苦手だ。

「わかった。わかったから、少し黙ってくれ」

「え?いいの? やったー! みふぎちゃんとショッピング! 可愛い服いーーーーっぱい買ってあげちゃうよ!」

 はあ。溜息も出ない。

 10時。

 開店時間を見計らって、郊外のショッピングセンターに出向いた。行ったのは初めてだ。

 人が多い。

 そういえば、世間は夏休みだった。

 人酔いで吐きそうだ。

「あれ? 大丈夫? けっこうヤバい感じ?」

「人間が集まるところは、負の感情が強くてな。黒――呪いのなりかけみたいなものが燻っていたりする」

「祓っちゃう?」

「危険度の低いものは基本的に放置だ。そんなことより、暑い。なんとかならんのか」

 マミが木陰のベンチに案内してくれた。それでもまだ熱が引かない。

「マジ? 熱中症? 一回車戻る? いや、涼しいところのほうがいいから。あ!」マミが思いついたように間抜けな声を上げる。「こうゆうとこって、救護室みたいなの、あるはず。そこ行こう。乗って」

 マミに背負われて、救護室とやらに行った。涼しい部屋だった。

 簡易ベッドに下ろされて、腋にタオルで包んだ冷却材を挟む。スポーツドリンクを飲むように言われ、少しずつ飲んだ。美味しい。

 ペットボトルを半分ほど空にして、ベッドに寝転がる。

「悪い。この体たらくだ」

「ううん、無理に連れ出した俺が悪いんだし。どうする? 俺、いたほうがいい? それとも、なんか欲しいものあれば買ってこよっか?」

 係の人がもう一本スポーツドリンク(半分凍っている)をくれた。そして、回復するまでいてもらって構わないと案内を受けた。

「お言葉に甘えて、もう少しここにいる」

「あいよ。んじゃあ、俺は服でも物色してこようかね。あ、これ俺の番号。動けそうなったら連絡ちょうだいね」

 マミが部屋を出て行ったのを見送って、眼を瞑った。

 思えば、昼に出掛けることは少なかった。仕事はほぼ夕暮れから夜にかけて。

 慣れないことはするもんじゃないな。

 いつもの悪夢で眼を開けた。

 黒に飲まれて呑み込まれてそれで終わり。

 マミに電話をしたらすぐに迎えに来てくれた。紙袋を大量に抱えていてぞっとした。全部わたしの服だったりしないだろうか。

「食欲ある? 昼ごはんどうしよ?」マミが言う。

「要らん。早く帰らせろ」

「仰せの通りに、お姫様」

「誰が姫だ」

「え、みふぎちゃんしかいないけど?」

 マミと話していると疲れる。

「俺だけ買ってきてもいい? これ、鍵。先に車行って待ってて」

「わかった」

 車に乗り込んでエンジンをかける。冷房を付けたかった。

 もらってきたスポーツドリンクを一口。

 12時。

 ああ、そうか。それならマミも空腹を訴えてもしょうがない。

「おまたせー」マミがテイクアウトのジャンクフードを買い込んできた。

 車内に匂いが充満する。

「食べてからでもいい?」

「窓開けていいか」

 13時。

 家に着いた。昼のニュースを聞きそびれた。

「夕方まで何しよっか?」マミがベッドサイドにやってきた。「俺のおススメはこれ! みふぎちゃんファッションショー!!」

「寝たから話は聞こえない」壁際に寝返りを打つ。

「ええ~、ナイスアイディアだと思ったのになー。じゃあ見るだけでもどう? まずはこれ!」

「寝たぞ」

「起きてー。これだけ!これだけ見たら寝ていいから。ね? ほら、ちらっと見るだけ。はい!可愛い」

 フリルの夏用ワンピース。スカートが膝丈という短さ。

「誰が着るんだ?」

「俺じゃないね」

「わたしでもないな。寝る」

 寝たふりをしたら、マミは静かになった。疲れたのもあって眠気はすぐに来た。

 お馴染みの悪夢も連れ立って。

 17時。

 だるい。熱中症の後遺症か。

 仕事に行かなくては。

「今日休んじゃダメー?」マミが掃除機をかけていた手を止める。「無理しなくてもいんでない?」

「いや、行く。車を出してくれ」

「いやって、いやいや。ダメでしょ、そんなふらふらしてたら。体調万全にしないとさー。祓えるもんも祓えないって」マミがわたしをベッドに押し戻す。「延期の連絡すればいいの? 俺でよければしとくよ?」

