もう少し

仁城 琳

もう少し

駅前で手を上げる女が一人。やはりこの時間でも駅の近くなら客がいる。運転手は女の前で停車するとドアを開く。女が乗り込む。

「お客さん、どこまで?」

「…まずはS山の近くまで。その先は道順を言うのでその通りに進んでいただけますか。」

「かしこまりました。」

タクシーが走り出す。帰宅途中だろうか。S山の近く。なるほどこの時間ならバスは出ていない。最寄りと言ってもこの駅から徒歩で帰るのは難しいだろう。

「お仕事終わりですか?こんな時間まで大変ですね。お疲れ様です。」

女から返答は無い。あまりコミュニケーションを取りたがらない客だろうか。運転手は最低限の会話だけにとどめようと決める。

そろそろS山だ。運転手は女に声を掛ける。

「お客さん、そろそろS山ですが。この先はどう進みましょう。」

「そのまま山に入ってください。」

「…え?」

S山の中に家なんて無いはずだ。こんな夜に山の中に何の用事だろうか。詮索するのも良くないと思いつつも運転手は尋ねる。

「お客さん?山に入るんですか?」

「そのまま山に入ってください。」

女は同じことを繰り返す。運転手は仕方なく従うがここで嫌な予感がする。もしかしてこれはよくあるあれではないか。

よくあるあれ、とはタクシー運転手なら、いや、そうでなくても聞いたことがあるだろう。『乗せた客が既にこの世のものではなく、目的地に着く頃には客は消え、客が座っていた後部座席が濡れている』俺はまさに今それを体験してしまっているのでは。運転手はゾッとした。ミラーで後部座席を確認する。女はまだそこにいる。こんな時間に幽霊を乗せて山奥に…。運転手は恐怖に襲われるが誤魔化すように女に話しかける。

「こんな時間に山ですか。昼の方が景色もいいし気分がいいと思いますがねぇ。」

わざと明るい声を出す。

「そのまま。道なり進んでください。」

女は運転手の声など聞こえなかったかのように指示を出す。運転手は背筋が寒くなるのを感じながら言われた通りにタクシーを走らせる。

S山は海沿いにあり、ある程度登ったところから見る景色が絶景で昼間は観光地として密かに人気がある。しかし、そこから飛び降り自殺をする人も多く、自殺の名所としても知られている。その為多くの人は夜間はS山に近付きたがらない。運転手もそのうちの一人だった。俺が乗せているのは幽霊じゃないか?客を下ろして一刻も早く引き返したいが、このような場所に、しかもこんな夜に女性を山中に置き去りにする訳にはいかない。…この女性が『生きている人間』であれば、の話だが。

「もう少しスピードを上げてくださる?」

「え、えぇ。」

「急いでいるので。」

客を一刻も早く目的地まで送り届け、こんな山から出て行きたい。ありがたい申し出だった。法定速度

「早く。」

「そのまま真っ直ぐ。」

「もっと早く。」

など無視してスピードを出す。運転手は恐怖からパニックになっていた。思い切りアクセルを踏む。その時だった。

「うわぁ!!」

目の前から道が無くなる。急いでブレーキを踏んだ。タクシーはギリギリで崖から落ちずに停止した。

運転手の心臓は口から飛び出してしまうと感じるほどに早く強く鼓動していた。

「あともう少しだったのに。」

ぼそりと女が呟く。運転手が恐る恐る振り返ると…いる。女は後部座席に座っていた。あれ。人間なのか…?幽霊ではない…?

「ここで下ろしてください。」

「…はぁ。」

運転手は放心状態でドアを開ける。女は金を渡し、タクシーを降りようとする。その時。

「運転手さん。私の事、幽霊だと思ったでしょう。」

「…えっ、いやぁ…。」

「一人は怖かったから。誰かと一緒なら大丈夫だと思ったんだけど。落ちなかったものね。仕方ないわね。一人で逝けってことね。ふふ。」

笑いだした女に運転手は恐怖を覚える。早くこの状況から抜け出したかった。女が何を言っているのか分からない。

「本当は運転手さんに一緒に来てほしかったのよ。一人は怖いもの。仕方ないわね。ふふ。…ずっと独りなのね私は。」

運転手の身体はガクガクと震えている。

「運転手さん。私は幽霊ではありません。ふふ。これからそうなるかもしれませんけど。ふふふ。」

女はそう言い残すと、崖に向かって歩き出す。まずい。運転手はそれを見て正気を取り戻した。あの女は飛び降りるつもりだ。ドアを開けてはいけなかった。運転手は慌ててタクシーから降りた。

「お客さん!待ってください!駄目ですよ!!」

運転手の声など聞こえていないように、女は崖に近付き、そのまま崖の下へと姿を消した。



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