第八話 謎の人物

 動けない。もう心臓が爆発しそうだった。


「聞こえてへんのか?あんたは誰や。」


何か喋らなきゃと口を動かすも、酷い息切れとかすれ声では相手には届かない。


「…?もしかしてあんた、人間やな?」


「…!!」


その言葉を聞いた瞬間、やっと金縛りが溶けた様に足が動き出した。


「あっ待て!!」


人間は命の危険を感じたら何をしでかすか分からないと言うが、それは例え神の使いでも同じなのかなとつまらない疑問を感じつつ、行き先など足に任せて地を駆け巡った。後ろからは僕をおうもう一人の足音が迫って来る。そもそも運動神経に自信がない挙げ句体力の限界値をとっくに越えている僕に勝ち目などあるはずがない。目の前に崖があると認識した瞬間、諦め足を止めようとした。


 すると何が起きたのか、急な地面の隆起に躓く。


「おい、前見ろ!危ない!!」


あれ、案外優しいのかも?そう思い後ろを振り返ったまま、身体は崖の奥へと沈んでいく。伸ばされた手を掴む余裕もなく、景色は一瞬で、それもゆっくりと流れていく。どんどん遠くなっていく空は、澄んだ水色をしていた。






「…?」


一体どれくらい気を失っていたのだろう。自分が生きている事事態がまずあり得ないのに、身体のあちこちを見ても怪我一つも見られない。僕は遂に可笑しくなったんじゃないかと頬を叩いてみるも、何も変わらない。その場で視線だけを回りに送る。そこは静かな林の中で、生暖かい空気が肌を擦る。助けを呼ぶにも八卦さん達に見つかってしまう恐れがあるし、そもそもこの世界に八卦以外の人がいるのかどうかも怪しい。思い出すこの孤独感。この世界に来てからそんなに日は経ってないはずなのに、コンさんらと過ごした面白いことだらけの時間から戻ってしまっては、同じ孤独でも全く別のもののように感じる。せめてあの赤毛の人に捕まって仕舞えば良かったのかな。いっそ修学旅行なんて来なければ良かった。そんなマイナス発言がどんどん頭に流れ込む。


「どうせ死ぬんだ…。今死んだって、悔いはないかな。」


もう精神的にも体力的にも限界が来ており、思考回路は死へと一直線に向かっていた。


 しかし、その回路は物理的なものに遮られる。


「(あれ、どうやって死ぬんだっけ。)」


ここは林の中。紐は勿論ナイフもない。崖から落ちようにも既に落ちているし、何なら生き残って仕舞っている。鋭い石を探そうにも地面には苔ばかり。もしや死ぬ方が難しいのでは?自分が知っている自殺方を並べていくも、どれも何かしらの人工物を必要とする。落下死を含めずしての結果論として、餓死と老衰しか残らないこの状況を僕はどうすれば良いのか。


 その場に立ち尽くして約1時間。出した答えは寝る事だ。死のうとしているのに体力の回復をするという矛盾に気付いても敢えて気付かぬふりをして瞼を閉じる。


 しばらくしての事だった。


「こんな処で寝てしまっては危ないぞ、迷い子。」


「……!?」


人の声に慌てて身体を起こすと、急に立っては危ないと謎の人物が背中を支えてくれた。貴方は誰なのか聞こうとした瞬間、遠くの方であの赤毛の女性の声が聞こえた。どうやらまだ僕を探しているらしい。


「…一旦逃げようか。」


その謎の人物は僕を抱えたと思えば、息も付かぬ間に浮上した。そう、浮いたのだ。僕は過度の高所恐怖症の為景色を見ることは出来ずに、内蔵の浮遊感に多少気を失いそうになりながらもその人物の着物に顔をうずくめていた。そして先程の崖の上とは全く別の崖の上に着地する。


「高所が苦手だったか、すまない。巻き込んで悪かった。」


「助けてくれたのですか?」


「助ける?何で?」


「何でって…」


「俺はあいつが苦手なだけだ。あいつとは出来れば関わりたくない。」


「じゃあ何で僕を?」


「あいつに僕がいたことをばらされては困る。君ごと連れていくのが正解だと思った。それに、君もあいつの事が苦手なんでしょ?顔に出てたよ?」


まさか顔に出てたなんて。まぁ確かに苦手だし、この人の方が安心できるから結果オーライだけれど…その安心感が何処から来るのかは分からない。


「君とは始めて会うね。誰の引き継ぎなんだい?どうやら大人しそうで安心したけど。」


「引き継ぎ?」


「あぁ、君は誰かの引き継ぎで向こうから来たんだろう?」


「いえ、偶々…っ」


もしかして事故の事は言ってはいけないのかな。うっかり口に出しそうになったけど、それ以上言うなと僕の脳内は告げている。


「その前に、貴方は誰なんですか。何も知らない人に教えられません。」


「知らない人か、確かにそうだね。俺は…イヌイだよ。」


イヌイ…八卦にはない名前だ。ってことはこの人は八卦じゃない?その確認の為上から下まで見てみたけど、文字は見当たらない。まぁ全裸な訳じゃないから服の下に隠れている可能性もあるけど、名前からしてまず八卦ではない。


「貴方は人間ですか?」


「人間?…まぁそうだねぇ。」


イヌイさんは何処か遠くを見ながら笑う。


「君は知ってるかい。八卦というのは元は人間なんだよ。向こう側にいるはずの、人間なんだよ。」


「え?」


「普通ならこっちに来た瞬間、これまで過ごしてきた向こう側での記憶が一切消える。人間がこっちに来るときは大概八卦の中の誰かの寿命が近いんだ。だからその人と世代交代という形で役割を引き継ぐ。そうしてこの世界は廻っているんだ。」


「そいいえば今、会議で言っていました。会議を欠席した人がいたんですけど、その人は世代交代の問題で来れないんだって。」


「…そうかい。」


イヌイさんは視線を一度だけ僕に送ってから、また遠くの方を見つめ直す。


「それで、君は結局誰の引き継ぎなんだ?」


「実は、僕も唯の人間なんです。バスの事故でこっちの世界に来てしまっただけで、修学旅行の途中だったんです。途中って言っても、始まりに近いけど。」


「……。」


「どうかしましたか?」


「いや、何も…。」


お互い人間なんだし言っても良いじゃないか。


「人間だった頃の記憶があるのか?」


「はい、その、引き継ぎとやらできたわけではないんで…。早く帰れたら良いんですけどね。今、八卦の中にコンさんとゴンさん、カンさんがいるでしょう?その人達に匿ってもらっているんです。」


「君が帰れるまでか?」


「はい。」


「…そりゃあ良かったな。」


「本当ですよ。感謝しきれません。良かったらイヌイさんもどうですか?あの人達ならきっと優しく歓待してくれますよ。」


「俺は良いよ。あまり関わりたくない。」


「そうですか…。」


「じゃあな少年。時間だ。」


そういうとまた抱えられたと思えば、崖から飛び降りた。


「うぇっあ!?」


驚きのあまり変な声が出たが、お構いなしに重力に従い落下していく。そして地面に付きそうになると今度は一気に浮上した。二度目のその感覚に、また気分を悪くさせながらも今度はしっかり意識を保っていた。


「ほら、着いたぞ。約束だ少年、俺の事は誰にも言うな。誰にもだぞ。」


「…?」


ゆっくりと降りてみれば、そこはカンさんの家の前だった。わざわざ家まで送ってくれたのだ。振り返って礼を言おうとしたが、もうそこには誰もいなかった。

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