「冗談を言うな。今日行かないといけないんだ」

 水と甕の準備をする。もちろん白襦袢も。

「お父さんとしてはそんな体調悪い子を行かせられません!」

「いつからお父さんになったんだ」

「昨日から!!」

 駄目だ。この壁を突破できる体力はわたしにはない。

 しかし、延期の連絡はどうすれば。

「いいよ」時寧がベッドに座っていた。「日頃の信用がこうゆうとき使えるよね。今日はゆっくりしてて」

 マミに時寧の姿は見えていない。

 マミに気づかれずに時寧と会話する方法。あった。

 メールを送る。

「何まどろっこしいことしてんの? そのよくわかんない男のことそんなにだいじ?」時寧が言う。

 メールを送った。

 謝罪と、明日必ず仕事に行く約束。

「ふうん、まあこっちとしては仕事してくれれば何でもいいけど?」時寧がベッドから腰を浮かせて、マミのすぐ横に立つ。「人質の価値がある人間が増えるのはいいことだよ? じゃあね。また明日」

「だいじょうー? ミフギちゃん」マミがわたしの顔の前で手を揺らしていた。

「問題ない。会社にメールも送った。今日は休んでいいそうだ」

「よかったー! いい会社に勤めてるんだねー。羨ましいわー」

 いい会社。その通りだ。

 黒を祓うしか能のないわたしを雇ってくれていることには感謝しかない。

 安心したら少し空腹を感じた。

「お腹空いたでしょ?」マミがにやりと笑ってダイニングまでわたしを引っ張った。「じゃーん! 見てみてー!」

 これは、

 オムライス?

 駅前のじゃなくて。

「お前が?作ったのか?」

「これならみふぎちゃん食べてくれるかなーって思ってね」

 見た目はぐちゃぐちゃ。玉子から盛大にチキンライスがはみ出ている。むしろもともと別の料理と言ったほうがいい。スクランブルエッグとチキンライスがケンカしながら皿にひしめき合っている。

