第三十九話 思考迷路

 皆がまたビーチバレーを再開し、ケンさんも一人でまた距離を置いてしまった後。僕は唯呆然と海を眺めた。ビーチバレーに誘う声も聞こえていない訳ではないが、脳まで届ききらずさっきから適当な返事しか返せていない。


 僕は濡れてしまったケンさんを、真横から見ていた。そして其所から見えたのは、濡れて重みを増した着物全体と、その隙間から見えるケンさんの胸元だった。僕が見たものが正しければ、僕は益々ケンさんと距離を置かなければと感じる事になる。


 そうならないで欲しいという思いも込めて、僕は無駄に一生懸命自分の額を海水で洗った。摩擦で赤くなるぐらい擦られた額は、さぁどうなっている事やら。僕は海面に自分の出来るだけ鮮明に写し、自分の額を確認する。矢張、僕に刻まれた文字は消える事はなかった。形も、波で揺れることはあるものの、歪まさずして額にへばりついている。


 あの人は八卦じゃない。あの人は八卦じゃないんだ。僕は繰り返し唱えた。胸にあったあのマークは偽物だったんだ。僕は現実を受け入れようとした。だとしたら空を飛べるような力は?本物のケンさんは?色んな疑問が飛び交い頭が追い付かなくなった末、僕はカンさんにその事を持ち掛ける。


 もうビーチにはおらず、家に帰って皆が自室で眠る中、僕はカンさんの部屋の扉をノックした。


「どうしました?」


「こんな時間にすいません、ちょっと相談があって。」


「僕で良ければ良いですよ、そんなに遠慮しないで下さい。」


「ありがとうございます。」


軽く前ぶりを済ますと、僕はそそくさと本題に入った。


「ーそれで、ケンさんが偽物の可能性があるんです。どう思います?」


「どうって…。少し待って下さい、僕もまだ追いついてないんです。」


それから続く沈黙は、僅かなものだった。しかしその僅かな時間が、僕にとっては永遠に近い程長く、抜け出せない暗闇に思考を引き摺られそうになる。


「分かりました。仮にケンさんが乾さんじゃ無いとします。ですがケンさんが持つ力は本物でしょう?唯の人間があそこまで装える訳がないんです。つまり彼は、人間でも八卦でもない、別の誰かって訳ですよね?」


「はい…。」


つまりそれはもうあと一人しかいない。


「「神?」」


えぇそんな訳…ない…なくもないけど…えぇ…。二人とも顔を合わせて訳の分からないジェスチャーをする。たまに「あ」とか「え?」とか「えぇ」とか言いながら部屋を回った末に、また定位置に戻って黙り込む。


「でも…でも、コンさんとの計画はどうなります?その間彼は気を失っていたんですよ?どうやって契約を取ったんですか。」


「もしかして死んで無かったとか?」


「えぇ怖い。怖いですよ君。じゃあ何故死のうとしたかはどう考えます?」


「えっと、自然が嫌いって言ってましたっ。」


「…あぁ成る程。えぇじゃあもうどうしようもないじゃないですか。嫌ですよ僕それを認めるの。」


「そんなの僕も嫌ですよ。」


人数が増えていない割に一段と騒がしくなるカンさんの部屋。そうしているうちにちゃんと人数が増えてしまう。しかもよりによってケンさんに一番信頼を持っているリーさん。本人じゃないだけでまだましか。


