海に咲く花
蛙鳴未明
海に咲く花
『ずっと花なんかいじってないでさ、海行こうぜ海』
『なんかってなによ。行かない。海なんか嫌いだもん』
『拗ねんなよみのりぃ……海にも花は咲くんだぜ? 俺という花が!』
『なにそれ。ばっかみたい』
『馬鹿みたいでも息抜きにはなるだろ? 最近ずっと仕事してて疲れてんじゃないの。行こうぜ海。リフレッシュリフレッシュ。サーフィン教えるぜ?』
『咲晴には関係ないでしょ』
『関係なくねえよ。みのりが心配なんだよ』
『心配なら私のことほっといて』
『ごめんて、みのり。機嫌直してくれよ……そうだ次の週末とか――』
『出張あるから無理!』
私はカフェから飛び出して――なんであんなにいらいらしてたんだろう。お花のお仕事が忙しくなって心がいっぱいいっぱいになってた。でもあんな突き放すようなこと――素直に行けばよかった。本当はずっと一緒にいたかったのに――
咲晴の家はいつもと変わらなかった。背が低く、白壁が明るかった。海の香りがした。あいつの車が、駐車場に少し
潮にさらわれて――助けた時にはもう息がなくて――あいつ泳ぎうまかったのに――震える声が遠かった。床を踏んでいる気がしない。腰から下が無いかもしれない。
咲晴は座敷の中央で寝ていた。咲晴とは思えないほど寝相がよかった。白布の下に隠れた顔は本当にあいつだろうか。影のような人々の間を縫い、溶け崩れるように彼のそばに座る。白布を上げる。
咲晴の顔はいつもと違った。あいつは微笑を知らなかった。もっと子どもっぽく大きく口を開けて笑ってた。日に焼けた顔をめいっぱい崩す人だった。でも、確かにこの人はあいつだ。咲晴だ。白布を戻す。無駄だと分かっているけれど、あの笑顔が浮かんでこないかと期待する。
ごめんなさいねみのりさん。婚約までさせていただいたのに……
初めて
夕暮れだった。砂浜にモノクロの波が打ち寄せていた。磯のかおりは死のにおいと同じらしい。小さい頃のことを思い出す。波打ち際で花輪を作ってたら大波にさらわれた。息ができなくて体が動かなくて怖くてたまらなくて――助けてくれたのがあいつだった。咲晴は好きだ。海は嫌いだ。死をたっぷり詰めてどす黒い。私をさらう。咲晴を奪う。あいつは海を好きになる分もっと私を好きでいればよかったんだ。そうすれば――
――嫌いだ
呟く。波の音がうるさい。耳をふさいで叫ぶ。
――嫌いだ!
頭の中でわんわん跳ね回る。海は知らん顔して揺れている。海の上にも花は咲く? なんて、なんてバカげたこと。海は咲晴を摘み取った。急に怒りが湧き上がり、私は波打ち際に駆け寄った。革靴が脱げる。気にしない。思いきり叫ぶ。叫んぶつもりで口を開ける。
――嫌いだ! 嫌いだ! 嫌いだ!
声を出せないまま、無様に口を開け閉めしている。のっぺりとマイペースな海。どうしようもなく悔しくて、悲しくて、岩の上にしゃがんで顔を伏せる。暗闇を見つめる。なんで。嫌いだ。咲晴を返してよ。大風が吹く。髪が乱れるのなんてどうでもよかった。石にでもなってしまいたかった。波の音が痛いほど大きくなってくる。頬に飛沫が散る。
気づけば大波があった。波頭が真っ赤に輝く。瑠璃色に散る。翠を見せる。花束のようだった。透き通った海水の中に雲母や砂粒が散っていた。全部がきらきらと乱反射して、まるで透明な花園のようだった。たった一度だけサーフィンについて行ったとき、あいつもこんな大波の上を滑っていたっけ。浜辺からでもはっきり見えた。体を傾けて、心地よさそうに白い歯を輝かせて――咲晴の笑い声が聞こえた。波に飲まれる。咲晴と抱き合ってるみたい。両手を広げる。波が私に抱き着いて体が引っ張られ、足が滑る――
「危ないっ!」
渦巻く引力は私の靴だけを奪って海に帰っていった。ずぶ濡れで振り返ると恵美さんが私を見返して、ほっとしたように笑った。咲晴と同じ笑い方だった。
「良かったぁ」
涙が滝のように流れ出て嗚咽が漏れた。私は恵美さんの腕の中で声を出して泣いた。泣きじゃくった。恵美さんも泣いた。夜になり、二人で泣き疲れて眠って、翌朝風邪を引いた。熱に浮かされたまま聞く波の音はなぜか心地よかった。
あれから三年。私は晴通さんの経営する海の家で働いている。窓辺の生け花はなかなか評判らしい。今日も海に咲く花を想いながら生ける。
「……お母さん、今日傑作作っちゃったかも」
そう笑いかけると、さくらも笑う。咲晴にとても良く似ている。
海に咲く花 蛙鳴未明 @ttyy
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