「まあまあ、まずは一口」マミがスプーンで掬った。

「お前これ味見したか?」

「味見って必要?」

 駄目そうな未来が見える。

 しかし、まあ食べ物を粗末にするものあれだし。

「いただきます」スプーンを口に入れた。「まずい」

「ええー?? なんで? レシピ見ながら作ったのに」

「お前も食えばいい」

「食べるよー。俺が作ったんだし」マミが違うスプーンで一口。「そうかな? まずい? え?どのへんが?」

「お前の舌は信じない」

 19時。

 マミはオムライス(自称)を平らげると、食器を洗って、台所の掃除を始めた。

「仕事も行かないんだから、そろそろ帰ったらどうだ?」

「何言ってんの! 俺はみふぎちゃんのおはようからおやすみを見守るって決めたんだから」

「わかったわかった。じゃあ寝る。おやすみ」

 しばらくして、本当にマミが帰った。

 ラジオを付ける。夜のニュースも逃してしまった。

 マミが来てからまともにラジオも聞けていない。調子が狂う。

 仕事をサボってしまった。

 こんなことは初めてだ。時寧が生きていれば無理矢理にでも連れて行かれただろう。

 やっぱりは時寧ではない。時寧とはほど遠い何かだ。

 わたしが、時寧を殺した。

 今夜の悪夢には時寧も出てきた。両親とその他大勢の先祖。

 よってたかってわたしをなじる。

 お前は黒を祓っていればいい。何も考えなくていい。ただ黒を祓って祓って祓えばそれで。

 わたしだってそんな人生を想像してた。

 でも、に出会ってしまった。

 子ども――ミシロもわたしが殺した。

 脚に縋り付く白い小さな塊は。

 そこで眼が覚めた。

 3時。

 眼が覚めたということは、少しは眠れたということだろうか。喜ばしいじゃないか。

 ミシロ。

 お前もわたしを責めるのか。

 20時。

 マミと一緒に例のホテルに向かった。









     4


 ホテルは思いの他近かった。例の部屋を除いて通常営業していることに頭痛を感じたが、時寧がいないので仕方がない。現場に助言する人間が誰もいない。

 そうか、これもわたしの仕事になったということなのか。

 一時的でも該当フロアから客を避難させられないか尋ねたが、オーナーは渋い顔をして首を振った。

 人命よりも、儲けを重視する三流ホテルだということがはっきりわかった。呪いや霊とは関係なくそう遠くないうちに廃業するだろう。

 それでも呪いは、黒はどうにかしなければいけない。

「うーわ、感じ悪ぅ」マミがオーナーの背中に向けてあかんべをした。「みふぎちゃん、さっさと祓って帰ろう」

「同感だ」

「きゃ!もしかして、初めて意見合っちゃった? うれしいー。帰ったらお赤飯炊いていい?」

「ややこしいからやめろ」

 4階の一番奥の部屋。

 エレベータを降りた瞬間、天井までみっちり黒が充満しているのが見えた。

「マミ、お前大丈夫か? かなりヤバい」

「なになに? 俺ここで待機?」

「悪いがそうしてくれ。いや、ロビィにいてくれたほうがいい」

「わかった。あ、でもなんかあったらすぐ」マミがケータイを顔の横に掲げた。

 この状態のフロアにフツーに客を泊めているのか。黒が見えないなら仕方がないかもしれないが、まずあり得ない。完璧に初動を間違っている。

 幸いにしてまだ客に被害はないらしいから。

 見えないので壁を伝って奥の部屋へ。

 なんだこの、ひどいにおいは。

 黒が臭気を発するなんてのは聞いたことがない。

 とりあえず、いつものルーティーンで黒を祓う。

 一気に視界が晴れて。

 現れたそれは。

 呪いとはほど遠い。霊でもなくて。

 部屋を出てマミに電話をかけた。

「ちょっと来い」

 女の遺体。

 ぱっと見しかしていないが、損壊が激しい。

 白襦袢を脱いでスウェットに着替えた。

 マミはすぐに来た。大声でわたしの名を呼びながら走ってきたので静かにするように、口の前に指を立てた。

 なにせ客がいる。

「中を見ろ」という意味で部屋のドアを指差した。オートロックではないので鍵は必要ない。

 マミは躊躇いもせずにドアを開けて、すぐにバタンと閉めた。

「警察に連絡する」という意味でケータイを耳に当てたが。

「なんでそんなことするの!??」とわけのわからない返答がかえってきた。「ダメだよ! 俺たちまだ全然話できてないし、俺も用が済んでないってのに、なんで、勝手にそんなこと決めちゃうんだよ!!」

「静かにしろ」と小声で言う。意味不明な受け答えは置いておくにしても、声が大きすぎた。

 しん、と静まり返る。

 わざわざドアを開けて廊下で騒いでいるバカの顔を見ようとする愚か者はいないらしい。いや、客同士のトラブルを避けるためにフロントに連絡しているのかもしれない。

 とすると、オーナーを呼ぶ手間を省けるか。

「みふぎちゃん、さすがにヤリすぎなんでない? 昨日仕事できなかったからって、その怨みをこんな形で晴らさなくたって」マミのボリュームは先ほどの百分の一まで落とされたが。

「さっきからお前は何を言ってるんだ?」

「自首するんじゃないの? ダメだよ、ケーサツは。厄介なことになるんだから!」

「は?」

「え、後処理のために俺を呼んだんでしょ?」

「もし万一わたしがやってたとしても、お前は呼ばないな」

「俺を頼ってよ! 後処理一人でできると思ってるの?」

「うるさい。わたしはやってないし、第一発見者だから連絡しようとしただけだ」

「ちょいっと失礼しますよ、と」マミが部屋内で遺体を調べ始めた。屈んで遺体を至近距離で検分している。

「おい、現場を荒らすな」

「さっきは余りのことで一瞬しか見なかったけど、ここまでやるかね」マミの声のトーンがいつもより低かった。背を向けているので表情は見えないが、怒りが滲んでいるように感じられた。「怨恨か、お愉しみか。いずれにせよ、まともな人間のすることじゃない」

