海に咲く花

蛙鳴未明

海に咲く花

 咲晴えみはるが死んだ。知らせを聞いてすぐ出張先を飛び出した。車を走らせながらずっと、数日前の会話がループしていた。


『ずっと花なんかいじってないでさ、海行こうぜ海』

『なんかってなによ。行かない。海なんか嫌いだもん』

『拗ねんなよみのりぃ……海にも花は咲くんだぜ? 俺という花が!』

『なにそれ。ばっかみたい』

『馬鹿みたいでも息抜きにはなるだろ? 最近ずっと仕事してて疲れてんじゃないの。行こうぜ海。リフレッシュリフレッシュ。サーフィン教えるぜ?』

『咲晴には関係ないでしょ』

『関係なくねえよ。みのりが心配なんだよ』

『心配なら私のことほっといて』

『ごめんて、みのり。機嫌直してくれよ……そうだ次の週末とか――』

『出張あるから無理!』


 私はカフェから飛び出して――なんであんなにいらいらしてたんだろう。お花のお仕事が忙しくなって心がいっぱいいっぱいになってた。でもあんな突き放すようなこと――素直に行けばよかった。本当はずっと一緒にいたかったのに――




 咲晴の家はいつもと変わらなかった。背が低く、白壁が明るかった。海の香りがした。あいつの車が、駐車場に少しななめって止められていた。あいつは駐車が下手だ。さっきの知らせは夢だったんじゃ――そう思いながら傾いた門を開ける。高校時代から変わらないきしんだ響き。あいつが今にもドアから飛び出てくるんじゃないかと思って、階段を駆け上がって素早くインターホンを鳴らした。扉が開くのとどっちが早いかで、今日運転する方が決まるんだ。はい、とあいつの声がした。いつもより深く沈んでしゃがれていた。ノブが回る。なんかあったの咲晴――そう言いかけて固まった。ドアから出てきたのは晴道さんだった。咲晴のお父さん。彼によく似た顔。深く彫り込まれた笑い皺の奥で、目が赤く潤んでいた。誰かがすすり泣く声が奥から聞こえて、初めて私は咲晴の死を悟った。


 潮にさらわれて――助けた時にはもう息がなくて――あいつ泳ぎうまかったのに――震える声が遠かった。床を踏んでいる気がしない。腰から下が無いかもしれない。

 咲晴は座敷の中央で寝ていた。咲晴とは思えないほど寝相がよかった。白布の下に隠れた顔は本当にあいつだろうか。影のような人々の間を縫い、溶け崩れるように彼のそばに座る。白布を上げる。

 咲晴の顔はいつもと違った。あいつは微笑を知らなかった。もっと子どもっぽく大きく口を開けて笑ってた。日に焼けた顔をめいっぱい崩す人だった。でも、確かにこの人はあいつだ。咲晴だ。白布を戻す。無駄だと分かっているけれど、あの笑顔が浮かんでこないかと期待する。


ごめんなさいねみのりさん。婚約までさせていただいたのに……


 初めて恵美えみさんが隣に座っていたことに気付いた。お義母さん、と呼ぶはずだった人。鼻の形が咲晴によく似ていた。小さな両手でハンカチを強く握りしめて、涙が畳に滴っている。いえ、いいんです、と言えたかどうか。胸が苦しい。でも涙は出てこない。涙の栓が外れるのと逆に深くはまり込んでしまったような、そんな感覚。線香が鼻についた。ふらふらと席を立った。トイレに行ってもなにも吐き出せず、私はふらふらと家の裏手、海岸の方へと降りて行った。




 夕暮れだった。砂浜にモノクロの波が打ち寄せていた。磯のかおりは死のにおいと同じらしい。小さい頃のことを思い出す。波打ち際で花輪を作ってたら大波にさらわれた。息ができなくて体が動かなくて怖くてたまらなくて――助けてくれたのがあいつだった。咲晴は好きだ。海は嫌いだ。死をたっぷり詰めてどす黒い。私をさらう。咲晴を奪う。あいつは海を好きになる分もっと私を好きでいればよかったんだ。そうすれば――


――嫌いだ


 呟く。波の音がうるさい。耳をふさいで叫ぶ。


――嫌いだ!


 頭の中でわんわん跳ね回る。海は知らん顔して揺れている。海の上にも花は咲く? なんて、なんてバカげたこと。海は咲晴を摘み取った。急に怒りが湧き上がり、私は波打ち際に駆け寄った。革靴が脱げる。気にしない。思いきり叫ぶ。叫んぶつもりで口を開ける。


――嫌いだ! 嫌いだ! 嫌いだ!


 声を出せないまま、無様に口を開け閉めしている。のっぺりとマイペースな海。どうしようもなく悔しくて、悲しくて、岩の上にしゃがんで顔を伏せる。暗闇を見つめる。なんで。嫌いだ。咲晴を返してよ。大風が吹く。髪が乱れるのなんてどうでもよかった。石にでもなってしまいたかった。波の音が痛いほど大きくなってくる。頬に飛沫が散る。

 気づけば大波があった。波頭が真っ赤に輝く。瑠璃色に散る。翠を見せる。花束のようだった。透き通った海水の中に雲母や砂粒が散っていた。全部がきらきらと乱反射して、まるで透明な花園のようだった。たった一度だけサーフィンについて行ったとき、あいつもこんな大波の上を滑っていたっけ。浜辺からでもはっきり見えた。体を傾けて、心地よさそうに白い歯を輝かせて――咲晴の笑い声が聞こえた。波に飲まれる。咲晴と抱き合ってるみたい。両手を広げる。波が私に抱き着いて体が引っ張られ、足が滑る――


「危ないっ!」


 渦巻く引力は私の靴だけを奪って海に帰っていった。ずぶ濡れで振り返ると恵美さんが私を見返して、ほっとしたように笑った。咲晴と同じ笑い方だった。


「良かったぁ」


 涙が滝のように流れ出て嗚咽が漏れた。私は恵美さんの腕の中で声を出して泣いた。泣きじゃくった。恵美さんも泣いた。夜になり、二人で泣き疲れて眠って、翌朝風邪を引いた。熱に浮かされたまま聞く波の音はなぜか心地よかった。




 あれから三年。私は晴通さんの経営する海の家で働いている。窓辺の生け花はなかなか評判らしい。今日も海に咲く花を想いながら生ける。


「……お母さん、今日傑作作っちゃったかも」


そう笑いかけると、さくらも笑う。咲晴にとても良く似ている。

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