「人が本読んでる隣で、何やってんねん。」


「…。」


「なんで黙んねや。」


「ケンさんの事、どう思います?」


「どうって、イケメ…」


「あ、そういうことじゃなくて。」


「もっとこう、性格とか癖とか?何か違和感みたいなのはありますか?」


「何時も気怠げでよく首を掻く。違和感は無いけど、強いて言うならかなりの水嫌い?」


リーさんの即答に、ケンさんに対しての情熱を感じる。


「その水嫌いについてなんですがー」


僕はケンさんの胸の痕についてリーさんに説明した。


「それは無いわ、流石にその手には引っ掛からんで?」


「それが本当なんですよ。」


「いいや、どうせ照葉の見間違えや。」


それからは此方が何を言おうとも、リーさんは認めようとしなかった。聞く耳を持たないリーさんに僕らが必死に抗議していると、なんと相手は恐ろしい事を急に言い出すのだ。


「じゃあ見てきたる。」


「え⁉︎ちょっと、止めた方が良いですって!」


「その通りですよ!止めましょうよ、ね?」


「いや知らん。来たく無かったら来なくて良い。せやけどうちは行く。」


「いやいやいやいや!」


結局リーさんを止めようと引き摺られてく内に、僕らもケンさんの部屋の前まで来てしまった。


「やっぱり止めましょう。こんな事馬鹿げていますよ。」


「その馬鹿げた事を口にしたのは誰だよ。」


「すいません勘弁してください、さぁ帰りましょ?」


とつべこべ言っている真っ最中に、リーさんが有無を言わずに扉を開けた。


 すると其処にはケンさんの姿は無く、代わりに開いた窓から生温い風が僕らを迎え入れる。


「「「…。」」」


正直いてくれなくて良かった。僕とカンさんは胸を撫で下ろし、リーさんは都合が悪そうに顔をしかめた。


「何じゃあれ。」


ふとリーさんが誰もいない部屋を見渡すと、家具も一切置かれていないがらんどうの部屋の中に落ちてある、一冊の本に目がいった。


「手帳?」


一瞬手帳に見えたそれは、カンさんが定期的に付けた日記だと知る。日記といっても具体的な日付は書いておらず、大体一ヶ月おきに録っているという事だけしか分からない。


「日記帳の様ですね。」


「あいつが日記を録るなんて知らんかった。」


「…。」


僕らは本人が帰ってこない内にと、日記帳を開けた。






《(中度の地震,津波。乾と離:命日。)"偽装手続き完了"。》


ーーーー(中略)


《坤失踪:気付かれた可能性あり。何としてでも探し出す。》


ーーーー(中略)


《四人を説得:神の目覚めに備え。坤見つからず。》


ーーーー(中略)


《神の目覚め:四人を導入(坤,昆,巽,震):前坤は権限撤去》


ーーーー






 其所まで読んでいる内に、部屋の外でかチャっという音がした。僕らはケンさんが帰ってきたと判断して急いで自室に戻ると、ついさっきまで目にしていた日記の内容を思い起こす。ケンさんが帰ってきたという判断は間違ってはおらず、僕の隣の部屋から物音がし始めた。


 偽装手続きというのも気になるけど、"坤失踪"というのも気にはなる。これってあの僕が知るコンさんの事なのかな?いやでも他の事柄から考えると、最後の項目で導入されたのがコンさんか。いや待て。コンさんは入ってきた時は乾の引き継ぎの筈だぞ?もし坤として入ってきたとして、何故偽る必要があったんだろう。


 やっぱりケンさんは神で、何か大きな秘密を抱えているんだ。その秘密をわざわざ暴く必要があるのか、僕はベットに横になりながらよくよく考えた。今起こっている事態がもっと軽い事だとしたら、僕はきっと今からでも目を瞑るだろう。わざわざ詮索何てしないで、相手を知る事を止めようとするだろう。でも、決して事態は軽くないのだ。あんなに信頼しきっていたケンさんは、今となっては敵にすら見えてきている。それを、今まで何も知らずに会話を交わしてきた。別に嫌悪感がある訳では無いし、後悔もしていない。しっかり頼れる存在だという事も確かな事実だ。


 誰かが廊下を歩く音が聞こえる。そしてガチャっと僕の扉が開く音も聞こえる。扉と反対側を向いている僕は、扉を開けた人物の影を見つめる事になる。その人影は、ドアノブから手を離さず、此方を見つめている様に見えた。


「…。」


相手は何も喋らずまた扉を閉める音がする。誰かは分からないけど、きっとケンさんだ。もしかしてさっきまでの一行を見られていたとか?だとしたらそれは…死ぬだろうな。明日にでも死ぬだろうな。


 僕は考える事を諦めた明日死ななければ大丈夫。それだけを思い目を閉じた。

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