 ホテルの従業員が駆けつける前に警察が到着した。

 そのことで、疑いの眼は第一発見者のわたしでなく、ホテル側に向いた。

 マミは、いつの間にかいなかった。

 やっぱり過去に警察と何かあったに違いない。

 どうでもいいか。

 いろいろ状況を聞かれたので、黒祓いの仕事をそれとなくぼやかしてその他は正直に言った。警察は完全にホテル側にロックオンをかけているので、わたしへの聴取は簡単に済んだ。連絡先だけ聞かれてあとは帰るように言われた。オーナーが蒼白い顔で弁明している横を素通りした。

 ホテルの駐車場にマミの車が見当たらなかったが、きょろきょろしていたら拾ってもらえた。わたしが表に出てくるのを待ち構えていたのだろう。

「だいじょーだった? しつこくなかった?」マミが言う。

 23時。

 もうそんな時間か。確かに疲れたな。

「もししっかりはっきり見ちゃってたならお父さんに話しちゃいな? ほれほれ」

「お父さんヅラをするな」

「お父さんです!!」

 訂正不可能。諦めよう。

「マミ。お前はどう思った?」

「え?全投げ? そだねー。みふぎちゃんが祓ってる呪い?黒っての? あれのせいで死んだの? 呪いに浸かる?晒される?とあんなんなっちゃうの?」

「マミ、わたしは違うことを思った。呪いが原因で人が死ぬと遺体は残らん。まあ残る場合もあるが、自然死としか言えないくらい綺麗に残る。だから黒のせいじゃない。しかも、黒は遺体に集まらん。わたしはそもそも遺体と関係なく黒祓いのためにホテルに呼ばれた。なのに、遺体は黒に覆われてそこにあった。おかしい。順序が逆なんだ」

「黒ってのとご遺体は無関係ってこと?」

「まったく関係がないわけじゃないだろうが、あそこに遺体があった以上、後付けに関係しているのかもしれん。わからん。こんなことは初めてだ」

 考えれば考えるほど頭が混乱してくる。

「みふぎちゃん、今日はもう休んだ方がいいよ。ご遺体のことは警察に任せてさ」

 こうゆうとき、マミの正論は有難い。

「そうする」事務所に着くまで眼を瞑った。

 マミは事務所内まで入らなかった。こちらを安心させるような笑顔を向けて手を振ってくれた。

 深夜のニュースに間に合った。

 まだ、出ていない。

 ラジオを付けっ放しでシャワーを浴びた。

 着替えてベッドに寝転がる。

 今夜ももちろん眠れない。

 マミは朝ごはんを作りに来なかった。

 ホテルの遺体についての報道は、翌日の昼のニュースだった。














     Ⅰミーンズ


 仕事を半日で切り上げて午後。

 今日こそ探し当てたい。

 ふらふらと目的がないフリをして海辺を歩いた。

 時間が悪いのか、今日が悪いのか、なかなか連れのいない女が見つからない。

 まだ明るいのでカムフラージュに水着を用意する必要があったかもしれない。

 砂浜を3往復した。

 夏休みを利用して旅行に来ているという女が私に声をかけてきた。

 女は私が気に入ったらしかった。

 海が見えるレストランで早めの夕食を共にした。

 いろんな話をした。

 女の仕事。

 女の趣味。

 女の自慢。

 コンビニで酒とつまみを買いこんだ。

 女が泊まっているホテルに行った。

 いろんな話をした。

 女の愚痴。

 女の不満。

 女の悪口。

 女は私の話を聞いていなかった。

 チューハイの缶が次々と空く。

 私は一滴も飲んでいない。

 女は酔って私にしなだれかかってきた。

 だから、

 いいと思った。

 だって、

 女が私を愛してくれるなら、

 私も女を愛し返したい。

 この傷は、

 私が女を愛したという証。

 傷つけて愉しんだわけでは決してない。

 決して。

 天地神明に誓って。

 他人を意図的に傷つけるのは悪いことだろ?

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